文化と暴力は地続きだった…ある演奏会で味わった「ガツンと殴られたような経験」から考えたこと

写真拡大 (全4枚)

クレズマー音楽のコンサートにて

普段、音楽を聴くとなるともっぱら配信サービスばかり利用しているが、それでも時々楽器の音色を楽しみたくなる。そこで、8月のとある金曜の夜、ハンガリーの首都ブダペシュトで、クレズマー音楽(クレズメル音楽)の演奏会を聴くために出かけた。

クレズマー音楽とは、「アシュケナージム」と呼ばれる中・東欧ユダヤ人の伝統的な器楽を指し、ヴァイオリンを中心にクラリネットやツィンバロム(金属製打弦楽器)トロンボーン、チェロ、コントラバス、ドラムといった楽器でメロディアスな旋律を奏でることで成立する。トルコからバルカン半島、そして大陸ヨーロッパの東側のさまざまな民俗音楽を取り込んで発展したこのジャンルは、特に1970年代以降、アメリカやヨーロッパの各地で、かならずしもユダヤ系ではない音楽家たちによってもひろく演奏されるようになった。

ブダペシュト中心部、旧ユダヤ人地区にある人気のユダヤ料理店「スピノザ・カフェ」併設の小さな劇場が会場だった。オランダを代表する汎神論の哲学者バールーフ・デ・スピノザもユダヤ人だ。彼は東のアシュケナージムではなく、現在のスペインやポルトガルといった西欧に居住していた「セファラディーム」系だったが、東欧の世俗的なユダヤ人の間では人気があったようだ(*1)。

(旧ユダヤ人地区といっても、シナゴーグ建築といくつかのコシェル料理店が立ち並ぶ以外は、ハンバーガー・レストランやワイン・バー、パブ、ケバブ・ショップなどが所狭しと並ぶ、ブダペシュト観光の中核を成す、いわゆる「パーティー地区」である。深夜まで営業している店も多く、夏のバケーション期にはライトアップされたシナゴーグ前の通りを、多国籍の酔っ払いたちが埋め尽くすという空間でもある。)

とにもかくにも、「スピノザ・カフェ」併設のこじんまりした劇場は観客で溢れかえっていた。ひとたび演奏が始まるとあれよあれよとプログラムが進み、ハンガリー語だけでなく、東欧ユダヤ人の言葉であるイディッシュ語(すこしのロシア語も混ざりながら)、そして現代ヘブライ語の歌が続いた。観客のなかには、そうした歌を口ずさみながら応える者もいた。劇場には、どうやらハンガリーの“有名人”もいたようで、「ロベルト・C・カステル」なる人物が舞台に呼ばれ、バンドメンバーたちからマイクを渡され、一緒に歌を口ずさみながらステップを踏んでいた。

アットホームな雰囲気で、その空間に居合わせた者同士がただただ音色やメロディを楽しむ--パンデミックを経て、カフェに久々に足を運んだわたしにとっても、それは純粋に愉快な時間だった。

ハマースによるイスラエル領内への奇襲攻撃があった2023年10月7日以降、YouTubeでクレズマー音楽を再生するたびに暗い気持ちになっていた。ユダヤに関連する音楽や文化を愛でることと虐殺の間に明確な線を引くことが、気持ちのうえでなかなかできなかった。演奏会の楽しさで、久しぶりにそのような憂鬱を忘れられる--かのように思えた。

舞台にあがったその人物の正体とは…

1時間ほどで演奏が終わり、「休憩時間」の案内が流れる。その日の演目は二部構成で、後半は先ほど舞台で紹介された“有名人”カステル氏のブックトークがあるという。カフェに戻ってゆっくり食事を済ませ、会場に戻った。促されるまま前方に着席した瞬間に気付いたのは、どうやら彼らが話題にしているのはクレズマーや音楽の話ではなく、国際政治のことであるらしいということだった。イスラエル・パレスチナ情勢にも話が及ぶ。「ハマース」という単語が聴こえる。「自衛戦争」という言葉も。いかにも専門家であるという様子で、このイスラエルとハマスの戦闘が、ロシアやウクライナでの出来事につながるのか、サイバー空間でどのような攻撃が日々ヨーロッパで繰り広げられているのか、ただ意味を追うだけなら客観的にも聴こえる説明を加えていく。

