「四日市がきれいな街になり、夜景も注目されているけど、犠牲者がいたということだけは忘れてもらうとかわいそう。尚子がかわいそうすぎる。街がまちが良くなればなるほど、尚子が居たらな、と常に思っている。私の一番の不幸です」こう話すのは、谷田輝子さん(90)。尚子…というのは、娘の名前です。

谷田さんは9月7日、四日市公害の犠牲者を追悼する慰霊祭に出席しました。

四日市公害では、これまでに1131人が亡くなり、認定患者は2024年8月末現在で277人。

尚子さんも犠牲になったひとりです。喘息に苦しみ、四日市公害裁判で原告が勝訴した40日後の1972年9月2日、9歳で旅立ちました。

「何も楽しいことを知らずに犠牲になった女の子がいることは忘れないでほしい」と谷田さん。

それから52年…慰霊を続ける一方、時には「語り部」として、高度経済成長の歪みや、娘への思いを訴えてきました。

しかし、谷田さんはこの夏、心臓の病気で入院。2週間余り、苦痛の中にいました。慰霊祭では「尚子はもっと痛かっただろう。尚子が『母を助けてあげよう』と言っているようだったので、頑張ってこの日のために元気になりました。ここで倒れても“戦死”だと思って頑張れるだけ頑張ります」とあいさつ。

そのような谷田さん親子に関心を寄せる男性が、四日市市にいます。

男性がつくった短歌です。

生贄に 我が子奪われ 暗闇に 慟哭響き 過去につながり

忘れじと 幼子笑い 手をつなぎ あの日の野辺に 尚子と名を呼び

今に生き 過去の惨禍(さんか)に 胸痛め 祈りの塔に 花束そえて

その男性は、湯浅和也さん(65)。1987年から20年間、海星高校野球部の監督を務め、春夏合わせて8回甲子園に出場、そのうちベスト8入りも3度。名将と呼ばれました。

今は四日市市にある野球教室で、顧問として小中学生の指導にあたっています。

湯浅さんの母親は、四日市公害の認定患者でした。「気付いた頃から病院に通ったり入院したりの繰り返し。いつも表情が乏しくて能面のような、感情が表にでない寂しい感じの印象が大きかったです」と振り返ります。

湯浅さんが小学6年生の時。「12月13日、父が夜中に家に戻って来て『母ちゃんが死んだぞ』という声が響いて、それから何時間も泣きじゃくりました。寂しかったです…」

母親は、38歳で他界しました。

健康状態が優れず