名将たちの甲子園初出場物語
吉田洸二(後編)

 3回表を終えて7点のビハインド。くっきりと見えていたはずの甲子園の輪郭が、今は蜃気楼のように頼りなくゆらめいていた。

 清峰の吉田洸二監督は、ベンチで落胆を隠しきれずにいた。

「なんで7点も取られるんだろう......?」


大逆転で瓊浦を破り、春夏通じて初の甲子園出場を決めた清峰ナイン photo by Nikkan sports

【7点差を逆転して甲子園出場】

 その前年、あと一歩で甲子園を逃した2004年夏の長崎大会決勝も、投手起用がやり玉に上がっていた。そして、この夏の決勝戦もエース・古川秀一(元オリックス)をリリーフに回し、序盤から大量失点。スタンドからの怒号はやまなかった。吉田監督は「2年続けて試合を壊してしまった」と、責任を背負い込んだ。

 ところが、主将の大石剛志はあきらめていなかった。3回裏の攻撃を前に、選手たちを集めて懇願するように訴えた。

「俺たちは最後の甲子園のチャンスだから、悪いけどデッドボールでいいから塁に出てくれ。(3番打者の)俺と(森)大雅(たいが/4番打者)で還すから!」

 大石は実際に安打を放って出塁すると、森の適時二塁打で生還する。すると、意気消沈していたチームは息を吹き返した。大石の言葉どおり、内角の厳しい球を巧みにかわしながら死球をもぎ取る打者もいた。5回裏には森が左翼へ特大本塁打を放ち、7回裏には一挙6得点の猛攻。試合をひっくり返した。

 吉田監督にとっては、衝撃的な試合展開だった。

「私たち指導者が扉を開けたわけではなくて、3年生の精神が後輩たちに乗り移って、みんなが一気に奮い立った感じでした」

 3回途中からリリーフした古川は1失点と好投し、試合は13対8で清峰が勝利する。吉田監督にとっても、清峰にとっても初の甲子園。だが、吉田監督は歓喜の瞬間も「ほとんど覚えていない」と言う。

「覚えているのは、選手が校歌を歌っている時に叩きつけるような豪雨が降ってきたことと、応援スタンドに挨拶をしたあとに清水先生(央彦/現・大崎監督)と抱き合ったことだけ。私は体が小さいので、長身の清水先生の胸あたりに顔がきて、息ができませんでした」

 閉会式を終え、長崎市内から清峰高校のある佐々町まで約2時間をかけてバス移動。町民体育館に入ると、世界が一変していた。

「扉を開けた瞬間、『うわ〜っ!』と狂喜乱舞する町のみなさんの姿があって。監督からひと言どうぞと言われて『みなさんこんにちは』と言っただけで、拍手喝采。人生であれほどの拍手を浴びたのは初めてでした。あの光景は一生忘れません」

【選抜王者に無欲の大金星】

 喜びも束の間、すぐに甲子園はやってくる。初めての甲子園の景色は、どのように見えたのか。そう尋ねると、吉田監督は意外なエピソードを語り始めた。

「じつはその1年前に、甲子園の試合を見にいっていたんです。上甲さん(正典/元済美監督)に憧れて、自分も指導スタイルを変えようかと思っていた時期で。切符売り場に並んでいたら、熱心な高校野球ファンの方から『清峰の吉田監督ですか?』と声をかけられて、済美ベンチ横の最前列の席で試合を見させてもらったんです(当時の甲子園は自由席)」

 一世を風靡した「上甲スマイル」の本質を学ぼうと身構える吉田監督だったが、意外なことが起きた。突然、上甲監督がスタンドの吉田監督に話しかけてきたのだ。

「どこから来たの?」

「長崎で高校野球の監督をしています」

「へぇ〜」

 たったそれだけの会話だった。それでも、吉田監督にとって雲の上の存在と同じ空気を吸った、貴重な経験だった。

 組み合わせ抽選の結果、清峰の初戦の相手は愛工大名電(愛知)に決まった。同年春の選抜王者である。

 吉田監督は満面の笑顔で当時を振り返る。

「『名電だけは引くなよ』と言っていたのに、引いてきたから爆笑でしたよ。もちろん『勝とう』なんて思っていないし、『いい試合をしよう』とも、『みっともない試合だけは避けよう』とも考えていませんでした。ただ、もう二度と出られないのだから、人生最後の甲子園を楽しもうという思いだけでした」