急いで「ロベルト・C・カステル」の名前をスマホで検索し、とある英語のインタビュー記事にあるプロフィールに目を通した--「イスラエル民主主義研究所(Israel Democracy Institute)の元研究員で、非対称戦争、地政学および軍事革新が専門。1990年から2009年まで、イスラエル治安当局(Israeli Security Forces [どの機関かは明言せず])の役職を歴任。2009年より、文民安全保障の高官を担う。また、イスラエル国家テロ対策部門の予備の交渉人」。イスラエル情報機関シンベトの顧問という記述もみかけた。2016年からハンガリーのメディアに安全保障の専門家として出演しているとのことで、実際にYouTubeで検索をかけてみる。ロシアのウクライナ領への全面侵攻以降、今般のイスラエルのガザ地区における軍事行動に至るまで、かなり頻繁に発信を行っている様子が窺える。現在はもっぱらハンガリーで暮らし、活動しているようだ。

音楽の素晴らしさに酔いしれていた頭を、いきなりガツンと殴られたような気がした。文化と暴力は、やはり地続きだったことを思い知った。

目の前にいる人物の経歴を知って、途端にその場にいるのが苦しくなった。それでもなかなかタイミングが掴めず、結局、聴衆からの質問が始まってからしばらくして、ようやく店を後にした。

店を出て人通りの多い道を抜け、車道との分かれ道に差しかかると、ライトアップされたドハーニ街シナゴーグが視界に入ってくる。この荘厳なシナゴーグは19世紀半ばに建設された、ヨーロッパで最大の敷地面積を有するユダヤ教の宗教施設である。現在ではハンガリー・ユダヤ博物館(*2)も併設されている。第二次世界大戦時、ハンガリーの時の政権はナチスと軍事同盟を結び、枢軸側に属していたが、その間にナチスを信奉する極右グループによってシナゴーグの建物が大きく損壊するといった事件も起こった。シナゴーグの再建が進んだのは、1989年の政治・経済の体制転換(通称「東欧革命」)のあとだ。

ドハーニ街シナゴーグが位置する一角が「テオドール・ヘルツル広場」と名付けられたのは1994年のこと。政治的シオニズムの祖の名前が冠された理由は、ユダヤ教の実践の場が存在するからというだけでなく、シナゴーグを建設する際に取り壊された家屋のひとつが、ヘルツルの生家であったという事実にもよる。

(そう、テオドール・ヘルツルこと「ヘルツル・ティバダル(Herzl Tivadar、ハンガリー人は日本語と同じく姓・名の順に名前を記載する)」はハンガリー系ユダヤ人だ。ヘルツルはブダペシュトからウィーンへの移住当初、「ネオログ派」という現地マジョリティ社会への同化に肯定的なユダヤ教の立場を支持していたのだが、このネオログ派はまさにハンガリーを中心に生まれた進歩的な一派である。)

2024年1月7日から21日まで、前年10月7日のハマースの奇襲攻撃を受けて、この広場は「10月7日広場」に期間限定で改名され、イスラエルで殺害されたひとびとや人質の解放を訴える連帯が叫ばれた。改名を発表したハンガリー・ユダヤ共同体協会(Magyarországi Zsidó Hitközségek Szövetsége、通称Mazsihisz(マジヒス))のFacebook投稿には、赤白緑のハンガリー国旗と白に青星のイスラエル国旗のアイコンがともに並び、「ユダヤ人国家との連帯を表明するために、ヘルツル広場にみんなで集まろう!」という集会の呼びかけも行った。

ドイツとは異なる事情で…

「10月7日広場」の名称を経て数ヵ月が過ぎ、ふたたび「テオドール・ヘルツル広場」へと戻ったその場所をわたしが訪ねたのは、今年(2024年)の夏になってからだ。

これまでなかった、真新しいメモリアル・プレートをそこに見つけた。それは、ハンガリーにおけるホロコーストの始まりから80年が経過したことを伝える碑文が刻まれたプレートだった。

第二次世界大戦中、枢軸側ではあったものの、国としての体裁をなんとか保っていたハンガリーも、1944年にはその領土が全面的にドイツに掌握され、ナチス傀儡の極右政権が樹立した。この極右政権の協力のもと、それまでは移送を免れてきたユダヤ系住民たちも、他の国々のユダヤ人同様にいよいよ収容所に送られることになった。それからは、ほんの3ヵ月程度という短い期間に、43万人のハンガリー・ユダヤ人が絶滅収容所アウシュヴィッツ=ビルケナウ(オシフィエンチム)に移送され、その多くがガス室で命を落とした。

