【岩尾 俊兵】なぜ悲劇が起きるのか…定年後の人生で「大失敗する人」の意外な共通点

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わたしたちはいつまで金銭や時間など限りある「価値」を奪い合うのか。ベストセラー『世界は経営でできている』では、気鋭の経営学者が人生にころがる「経営の失敗」をユーモラスに語ります。

※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。

老後は経営でできている

家には居場所がないし、健康のためにも通勤した方がいいから、定年後も再雇用で働いてるんだよね、というようなことを公言する人がいる。

悪気はないのだが、放っておけば私も四十年後にそうなること間違いなしだ。四十年待たずとも家に居場所はなく、健康診断で通勤等でこまめに歩くようにと注意されているくらいだ。

どこかでこの話が流行っているのだろうかというくらい、どんな会社でも、公営でも民営でも、営利・非営利どちらでも、同様の話をする人が存在するようだ。

そうした人は、周囲に若手を見つけるや、相手がどんなに忙しかろうとお構いなしにしゃべり散らす。若手は「そんな理由で会社にきておいて、こっちの仕事の邪魔をしないでくれよ」と言いかけるのを何とか飲み込む。ギリギリ若手のはずの精神的老後状態の私も、同じ要領でつい職場でしゃべり散らして迷惑がられてしまう。

この「家居場所無し健康通勤人」は、若手の意欲をひたすら削ぐのが生きがいなのだろうか、と周囲の顰蹙を買っていたりする。

断っておくがこの章は高齢者批判の章ではない。やがて誰でも経験する老後を経営の失敗によって不幸なものにしないよう備えるための章だ。ほとんどの高齢者の方々はここでの事例に当てはまらないだろうし、当てはまらないことを願う。

D+1坂の殺人事件:相互尊敬の欠如が老後に悲劇をもたらす

さきほどの「家は居心地が悪いし、散歩代わりに会社にくる」というよく聞く話は、多くの場合は謙遜のつもりで発される言葉だろう(謙遜でないのは私くらいだろう)。

本当は「俺たち/私たちがこの会社を支えてきたんだ。昔はメールもない時代で、営業は足で稼いだ。若手は俺たち/私たち頑張りズム世代を敬え」と主張したいのかもしれない。そしてその主張には一理ある。それどころか、私含め若手の側も会社を支えてきた大御所たちへの一定の敬意は持ち合わせている。

もちろん家居場所無し健康通勤人が定年後も働き続ける理由には「年金だけでは生活費が心もとない」という不安もあるだろうが「会社のことは今でも自分たちが一番わかっている」という自負もあるはずだ。

しかし自らを家居場所無し健康通勤人だとことさら強調したところで、若手の多くはそこに自虐と謙遜と自信が入り混じった心の機微を読み取ってはくれないし、それどころか若手の中にわずかに残っていた敬老の心さえも消し去ってしまう。

このくらいのエピソードであれば、老後という心境にある方にとっても、まだまだ自分は現役だという意識の方にとっても、喜劇として楽しめる範囲であろう。

実際のところ幸せな老後を過ごせる人は少ない。晩節を汚す人はあまりに多い。ときにはそれは悲劇をもたらす。若手のうちから嫌われ者の私もまた、老後に訪れかねない悲劇に今から恐れおののいている(顔つきと体形は仏みたいだと慕われているのだが)。

まだ老後は先のことだという人も次のような事例を心しておくべきだろう。

たとえば、介護施設の中で介護士に対して威張り散らす人がいる。まるで昭和の管理職の仕事風景を介護施設で再現しているかのようだ。そうした人は、昭和パワハラ的に、介護士をささいなことで叱責して人格否定にまで及ぶ。お世辞にも高給とはいえない待遇で身を粉にして日々働いていて精神的にも限界に近い状態にある人に、昭和の上司部下の関係の延長線上で暴言を吐くわけである。

すると、この暴言がきっかけで介護士が「切れて」しまう。

そうして介護士から高齢者へと殴る蹴るの暴力に発展する。しかも毎日のように人を抱えたり持ち上げたりしている筋骨隆々の介護士と、高度経済成長期に部下を抱えたり株価を持ち上げたりしてきた頑張りマンとはいえ全盛期にくらべて筋肉も骨も衰えた高齢者の対決だ。当然ながらこうした暴力で命を落とす人さえ出てくる。

これに類似したニュースは毎年毎年量産されている。

同じような事件が多すぎて、同じ事件の続報を一年中やっているのだろうかと思うほどだ。もちろん、介護従事者が特別怒りの感情を抑えられないわけでもなければ(正確な統計はないが、むしろ平均よりも優しい人が介護職を選ぶ場合が多いのではないだろうか)、暴言を吐いた高齢者が死に値するわけでもない。

