「特攻の父」と呼ばれた大西瀧治郎・海軍中将の妻が生涯をかけた「贖罪と慰霊の旅」 遺された彼女はただ祈り続けることしかできなかった
今年も戦争と平和に思いを馳せる季節となった。1945年の敗戦によって職を失った軍人たちは、苛酷な「第二の人生」を送ることを余儀なくされた。しかし、戦争に翻弄されたのは男だけではない。「銃後」を支えた妻たちも、それぞれに激動の戦後を過ごした。
【写真】1974年、「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、京都の撮影所に招かれた大西淑惠氏
「特攻の父」とも称される大西瀧治郎海軍中将夫人・淑惠もその一人である。この度、『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館新書)を上梓したジャーナリストの神立尚紀氏がその波乱の人生を紹介する。(本文敬称略)
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いた」
終戦の翌年、1946年11月9日、東京・築地本願寺で海軍第十三期飛行専修予備学生の戦没者慰霊法要が営まれた。
第十三期予備学生は、1943年10月に入隊した5199名のうち、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。
広い本堂は遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに沈む遺族の姿に、生き残った者たちの「申し訳ない」という贖罪の思いがつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。
その女性は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」と、土下座して謝罪した。
彼女こそ大西瀧治郎海軍中将の妻、淑惠だった。
突然のことに、声を発する者は誰もいない。われに返った十三期生の誰かが、「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。
これが大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
路上で行き倒れたことも
大西中将は1944年10月、フィリピンで最初の特攻出撃を命じ、1945年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹した。
遺書には、戦争継続を主張していたとは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
淑惠は死んだ夫に代わる慰霊の旅を、築地本願寺の法要後も続けた。暮らしは楽ではない。家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売、次に飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない生活だった。
1947年8月上旬のある日、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、通報を受けて応急手当をしたのが、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査だった。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部はのちに語っている。
1955年、日下部は、旧知の元零戦搭乗員・坂井三郎の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねる。そこであの行き倒れの婦人と再会、彼女が大西中将夫人であることをはじめて知った。
坂井の元上官で、戦死した笹井醇一中尉が大西夫妻の甥だったという縁で、淑惠はしばらくの間、坂井の会社の名目上の社長を務めていたのだ。
日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠には、大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するという願いがあった。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、1951年の七回忌に、と思ったが間に合わなかった。だがこの頃から、大西を知る人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現われるようになった。
大西中将は、特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。
大西自身も死ぬ気で命じていることは部下にも伝わっていたし、終戦のとき、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
そんな旧部下たちからの協力も得て、1952年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいが大西の墓と観音像が完成し、法要が営まれた。
その後、1962年には「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓が再建されて法要が営まれた際、淑惠が参会者に述べた挨拶を日下部が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった……」
1960年頃、淑惠は香文社の経営から身を引き、抽選で当たった東中野の公団アパートに住むようになる。
そこには特攻作戦の渦中に大西中将の副官を務めた門司親徳(戦後興銀取締役、丸三証券社長)をはじめ、日下部や元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があったという。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
「慰霊祭の席でも、奥さんの挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司は振り返る。
1975年8月、淑惠は特攻隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへと渡る。現地の人たちの予想以上の手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌1976年にも慰霊団に加わったが、1977年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。
病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。
香文社時代の同僚、遠縁の娘などが献身的に淑惠の世話をした。日下部は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
1978年2月6日、午前中に門司が病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。
「苦しくないですか?」
目を開けたとき、門司がたずねると、淑惠は小さく首をふった。そして、しばらくたって、上を向いたまま、「わたし、とくしちゃった……」と、小さくつぶやいた。
子供のようなこの一言が、最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことだった。
2月18日、總持寺で淑惠の葬儀が執り行なわれた。第一航空艦隊先任参謀だった詫間力平が葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。
納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいた。
責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を誠実に、懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
【プロフィール】神立尚紀(こうだち・なおき)/1963年、大阪府生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒。1995年、戦後50年を機に戦争体験者の取材を始め、以後、インタビューした旧軍人、遺族は500人を超える。著書に『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)など。
※週刊ポスト2026年8月14・21日号