なぜドイツがイスラエル支持の姿勢を崩さないのか--日本でも昨今、この問題に関心が集まっている。そのなかで、ホロコーストという個人と国家を巻き込んだ大きな暴力の主体としてのドイツの戦後の複雑な有り様と、その自覚をドイツ国民に担わせたホロコーストの「想起の文化」(記憶研究の大家アライダ・アスマンの同名の著作に由来する、集団的アイデンティティの形成に寄与するような記憶文化のありかた)との関係が論じられている。

ドイツ同様に、ハンガリーも是が非でもイスラエル支持を貫く国のひとつである。「平和が第一」(*3)というスローガンを掲げるハンガリー首相オルバーン・ヴィクトル率いるフィデス政権の公式の立場は、「ハマスのテロ攻撃を最も厳しい言葉で非難し、イスラエルの自衛権を擁護する」というものである。10月7日以降、パレスチナに同情的なデモを禁ずることがほぼ間を空けずに発表された。10月13日にハンガリー在住のパレスチナ人らが組織したデモも、ブダペシュト市の警察によって解散させられた。

しかし、ドイツとは異なる点も多い。

まず、戦後に領土が東西に分裂したドイツほど複雑ではないにせよ、共産化の道を歩んだハンガリー(を含む東欧衛星諸国)では、ソ連の方針を強く反映する対イスラエル政策に追随することとなった。たとえば、ソ連のいち早い決定にならい、1949年にハンガリーもイスラエルを国家承認したかと思えば、1967年の六日間戦争(第三次中東戦争時)には冷え込んだソ連・イスラエル関係の余波として、テルアビブに開設されていたハンガリー公使館を閉鎖した。1980年代後半、これもまたペレストロイカ期のソ連の影響で、一部の文化機関の関係が再開するものの、現在に至る本格的な外交関の再開は1989年を待たねばならなかった。

戦後すぐの時期、ホロコーストを引き起こした後ろめたさから、武器輸出や経済協力といった具体的な取引を通じて関係構築に勤しんだ(西)ドイツとは違い、ハンガリーとイスラエルの間に相互のコミュニケーションを妨げる大きな懸案は存在しなかった。イスラエルにおけるハンガリー系ユダヤ人のプレゼンスという面から見ても、首相を多く輩出するようになったポーランド系やロシア(ソ連)系ほどの政治的影響力は見られない。ハンガリー国内でも、イスラエルやその他第三国への出国などを理由にユダヤ系住民は(社会主義時代を通じて)減り続け、イスラエル建国時に13万人ほどいた人口も、現在では4万人程度にまで落ち込んでいる(*4)。

他方、1967年暮れの六日間戦争後、アラブ諸国との外国関係を見直したソ連にまたもならい、ハンガリーはパレスチナとの対外関係も構築してきた。1975年にはパレスチナ解放戦線の事務所がブダペシュトに設置、そして1988年にはパレスチナを国家承認もしている。2023年10月5日には、パレスチナの臨時首都ラマラーで職務にあたる大使を任命し、二国間関係をさらに発展させる旨発表するなど、こうした背景も(パレスチナを国家承認していない)ドイツなどの西欧諸国とは大きく異なる(*5)。

そうかと思えば、米国トランプ政権下で起こった大使館のエルサレム移転よろしく、2020年にはハンガリー対外通商部(公的政府機関)をエルサレムに設置するなど、イスラエル右派政権が喜ぶような政策を実施する。

イスラエル首相のネタニヤフとハンガリー首相のオルバーンは盟友だと言われている。その重なりは、どちらもヨーロッパ現代政治の産み落とした鬼子であり、選挙を通じた一見合法的なやり方で、民主主義を権威主義体制へと組み換えてきたリーダーであるというにとどまらない。

実は、オルバーンは最初に政権を取ったあとの、2002年の選挙で敗北したが、ネタニヤフと出会ったのはその下野中の2005年の出来事であるというのは、今日ではよく知られている。当時、財相であったネタニヤフの政治ビジョンに感銘を受け、二人の間には友情が生まれただけでなく、個人的な交流に根ざすイスラエルとの良好な関係を梃子に、第一次政権時に受けた「フィデスは反ユダヤ主義政治家を擁護している」という自身の政党への厳しい批判(そして、下野の理由はまさにこうした批判のためである)を払拭しようとしたのだ。イスラエルとの蜜月によって、まさにオルバーン政権の政治的な足元が固められたと論じる調査報道もある(*6)。

