JRT四国放送

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1945年7月4日、約1000人もの尊い命を無差別に奪った徳島大空襲から、4日で81年です。

あの日の記憶は決して消えることはありません。

当時7歳だった2人に、体験談を伺いました。

2人は今も戦争の絶えないこの世界をどう見ているのか。

そして、平和への思いとは。

それは太平洋戦争末期の1945年、7月4日未明のことでした。

(徳島大空襲を経験・ 魚野宰弘さん〈88〉)
「突然、ドカーンという大きな音で」

アメリカ軍のB29爆撃機129機が徳島に現れ、約1000トンの焼夷弾を投下したのです。

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん〈88〉)
「焼夷弾が、パタパタと落ちてきて」

約1000人の尊い命が奪われた、徳島大空襲から81年。

当時7歳だった2人が、あの日を振り返ります。

板野町吹田。

最も被害が大きかった、徳島駅周辺から10キロほど離れた場所です。

(記者)
「空襲があった日は、どこから見ていた」

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん)
「家がここだった。起こされてそこに土手があって、今は土手がなくて全然見えないが、この方向から良く見えた」
「こっちから艦載機が飛んできた。あの山の方から下りてきた」

(記者)
「あっちから?」

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん)
「あの山から急降下してきて、結局撃たなかったが」

岸本宏美さん88歳。

あの日、岸本さんは7歳になったばかりでした。

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん)
「(関西から来た)おじさんが、たまたま家に来てた」
「夜中に起こされて察知したんやろね空襲を、離れてるけど起こしてくれて近くの土手上がってみた」

(記者)
「見た時の光景は?」

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん)
「眉山の上の方に飛行機が飛んでいて、炎で照らされて赤くなっていた」
「そこから焼夷弾が落ちてきて、広がって落ちているのが見えた、下は燃えているから炎。そんなのが遠方から見えた」

81年が経ったいまも、当時の記憶は鮮明に残っています。

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん)
「(B29には)10人くらい乗ってるんかな、この辺から撃つ人もいる。焼夷弾をパラパラと落としていく」

(記者)
「当時、下から見ていた」

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん)
「遠いところからね、これくらいの大きさに見えた」

(記者)
「見たら恐怖だと思うが?」

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん)
「その時はそう思わなかった、(恐ろしさを)知らなかった」
「飛行機が飛んできて、作業してる人を狙ってまともに降りてきた。家から150メートル離れてるかな」
「その人は耳が遠かったから、飛行機が来てることを知らずに仕事をしていた」
「艦載機が飛んできて、撃たれないかなと思いながら、スッと行って助かった」

母と見た、あの日の光景。

岸本さんは、わずか7歳にして「死」を意識しました。

彼方に見えた戦火は、今も心の中で燃え続けています。

あの日から81年。

何故、この世界から戦争はなくならないのか。

(徳島大空襲を経験・ 岸本宏美さん)
「戦争は卑怯やし、無駄やし、勿体ないと思う」
「焼夷弾も人を殺すために開発した兵器、それを夜中に落として下で困っている人がいっぱいいた」
「それを承知で、戦争だから落としていく。今でも何であんなことをするんだろうと思う」

魚野宰弘さん88歳。

魚野さんもまた7歳で、徳島大空襲にあいました。

徳島市中心部の通町で時計商を営む両親のもとに生まれ、当時、家族6人で暮らしていました。

(徳島大空襲を経験・ 魚野宰弘さん〈88〉)
「突然ドカーンという音で、大地震みたいになって、『秋田町に焼夷弾が落ちた』という声が聞こえた」
「私、急いで家飛び出して行きました。そしたら、ものすごい大きな穴が空いてて、何にもないんです」

約1000トンの焼夷弾が落とされた徳島市。

幼い魚野さんも、未明の町を行く当てもなく逃げまどいました。

(徳島大空襲を経験・ 魚野宰弘さん)
「逃げる途中に焼夷弾がバラバラ落ちている。40~50メートル先にある年寄りの方が歩いているときに」
「黒い塊がその人の頭にズドーンと落ちて、バタッと倒れた、それが不発弾だった」
「そこから、私の記憶はパッと飛んでしまって」
「気が付いたら吉野川河口にある、ヨシがいっぱい生えている川の水の中に浸かって、市内の方を見ているところから記憶が戻った」
「その時、市内は燃え盛っていて一面(炎で)橙色です」

忘れられない景色があります。

(徳島大空襲を経験・ 魚野宰弘さん)
「死体を運び込んだのではないかと思うが、そのにおいが入り混じって今でも思い出すほどの、ものすごい異様なにおいで満ちていた」
「『空の色』と『におい』と、これだけは一生忘れることはない」

家は焼かれ、すべてを失った魚野さん一家の生活は一変しました。

(徳島大空襲を経験・ 魚野宰弘さん)
「(空襲から)1年か2年経って配給がある。私の家族は6人家族、10日に一回2合なんです、そんな配給です」
「持って帰って雑炊といっても、米これだけ入れても、もう溶けてしまってないような状況」
「米の食事は7~8年、食べたことがなかった」

人並みの暮らしに戻るまで、10年ほどかかりました。

魚野さんを支えたのは、戦争で散った兄や両親を通じて知り合い、自分を弟のようにかわいがってくれた特攻隊員たちの存在でした。

(徳島大空襲を経験・ 魚野宰弘さん)
「死んだらどれだけ楽かと思ったが、そのときふと頭に浮かぶのが、その人たちの顔なんです」
「この重荷を背負っている私は、彼らの人生を全部背負ってる」
「そう考えたら絶対幸せになろうと、幸せにならないと彼らに顔向けできない」

魚野さんは88歳の今も、語り部としてあの空襲の記憶を伝え続けています。

平和への祈りと、戦争のない世界への思いを込めて。

(徳島大空襲を経験・ 魚野宰弘さん)
「戦争を知らない世代が大半ですが、彼らは平和が当たり前」
「私は平和は並大抵のものじゃない、普通の平和ではないということを意識してもらいたい」

幼い2人の心に刻まれた「光景」と「轟音」と「におい」。

平和なこの国の裏側では、今も同じ悲劇が繰り返されています。

7月4日、「徳島大空襲を語るつどい」が県立総合福祉センターで開催されます。

81回目の7月4日を、平和を考える一日にしてみてはいかがでしょうか。