「就職先、母子家庭の金融関係はダメ」差別の苦難を乗り越えて…84歳の戦争遺児が語る“戦争の記憶”
太平洋戦争で父を亡くし、一度もその顔を見ることができなかった大分市の小野幸子さん(84)。戦後の混乱期の中で母子家庭への偏見や差別に晒されながらも、力強く生き抜いてきました。80代になってから「平和の語り部」としての活動。亡き父への思いと、次世代へ託す平和への願いを追いました。
【写真を見る】「就職先、母子家庭の金融関係はダメ」差別の苦難を乗り越えて…84歳の戦争遺児が語る“戦争の記憶”
出征10日後に生まれた娘
小野さんの父・繁さんは1941年、太平洋戦争に出征。激戦地として多くの犠牲者を出したビルマ戦線で4年後の1945年、33歳の若さで戦死しました。
小野さん:
「お父さんは出征してから10日目に私が生まれたので、写真でしか知りません。父が優しかったというのは、母からも近所、兄弟からも聞いているので、良いお父さんだったんだなと思っています」
――会ってみたかったですか?
「それはもうずっとあります。私たち遺児としては、みんなそうだと思います。お父さんがいたらいいな…そういうのはずっと一生あると思います」
両親の結婚生活はわずか10か月余りでした。父親を失った小野さんは、母・静子さんとともに戦後の混乱期を生き抜いてきました。
小野さん:
「母は働いている姿しかなかったですね。働きどおしで、私は母が帰ってくるまでにお湯を沸かしたり、洗濯物をたたんだり、小学生の頃から家事をするのは当たり前。お母さんが休みの日はとにかくうれしかったです。2人であちこち行けるような余裕はなかったけど、休みと言ったらうれしかったですね」
就職活動…母子家庭は金融関係ダメ
母の弱音を見たことがなかったと振り返る小野さん。しかし、戦後社会の中で戦争遺児ゆえの偏見や差別にも直面してきました。
小野さん:
「就職活動で担任の先生から『母子家庭は金融関係はダメ』と言われ、どうして?と聞いたら『お金をたくさん銀行で見たらほしくなるから』と。そういう差別があったような気がします」
終戦後、国の調査で記録された全国の戦争孤児は12万人余り。小野さんは日本遺族会の仲間とともに、遺児たちが受けてきた不当な扱いを集めました。
※実際の記述抜粋
「村人から『戦死はお金をもらえていいね』と言われた」
「おじさん、おばさんから『食いぶちが増える』と言われた」
「父なし子と言われた」
「片親育ちは不採用という差別があった」
小野さん:
「いろいろ苦労してきて、今になってやっと話せることはありますよね」
軍服のポケットに忍ばせた写真
戦争の悲惨さを次世代に受け継ぐため、小野さんは3年前から「平和の語り部」としての活動を始めました。
小野さん:
「父は私の写真を軍服の内ポケットにしまい、毎朝取り出して『おはよう』と声をかけていたそうです。それ以来、遠くにいた父が一番身近にいて、私を守ってくれていることに気がつきました」
「今は娘も結婚し、孫も2人穏やかな生活を送っていられるのも、亡き父、母、主人が見守ってくれていると思います。お父さんには、この話を世間に伝えることが親孝行になるんかなと。そのために語り部をやはり続けなければいけないという思いです」
小野さんの娘・利子さんは、とともに、家族の思い出が詰まった近所の神社へと足を運びました。
娘・利子さん:
「戦争で亡くなったおじいちゃんの話を小さいころから聞いているので、身近に感じています。そばで見守ってくださいということを思いながらお参りしています」
小野さん:
「大きい希望じゃなくても、みんなが平凡な1日が過ごせればいいと思っています。戦争をしてはいけないという気持ちになってほしいし、それが私たちの望みです」
終戦から81年。小野さんは静かに、力強く訴えます。