こうして、反移民・反ムスリム(キリスト者のヨーロッパを守というイデオロギー)を掲げ右へと大きく旋回したフィデスだが、オルバーンは必要に応じて「反ユダヤ主義に対してはゼロ・トレランスを貫く」と主張する。実際には苛烈な差別を行いながら、差別主義者と非難されないように、巧妙に人種差別の対象に優劣をつける。

(これこそ、ユダヤ人への差別を政治利用する、「反ユダヤ主義」そのものではないのか。)

イスラエルの側からしても、「反イスラーム」を表看板に掲げてくれる国がヨーロッパ大陸にあるのは都合がよいに違いない。それが、パレスチナへの入植や爆撃への、無抵抗の市民を殺害することへの、隠蓑になるからだ。

「ハンガリー人だけが分かってくれるだろう」

ハンガリー・ユダヤ人の絶滅収容所への移送までの経緯、冷戦中の東欧諸国を取り巻く国際政治の力学、減少の一途を辿った国内ユダヤ系人口、アラブ諸国との機微な関係、そして体制転換後のネオリベラリズムへと突き進む中での「反・反ユダヤ主義」という虎の子--ドイツのようなホロコーストへの反省や「想起の文化」の教条化によってではなく、グロテスクな権力への欲望という危ういバランスのもとにイスラエル支持が成立しているのが、ハンガリーの事例だと言える。

それは、ハンガリー側の一方的な思惑ではなく、イスラエル側の恣意をも反映するものである。

先述のクレズマー演奏会に登場したカステルは、イスラエル国籍者でもあるが、実は、ルーマニア・トランシルヴァニア地方のアラドという街の出身の、ハンガリー人でもある。元々ハンガリー領であったカルパティア山脈にまたがるトランシルヴァニアは、第一次世界大戦の講和条約として結ばれたトリアノン条約の調印により、ルーマニアに割譲された地域である。しかし、それから100年の歳月が流れた今でも、トランシルヴァニアはハンガリー語を喋り生活するハンガリー系の街が点在する土地であるため、オルバーン政権を筆頭に、ハンガリーの右派勢力にとって「トリアノン」とは一方的に戦勝国によって引かれた国境の不当さと民族の屈辱を示唆するものとしてネガティブに語られる。

カステル自身もハンガリー系のトランシルヴァニア住民で、イスラエルに移住してからもハンガリーの時事を追ってきた人物だ。そのカステルが言う--「トリアノン条約のトラウマを生きるハンガリー人だけが、勢力によって正義が生まれるのではないということを十全に理解している」。

カステルのこの発言は、ハンガリーが国連などの場でイスラエルに対する非難決議に反対票を投じ続けてきたことをどう考えるかという問いへの回答だ。彼は、ハンガリー人がイスラエルの側に一貫して立ってくれることに、以下のような感謝の言葉も語る。

「[国連]決議が多数決で採択されたという事実が、その内容を正しく、高潔なことにするわけではないということも、ハンガリー人は理解している。イスラエル人が中東で唯一のリベラル・デモクラシーを擁護しているかたわら、ひっきりなしの批判を受けている時、その我々がイスラエルで経験していることを心と頭で理解できるのはおそらく、ヨーロッパでは唯一、ハンガリー人だけかもしれない」(*7)

カステルの言葉を読みながら思い出すのは、ヘルツルがハンガリーのシオニズムについて書き残した言葉だ--「ハンガリー・シオニズムは赤白緑でしかあり得ず、自分もハンガリーではシオニズムに病むほど夢中になることはない」(*8)。つまり、ハンガリー人であることによるナショナリズムが、シオニズムというユダヤ・ナショナリズムに取って代られることはなく、そこでシオニズムのように見えるものは、ハンガリー(人)が持つ強烈なナショナリズムと何も違わないということだ。

カステルが背負っているものは、青い星(イスラエル国旗)ではなく、赤白緑(ハンガリー国旗)のシオニズムなのではないだろうか。そしてそれは、ハンガリーとイスラエルの双方に基盤をもつカステルという人間の、複雑なナショナリズム感情の発露に他ならない。

