吉高由里子

写真拡大

『枕草子』を超える読み物がほしい

 一条天皇(塩野瑛久)は『枕草子』を読みながら、「生まれ変わってふたたび定子に出会い、心から定子のために生きたい」と、しみじみ語った。NHK大河ドラマ『光る君へ』の第30回「つながる言の葉」(8月4日放送)。ここで描かれた寛弘元年(1004)は、皇后定子(高畑充希)が没してからおよそ4年後で、そのころ宮廷で『枕草子』が流行していたのは史実どおりである。

【写真】「道長」の子を産んだ紫式部… 誤解を招く「大河ドラマ」をどう考えるか

 定子の後宮に出仕していた清少納言(ファーストサマーウイカ)が書いた『枕草子』。国文学者の伊井春樹氏は、それを書いた清少納言の意識についてこう記す。「清少納言は中宮定子を賛美し、現実の世に迫って来る厳しく追い詰められた姿は描こうともせず、明るい話題に転じるのが自分の任務と考えていたようである。(中略)むしろ悲しい現実から目を背け、定子の賛美を書き留めることが、自分の女房としての責務であるとしていたのであろう」(『紫式部の実像』朝日新書)。

吉高由里子

 それだけに、亡き定子はいまも、宮廷人たちにとって鮮やかに存在し続けることになり、一条天皇の思いも定子のもとから離れない。それでは藤原道長(柄本佑)には、きわめて都合が悪かった。

 道長はすでに一条天皇のもとに、長女の彰子(見上愛)を入内させ、中宮の座に就けていた。むろん、彰子に皇子を産ませ、その外祖父として権力を盤石にするのが、入内させた最大の目的だった。しかし、定子が宮廷に事実上「生き」続けるかぎり、一条天皇は彰子に目を向けない。彰子が皇子を産まず、定子が産んだ第一皇子の敦成親王が即位 すれば、定子の兄である伊周(三浦翔平)がその叔父として復権し、道長は権力を奪われてしまう危険性すらあった。

 では、どうするか。第30回では、藤原行成(渡辺大知)が「帝は書物がお好きなので、『枕草子』を超えるおもしろい読み物があれば、お気持ちもやわらぐのではございませんでしょうか」といった。道長が「おもしろい書物を書く者がどこにおるというのだ」と問い返すと、藤原公任(町田啓太)は「わが妻、敏子がやっておる学びの会に、おもしろい物語を書く女がおるようだぞ」と伝える。そして、その物語が女たちの間で大評判で、女とは「前越前守藤原為時の娘だ」と明かす。

道長が紙を用意してくれたから

 このあと、道長は陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)の助言も受け、「前越前守藤原為時の娘」、つまり、まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)のもとを訪れる。第30回はそこで終わったが、むろん道長の訪問は、物語の執筆を依頼するためだろう。

 ここまで記したのはドラマの流れだから、細部はフィクションである。しかし、『枕草子』が流行し、強い影響力を発揮しているなかで、道長が紫式部に『源氏物語』の執筆を依頼したという流れは、概ね史実と重なると思われる。

 まず、どうして道長が依頼したと考えられるかだが、当時の紙が非常に高価だったことに着目したのは、『光る君へ』で時代考証を務める倉本一宏氏である。長保3年(1001)に夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介)が死去し、紫式部は寡婦になっていた。また、父の為時は越前守の人気を終え、ふたたび無官になっていた。

『源氏物語』は全54巻で、倉本氏の計算では、少なく見積もって617枚の料紙が必要となる(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。また、下書きも必要だし、書き損じもあるだろうから、紙はまだまだ必要となる。父親は無官の寡婦が、高価な紙をこれほど大量に用意できたはずがない。

 倉本氏はこう記す。「紫式部はいずれかから大量の料紙を提供され、そこに『源氏物語』を書き記すことを依頼されたと考える方が自然であろう。そして依頼主として可能性がもっとも高いのは、道長の他にはあるまい」。 そして、料紙を提供した道長の目的については、「この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであったことは、言うまでもなかろう」という見解を示す(前掲書)。

 紫式部にも、夫を失った心のすき間を、物語を書くことで埋めたいといった、個人的な事情はあったかもしれない。しかし、この時代、個人の思いだけで書くことは、経済的にも難しかった。政治的な目的を背景にした道長の要求に応えるかたちで、この最高峰の文学は誕生したと考えるほかない。

数巻を書いてから囲い込まれた

 では、いつ書きはじめたのか。それを考えるには、紫式部が彰子の後宮に出仕した時期から逆算する必要がある。彼女が出仕したのは寛弘2年(1005)ではないだろうか。

『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の条には、「しはすの二十九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし(12月29日に参上する。最初に参上したのも同じ日だった)」とある。また、それに続けて、「こよなくたち馴れにけるも、うとまし身のほどやとおぼゆ(宮仕えにすっかり慣れてしまったのも、いとわしいことと思える)」とも書かれている。

 ここからわかるのは、出仕したのが12月29日で、寛弘5年のその日には、宮仕えにすっかり慣れていたということだ。すると、出仕が1年前の寛弘4年(1007)とは考えにくく、寛弘3年(1006)でもまだ2年しか経っておらず、すっかり慣れるかどうかは疑問となる。したがって、寛弘2年(1005)ではないか、と記した次第である。

 ということは、宣孝が死去した翌年の長保4年(1002)から、出仕する前年である寛弘元年(1004)までのあいだに、書きはじめられたと考えるのが妥当だろう。そして第一部のうち、光源氏の生い立ちや、藤壺および紫の上との関係を描いた部分、さらには、光源氏が須磨に流されるくらいまでを出仕前に書いた。一方、それに続く部分は、彰子の後宮に出仕して、宮廷政治のあれこれを実際に目の当たりにしてから書いた――。おそらく、そんなところではないのか。前出の倉本氏も、ほぼ同様の見解を示す。

 ところで、紫式部が出仕したのは、道長に要請されてのことである。『源氏物語』のはじめの数巻で文才を示した紫式部を、道長は囲い込んだと考えられる。

一条天皇と彰子の中を取り持った『源氏物語』

 紫式部が出仕した彰子の後宮の雰囲気は、『紫式部日記』によると、『枕草子』に描かれた定子の後宮にくらべ、かなり地味だった。理由は、彰子が非常に遠慮がちな性格だったことに起因しているようだ。

 そんな状況では、『枕草子』の人気も手伝って、かつての定子の後宮が、貴族たちの追憶のなかでいつまでの存在感を示してしまう。一条天皇にとってはいうまでもない。それでも、『紫式部日記』には、次のような記述もある。

「内裏の上の、源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞しめしけるに、『この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし』とのたまはせけるを(一条天皇が『源氏物語』を人にお読ませになられ、お聞きになられていたとき、『この作者は日本紀を読んでいるみたいで、じつに学識があるようだ』とおっしゃるのを聞いて)」

 一条天皇は彰子の後宮に通い、源氏物語を人に読ませていたのである。その意味では、道長のねらいは外れなかったといえよう。

 寛弘5年(1008)9月、ついに彰子は道長邸で、一条天皇の第二皇子である敦成親王を出産した。そのとき、道長邸では『源氏物語』を書き写す作業が行われたが、それは彰子が内裏に戻るとき、一条天皇のもとに持参するためだった。一条天皇は彰子を最後まで、定子のようには寵愛しなかったと思われるが、それでも『源氏物語』が、2人の仲を取り持ったことはまちがいない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部