ここでは介護士と高齢者のどちらも非難の対象ではない。

しかし確実にいえることは、老後をめぐる悲喜劇は人生経営の失敗によって生まれているということだ。これによって老後が台無しになるどころか、恐怖と痛みの中で撲殺されるほどの悲劇が我が身に降りかかってくることさえあったわけである。

注文の多い小料理店:「ゆとりある老後」を阻害する「目的と手段の転倒」

老後資金をめぐる悲劇もある。老後が不安だといって、四十歳五十歳を超えてから慣れない株投資やFX投資を始める人がいる。

そうした人は、貯金をつぎ込むだけで飽き足らず、退職金を担保にして借り入れに手を付けたり、ようやくローンを払い終わったばかりの自宅を抵当に入れてしまうことさえある。もちろん短期的には積極的にリスクをとるこうした投資活動の成果が出ることもある。しかしパソコン画面上の金融資産の含み益は、利益を確定させて現金を手にするまでは単なるまやかし/まぼろしに過ぎない。

慣れない投資が長期にわたって上手くいくほど世の中は甘くない。

そうして、老後のために投資した資金が、予想外の株や為替の値動きによって生じた追加保証金(いわゆる追証)の連続で泡と消える。これでもまだ投資が成功する確率も(わずかながら)存在するという意味では良い方だ。

ときには、老後の資金が心配だといって、ブラジルだとかカンボジアだとかの不動産や金融資産を仲介する怪しげな会社に投資してしまう人もいる。あるいは外国の宝くじをみんなで買うといった、胡散臭い話に乗ってしまう人がいる。こうした人たちは実際には詐欺に引っかかっているだけのことも多い。その場合、投資したお金が増える確率は0%でお金が奪われる確率は100%である。

老後資金は溶けていく。こうした人が老後を不安がるのは当然だろう。なぜなら自分自身が不安を現実にすべく全力を出しているからだ。

といって今度はお金を一切使わないという人もいる。投資なんかもってのほか、消費も最小限、ひたすらお金を貯めるというタイプの人だ。こうした人は悲劇は避けられるかもしれない。しかし喜劇を演じてしまっている。

なぜなら、お金は使ってはじめて、製品やサービスと交換してはじめて、意味があるからだ。何にもお金を使わずに節約生活を続けて、ある日ぽっくり逝ってしまったらそれこそ一番の無駄遣いである。

老後をめぐる悲喜劇の数々に共通する特徴の一つは、「目的と手段の不整合」「目的と手段の転倒」だ。これはまさに経営問題といえる。目的と手段の位置づけを誤って、自分に配慮して欲しくて自慢話をするが、そのせいでますます配慮を得られないような状況に陥る人はあまりに多い。

今度は図書館における小競り合いを見てみよう。図書館の新聞コーナーは、カブトムシに対するクヌギの樹液のごとく/真夜中の電柱のごとく、高齢者および私を惹きつける。日本中の図書館で観察されていることなのだが、新聞コーナーでは人がひしめき、うごめいて、新聞を奪い合っている。

ときどき「おいっ、新聞に折り目をつけるなよっ」などと怒号が飛ぶ。日本の高度経済成長を支えた、図書館に響き渡るほどの日米貿易摩擦的怒号だ。

Z世代(2024年現在青春期にある若年層の世代)なんぞとは根性の入り具合/腰の捻り方から違う。この怒号の前に現代の若者など一目散に逃げだしてしまうほどだ。こうして、あっという間にこの「高度経済成長貢献怒鳴り人」は、図書館職員から要チェック対象としてマークされることになる。

こうした小競り合いは自分の存在感を相手に認めさせたいがために引き起こされる。居場所を作るための闘いなのである。しかし居場所を確保するために揉め事のきっかけを作るようでは、結局は居場所を失う。

同じ過ちは場末のスナックでも見られる。

スナックは図書館の新聞コーナーに負けず劣らず高齢者の方々の集会場だ。そして夜も更けてくると、酒も進んで誰もが大声で話しだす。そんなとき突然に「おい、俺の歌を聞けよっ」と怒鳴る人が出てくる。

深夜の店内が一瞬で、しん、とする。その高度経済成長貢献怒鳴り人は、不満げにマイクを握る。しかし他の客にしてみれば、無理やり聞かされる歌など仮に上手くても素直には聞けない。

そのため曲が終わる前に他の客はぞろぞろと帰りだす。こうしてまた一つ怒鳴り人の出入り禁止場所リストが更新される。

老後は家庭にも居場所がなくなるという人も多い。

こうした人の多くは、家庭において企業のダメ管理職のようにふるまっている。

家庭内ダメ管理職は配偶者や子の行動に対して命令はするが責任は取らない。明確な指針を示さずに、これがダメだ、あれがダメだと終わったことを責め続ける。当然ながら家族からは疎まれる。しかも現役のときほどの体力と気力はないから家族との力関係は徐々に逆転していく。