 愛工大名電はタレント揃いだった。投手は齊賀洋平(元JX−ENEOS)、十亀剣(元西武)がおり、野手には柴田亮輔(元オリックス)、堂上直倫(元中日)と全国区の選手が並んだ。さらに、当時の愛工大名電のお家芸は、徹底したバント戦法。清峰はエースの古川がフィールディングを苦手としており、相性が悪い相手だった。

 そこで、清峰ベンチは思い切った戦術に出る。古川に対して「動くな」と指示を出したのだ。吉田監督がその真意を明かす。

「古川の守備では、バントが全部セーフになってしまいます。だからピッチャーは動かず、守備のうまいファーストとサードに全部処理させろと伝えました。バスターされた場合はしょうがないと」

 この奇策は功を奏する。結果的にこの日に愛工大名電が喫した39アウトのうち、バントでのアウトは10個にのぼった。また、古川にバント処理をさせないことで、体力を温存できる副作用もあった。吉田監督は試合途中から、「バントされるほうが助かる」という心境になっていた。

 古川の粘り強い投球もあり、試合は2対2のまま延長戦に突入。延長13回表に古川が自らのバットで決勝点を叩き出し、清峰が4対2と勝利。まさに無欲の大金星だった。

【上甲監督率いる済美にも勝利】

 たとえ愛工大名電のユニホームを前にしても、清峰の選手が臆することはなかったと吉田監督は証言する。

「知らないって怖いですよね。清峰の子たちは、県外のどのチームが強いかなんて知らないんです。あのPL学園だって、まったく知らなかったんですから」

 余談ながら、愛工大名電の2番手として好リリーフした十亀は現在、西武のスカウトとして山梨学院に出入りする。吉田監督とは当時の思い出話に花を咲かせることもあるそうだ。

 清峰の快進撃は1試合では終わらなかった。2回戦では、済美(愛媛)と対戦。2004年春の選抜優勝校であり、吉田監督が甲子園まで勉強しにいった奇縁もあった。この試合、清峰は9対4と快勝している。

 済美戦については、後日談がある。上甲監督は「なぜ県立校に負けたのか」と謎を解き明かすために、のちに清峰を訪れたという。冬場の練習をひとしきり視察したあと、上甲監督はポツリとこう漏らした。

「日本一は時間の問題だな」

 驚いた吉田監督が理由を尋ねると、上甲監督は笑顔でこう答えたという。

「こんなにきつい練習を笑ってやってるんだから。甲子園は常軌を逸した人間しか優勝できないんだよ」

 その後、清峰は今村猛(元広島)を擁して、2009年春の選抜で優勝を飾る。名将の予言は的中したのだった。

 2005年夏の清峰は、3回戦で大阪桐蔭に1対4で敗れた。辻内崇伸(元巨人)、平田良介(元中日)、中田翔(元日本ハムほか)を擁した大型チームだった。西谷浩一監督は吉田監督と同学年であり、のちに同期会で親交を深めることになる。

【山梨に来てからは苦しいしかない】

 21年前の夏について、吉田監督は「とにかく楽しかった」と総括する。そして、ポツリとこんな本音を漏らした。

「その後も甲子園はいつも楽しかったんです。でも、山梨に来てそれが真逆になりました。ずっと『苦しい』しかない」

 公立校を立て直して甲子園に導くことと、強豪私立校を勝たせることは、別種の戦いなのだろう。

 2013年に山梨学院の監督に就任した吉田監督は、その後、長男の健人が学生コーチ、さらに野球部長として加わり、親子で指導タッグを組んで実績をあげてきた。2023年春には山梨県勢初の甲子園優勝を達成。2校で甲子園優勝に導いた監督は、吉田監督で4例目になる。

 長崎での教員生活を振り返って、吉田監督は「先生らしいことができたのかわからない」と意外な心境を明かした。

「山梨に来てからのほうが、先生らしい指導ができるようになったと思うんです。選手が失敗しても、長い目で見られるようになった。長崎ではただひたすら突っ走ってきたので、あれが子どもたちにとってよかったのかわからないんです」

 そして、吉田監督はひと息ついてから、こう続けた。

「でも、我ながらあの情熱だけは褒めてやりたいです。あの熱量はもう出せないし、フル放出したからといって、必ずしもプラスになるかどうかもわからない。でも、いま振り返ってみると、とんでもないことをやってしまったんだなと思います」

 甲子園で公立校が優勝したのは、2009年春の清峰が最後である。

 生徒指導の手腕を買われたはずの熱血教師は数々の出会いを運命に変え、歴史に残る奇跡を起こしてみせた。

菊地高弘●文 text by Takahiro Kikuchi