経験を積んだドライバーほど、まずは観察を優先する。バックミラーで二人の様子を確認しながら、信号待ちなど自然なタイミングでさりげなく声をかけ、女性が自由に反応できる状態なのかを見極める。視線の動きや表情、返事の有無など、わずかな変化も重要な判断材料になる。

もし、女性が助けを求める意思を明確に示したり、犯罪を強く疑わせる状況が確認できたりすれば、安全を確保したうえで110番通報や営業所への連絡など、状況に応じた対応を取ることになる。一方で、最後まで決定的な異変は確認できず、そのまま目的地へ到着するケースも少なくない。

だからといって、そのまま忘れるわけではない。乗車時刻や降車場所、乗客の特徴を記録し、必要に応じてドライブレコーダーの映像を保存しておく。後日、警察から照会があった際、捜査の手がかりとなる可能性があるからだ。ドライバーに求められるのは、憶測だけで動くことでも、見て見ぬふりをすることでもない。限られた情報の中で冷静に状況を見極め、安全を最優先にしながら、その瞬間に取り得る最善の判断を積み重ねることである。

◆巧妙化する乗り逃げの手口

高額な乗り逃げがたびたびニュースになっている。運賃が数万円単位に膨らんだ末、目的地に着くなり客が走り去るという事件が報じられるたび、業界内では「またか」という空気が流れる。実際の現場で最も多いパターンは、客が「今、手持ちがないので家に取りに行くか、近くのコンビニで下ろしてくる」と申し出るケースだ。ここで律儀にそのまま行かせてしまうと、戻ってこないケースもある。

こうした事態を見越して、多くのドライバーは「では、こちらのバッグや上着、スマートフォンなどを置いてもらってもよろしいですか」と、人質ならぬ担保として何か物を置いていってもらう習慣を身につけている。ところが最近は、この対策自体を見越した用意周到な乗り逃げ犯もいるそうだ。あらかじめ足がつかない、失っても惜しくない安物のバッグや使い古しの上着を担保用に用意しておき、それを置いて悠々と姿を消すのだ。

「お金を取りに行く」と言われた時点で怪しいと感じたら、その場で警察に連絡し、戻ってくるまで立ち会ってもらう対応を取るドライバーも増えている。もっとも、常習的な乗り逃げ犯は、そのあたりの機微を熟知している。狙うのは、数千円程度の運賃だ。ドライバーが「この程度なら」と泣き寝入りしやすい金額を見極める。「この金額なら通報するより営業を続けた方が早い」という心理を突いてくる。現場では、防ぐ側と逃げる側の知恵比べが、今も続いている。

◆凡事徹底こそが安全の近道

ドライバーは警察官でも警備員でもない。安易に介入すれば、自らの身を危険にさらすだけでなく、状況を誤認して無関係な乗客とのトラブルを招く可能性もある。だからこそ、現場で培われてきたのは、「観察し、記録し、必要に応じて通報する」という、一見地味だが実効性のある対応である。

ドライブレコーダーの映像は、自身を守る重要な証拠となる。異変を感じた際には、無線やチャットで営業所や仲間に状況を伝え、必要であれば乗客に気づかれないよう、信号待ちや降車後のわずかな時間を利用して110番通報を行うこともある。また、その場で見聞きした内容をできる限り正確に記憶し、後から警察へ説明できるよう備えておくことも重要な仕事だ。

冒頭の動画のあの数十秒の車内で、ドライバーが何を見て、何を考えていたのかは映像だけでは分からない。声をかけなかったことが判断の放棄だったのか、それとも乗客を刺激しないための冷静な判断だったのかを、第三者が断定することもできない。

タクシーの運転席は、乗客の人生の断片が否応なく流れ込んでくる場所である。その多くは表に語られることなく過ぎていくが、いざという時に備え、目を配り、状況を記憶し、冷静な判断を積み重ねている。今回の動画が多くの人に違和感を与えたのは、それだけ「もし事件だったら」という不安を抱かせる内容だったからだろう。そして同時に、限られた情報しか持たないドライバーが、どこまで介入すべきなのかという難しい課題を改めて問いかけている。

<取材・文/二階堂運人>

【二階堂運人】
物流ライター。ライター業の傍らタクシードライバーとして東京23区内を走り回り、さまざまな人との出会いの中から、世の中の動向や世間のつぶやきなど情報収集し発信する。また、最大手宅配会社に長年宅配ドライバーとして勤務した経験とネットワークを活かし、大手経済誌のWEB版などで宅配関連の記事も執筆する。タクシー・宅配業界の現場視点から、「物」・「人」・「運ぶ」・「届ける」をそれぞれハード(荷物・人)だけではなく、ソフト(心と気持ち)の面を中心に記事を執筆中。ブログ「二階堂運人ホームページ」