その結果として家庭に居場所がなくなってしまうのである。

失われた敬老を求めて:思いやりの強制という発想を抜け出す視点

このように老後においてひとつずつ居場所をなくしていく人は多い。

そうした人にとっての最後の駆け込み寺が役所と病院となる。役所と病院であればどんな人でも拒めない。そして役所で「お前たちは俺の税金で生活しているんだろうが(納税額よりも受給額の方が多かったりするのは秘密だ)」と因縁をつけてみたり、名前の間違いなどのちょっとした問題を責め続けたりする。

ここでもう一度断っておくが、この章は高齢者批判の章ではない。

というよりここでの事例がすべて当てはまる人などいないだろう。しかし一度こうして戯曲化すると「こんな馬鹿なことはしないでおこう」と思えるのも確かである。

本題に戻る。

役所と病院では一応は自分の話を聞いてくれる人を見つけられる(実際には、公務員や医師といえども、こういう人の話は聞き流しているのだが)。しかし一番欲しいはずの配慮/思いやりは得られないままだ。

あるいは老後の居場所を創り出すために権力の座に固執する人もいる。社長を退いて会長になり、会長を退いて名誉会長になり、名誉会長を退いて相談役になり、相談役を退いて最高顧問になり、最高顧問を退いて名誉総裁になり……、突然社長に返り咲いたりする。相談役の人数が取締役の人数より多く、相談事が足りなくて取締役が困ったりする。

こういった人たちは自らの居場所を保持するために後継者を育てない。

もちろん形式的には次期社長を指名する。しかし後継者に肝心の事は教えないし株も渡さない。形式的な次期社長は常に相談役や名誉○○のお歴々の顔色をうかがうようになる。こうして大御所に対してはヒラメのように目を向けるが市場や社会に目を向けない、やがて衰退するジリ貧「ヒラメの大群型組織」の出来上がりだ。

権力を手放さない人たちは権力を手にしているだけ恵まれていると思われるかもしれない。しかし意外とそうでもない。

まず、後継者を育てられないと、そのうちに職務から降りたくなっても降りるに降りられなくなる。市場や社会を志向しない永続性が乏しい組織を作ってしまうことで、現役時代にせっかく築き上げた栄光が崩れ去るかもしれない。

権力の座にあった人でなくても、老後の居場所を欲して本末転倒な行動をとることがあるだろう。たとえば退職金を浪費してしまうのはその代表である。

退職金浪費型の人の典型的な行動は次のとおりだ。

まず定年退職祝い続きで何とも高揚した気分になる。それからしばらくすると一度に何千万円もの退職金が振り込まれる。お祝いの気分も持続しているので、まるで宝くじが当たったかのように感じる。同時に定年退職によって居場所を喪失したという感覚も出てくる。そこで狂ったようにお金を使って居場所を作り出す。

たとえば行きつけの居酒屋を作って毎日昼酒する。学生時代に聴いていた歌手の追っかけを始める。スポーツカーやキャンピングカーを買って全国をドライブしだす。親身になって話してくれるというだけで証券会社が勧める投資信託に手を出す、という具合だ。

老後をめぐる人生経営の失敗に共通する特徴の二つ目は、思いやりと居場所とを「奪い取るもの」だと勘違いしていることである。

思いやりと居場所とを闘争によって、権謀術数によって、浪費によって誰かから奪い取らないといけないと思い込んでいるからこそ衝突が起こる。

こうした衝突の数々がときに喜劇をときに悲劇をもたらす。

思いやりと居場所とが限りあるもので、誰からか奪うしかないならば、自分が奪われる側になることも当然ありうる。しかし、本当はそれらを創造することもできるはずだ。

たとえば、目の前の人を自分から思いやることのお返しとして相手からも配慮してもらえるかもしれない。そこから互いに思いやりあって居心地のいい居場所へと発展していくこともありうる。本書の紙幅の関係と私の経験不足からこれ以上は述べられないが、具体的な「思いやりと居場所の創造法」は無限にありうる。

人生を経営していく視点を持つことこそ、老後を幸せに過ごすための必須条件なのである。

参考文献

楠木新『定年後:50歳からの生き方、終わり方』、中央公論新社、二〇一七年。

楠木新『定年準備:人生後半戦の助走と実践』、中央公論新社、二〇一八年。

Rowe, J. W., & Kahn, R. L.(1997). Successful aging. The Gerontologist, 37(4), 433-440.

坂本貴志『ほんとうの定年後:「小さな仕事」が日本社会を救う』、講談社、二〇二二年。

つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ老後の人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。

老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い