(*1)第二次大戦前のワルシャワでは、ヨーシフ・トゥンケルが「ワルシャワのスピノザ(Shpinoza in Varshe)」なる小作品を東欧ユダヤ人たちの言語であったイディッシュ語で発表している。「20紀初頭にもしスピノザが生き返って、ワルシャワに現れたなら…」という世にも奇妙な設定のこの物語は、ロシア帝国領から独立ポーランドの首都となったワルシャワという(世俗派、共産主義系政党、シオニスト組織などが入り乱れた)街におけるユダヤ系住民のポリティクスの風刺にもなっている。詳細は以下の記事を参照されたい。 Nadler, Allan. “Spinoza in Warsaw: Fragments of a Dream By Yoysef Tunkel.” The Jewish Review of Books (Summer 2020): https://jewishreviewofbooks.com/articles/7852/spinoza-in-warsaw-fragments-of-a-dream/?#

(*2)「ハンガリー・ユダヤ博物館」とは別に、「ハンガリー・ホロコースト博物館」もブダペシュトには存在する。

(*3)この「平和」に関するロジックは、ロシア・ウクライナ戦争に対しても同様に用いられる。つまり「平和」こそが至上命題である限り、ウクライナ人も戦争の終結を考える義務があるという、いわゆる「停戦論」がこれに接続される。つまり、どうあってもロシア側に都合の良い論理を生み出すために、「平和」の意味が転用されているのである。

(*4)とはいえ、イスラエルへの移住の大部分は、第二次大戦集結からイスラエル建国までの数年のうちに起こった。上述したように、戦前は--若きヘルツルもそうであったような--同化を推進する「ネオログ派」が多数派であったハンガリーだが、虐殺の経験を越えたあとは、加害者としての側面も併せ持つハンガリー社会への「同化」を期待する者は減っていたからだ。また、スターリン亡きあとの1956年、社会主義改革派路線の動きをソ連(とハンガリー軍)が軍事力によって弾圧した「ハンガリー動乱」(一部「ハンガリー革命」とも)の際にも、改革派側として集会やデモ、戦闘に参加した市民20万人が、逮捕・拘留・拷問を恐れ、難民となった。そのうちユダヤ系住民の数は、当時の人口構成比から考えればかなり多く、全体の2割(約4万)にも及んだ。その中からおよそ9千人がイスラエルに移住したというデータもある。戦後すぐには14万人いたユダヤ系人口はこうして社会主義時代に減り続け、1990年代には6万を切り、現在では4万人程度しか残っていない。

(*5)目下オルバーン政権下(現代第四期目)のハンガリーは、トルコや中央アジア諸国といったイスラーム教徒がマジョリティを占める国々との外交にも注力しており、その点からもパレスチナとの関係が、便宜上のものであれ、求められているのではないかと考える。また、レバノンでハマース戦闘員の殺害に使用された爆発機器(通信用のポケベル)がハンガリー企業のものであったという報道からも明らかなように、イスラエル周辺の中東諸国とハンガリーの取引関係も密なものであった。

(*6)オルバーンとネタニヤフの長い付き合いに関しては、以下の2つの記事を参照されたい。 Panyi, Szabolcs. “How the alliance with Israel has reshaped the politics of Viktor Orban.” From Direkt36 (2019/9/30): https://www.direkt36.hu/en/az-izraeli-szovetseg-ami-atirta-orban-politikajat/ ; Dezso, Andras. „The Roots of Orban’s Strong Bond with Israel and its PM.” From Reporting Democracy (2023/11/14):

https://balkaninsight.com/2023/11/14/the-roots-of-orbans-strong-bond-with-israel-and-its-pm/

(*7)カステルのこのインタビューは、ハンガリーの保守系シンクタンクであるドナウ研究所が主管するHungarian Conservativeというオンライン・ジャーナルに掲載されたものである。”Only the Hungarians Can Understand the Uphill Battle Israel Faces - An Interview with Robert C. Castel (Interviewer: Sáron Sugár)” From Hungarian Conservative (2023/03/02): https://www.hungarianconservative.com/articles/interview/robert-c-castel-interview-israel-palestine-when-innovation-failed/

(*8)このヘルツルの言葉は、ヘルツルがハンガリーの国会議員であったメゼイ・エルネー(Mezei Ernő)に宛てた書簡に記されていたという、ハンガリー系ユダヤ人に関する一文である。Kovacs, Andras. “Jews and Jewishness in Post-war Hungary.” InQuest. Issues in Contemporary Jewish History. No. 1. April 2010: https://www.quest-cdecjournal.it/jews-and-jewishness-in-post-war-hungary/#_ftn2

強制収容所の「隣の生活」と死体処理部隊の絵画から考える「視線の向こう側」