※写真はイメージ(写真: マハロ / PIXTA)

浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。

今回は医学部を目指して10浪したものの、医学部を諦めて、長崎大学薬学部に進学。現在は家庭教師塾・名門会の社員として働く尾形祐樹さんにお話を伺いました。

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10浪して医学部を目指すも、違う道を選ぶ


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医学部を目指して10浪を経験した尾形祐樹さん。

彼が現役時に受けたセンター試験の結果は58%。国語の偏差値は35しかありませんでした。

それでも10年の受験勉強を経て、偏差値を格段に伸ばし、最難関以外は医学部に合格できる水準にまで持っていくことができました。

結局彼は医学部を諦めて、違う道を選んだものの、その10年の経験がとても生きていると尾形さんは語ります。

なぜ10年間もの長い間、医学部を目指したのか。その経験は、今どのような形で役立っているのか。

長い彼の浪人人生と、そこでの学びを紐解いていきます。

尾形さんは、熊本県熊本市に3人兄弟の長男として生まれました。父親は高校を中退してサラリーマン、母親は地元の短大を出て、尾形さんの祖父の会社の手伝いをしていました。

尾形さんは、幼少期の自身の性格を「引っ込み思案だった」と振り返ります。

「人に自分の考えを伝えることがすごく苦手な子どもでした。たとえば、親と一緒に買い物に行っても、『これください』が言えなかったんです。話す前に、『これってどうやって注文したらいいんだろう?』と考え込んでしまう子どもでした」

一方で、自身がやりたいことに関しては熱中して行動するようなタイプ。よくレゴを組み立てたり、テレビゲームをして遊んでいました。興味があることに集中する尾形さんは、地元の公立小学校では真ん中より上くらいの成績を取ることができました。

自分の意思で中学受験を決意したが…

このまま公立中学校に上がるかと思いきや、尾形さんは自分の意思で、6年生の初めに中学受験を決意。受験勉強をスタートさせます。

「私が進む予定だった中学が荒れていて、怖かったんです。なんとかこの環境から逃れる方法はないかと考え、6年生になってすぐの時期に同級生に相談したところ『私立の学校に行ったら、(その中学には)行かなくていいらしいよ!』と聞き、親に参考書を買ってもらって勉強しました。

とはいえ、小学生が独学で受験勉強をするのは相当厳しかったですね。周囲に中学受験の経験者が誰もいないので、塾に行って対策をしたり、模試を受けたりする発想もありませんでした。興味を持って取り組んだ科目以外はまったく対策ができないまま、(第1志望だった)九州学院中学校の入試を迎えて、何も手応えがなく落ちてしまいました」

こうして公立中学校に進んだ尾形さんは、中学受験で失敗した経験を引きずっていたものの、社会・理科などは受験勉強で鍛えられたことと、中学1年の5月から塾に通い始めたこともあり、中学に入った頃は120人中50〜60位くらいだった成績が、最終的には15位くらいにまで上昇しました。

高校受験では、熊本学園大学付属高等学校を第1志望に掲げて勉強に励みます。東海大学付属第二高等学校(現・東海大学付属熊本星翔高等学校)と熊本西高等学校には合格しましたが、第1志望には受からず、熊本西高等学校に進学する決意をしました。

そこでも勉強に励んだ尾形さん。「熊本西高校に入ったときの成績は上位10%くらいだったと思います。でも、そこから3年間は上位5%をずっとキープしていました」

高校に入ったころの彼は漠然と、化学や医学に興味を持っていた程度でしたが、この高校で受けた総合的な学習の時間で、自分の将来の方向性を明確にすることができました。

「高校2年生のときに、『10年後の自分を考える』という時間がありました。その授業の中で、私は自分が人と関わるのが好きだと思ったので、『人に何かを与えられる人になりたい』と目標を決めました。

そうなるためには視野の広さを身につける必要があるとも考えて、1つの場所ではなく、日本のいろんな地域や海外で生活したいと思うようになりました。理想の人間になるため、理想の生活を実現させるために行くべき大学・学部・進路をいろいろと考えた結果、医学部に行って医者になるのがいちばんだと思いました」

勉強のやり方がわからなかった

こうして将来の目標を医者に定め、受験勉強を開始した尾形さん。しかし、得意の英語と化学は模試の偏差値が70弱あったものの、ほかの科目は40〜50程度。勉強のやり方や、合格するために必要な勉強量がわからずに、苦戦してしまいます。

「夏休みに熊本大のオープンキャンパスに行きました。医学部の受験生や学生を見て、みんな頭がよさそうだなと思ったんです。とりあえず毎日5時間は勉強していたら合格するだろうと思ったのですが、全然集中が続かず、勉強体力を身につける必要がありました」

高校3年生の夏からは、代ゼミに通って理系科目中心に勉強をはじめましたが、センター試験は58%くらいで、到底医学部には届かない点数でした。

「医学部しか受けるつもりはなかったので、今の段階でどれだけ点数を取れるかを確かめようと思い、熊本大学の医学部医学科を受験しましたが、全然ダメでした。特に数学は、2時間の試験の中で、1時間半まったく手をつけられませんでした」

センター試験の結果を受け、熊本大学に出願した時点で浪人を考えていたと語る尾形さん。

惨敗だった受験を終えて浪人を決断した理由を聞くと、「10年後になりたい自分の姿があったから」と教えてくれました。

「『医学部に届かない』ということを認めるのは、何かに屈するような感じがして、自分の中で消化するのが難しいと思いました。現役時のセンター試験の点数でも行けた大学はあったのですが、このまま大学に進むというのは、今自分が置かれた世界の中で生きていくことになると思ったのです。

私は10年後になりたい自分の姿がありました。今、自分の置かれた状況・点数が、たとえ医学部に行くにはきびしくても、今までの自分を変えてでも、医学部合格は成し遂げたいことでした」

国語の偏差値は35、多浪がすでによぎる

こうして浪人を決断した尾形さんは、1浪で地元の壺溪(こけい)塾に入り、勉強を開始します。

毎日夜まで勉強していましたが、得意な化学と英語が記述模試の偏差値60台でスタートしたのに対して、いちばん苦手な国語は偏差値が35で、「1年目の時点で何年かはかかるだろう」と覚悟を決めたようです。

「浪人したら何かが変わると思っていましたが、何も変わらないと思いました。私は壺溪塾の環境が好きでしたし、友達もたくさんできました。塾に5浪や再受験の方も大勢いて、いろんな年齢層の方と交流できました。5浪の先輩は旧帝医学部の模試で、偏差値100を叩き出していて、衝撃を受けましたね。

今のままじゃダメだと思い、強い危機感を抱きましたが、自分も長く浪人したら先輩と同じように点数が取れるようになるのではないかと、楽観的に考えていました」

ここから彼は3年間、壺溪塾で勉強を続け、熊本大学の医学部を受け続けます。

1浪目のセンター試験は70%、2浪目で80%、3浪目で82%。毎年生活習慣を変えず、予備校にも真面目に通い、勉強を頑張っていましたが、合格にはあと一歩足りませんでした。

そこで3浪が終わった彼は、4浪目を自宅浪人で過ごす決断をします。

「予備校に通って情報を取るだけじゃダメだなと考え、何かを変える必要があると思い宅浪を決断しました。でも結局、3浪目の反動で燃え尽きて、ゲーセンにずっと通ったり、関西の友達の家を転々として半年くらいは遊んでしまいましたね。

センター試験は400/900点くらいしか取れなかったと思います。でもいろんな場所を見に行ったこの1年で、改めて自分は恵まれていることを再認識できて、なりたいものを実現しないといけないと思い直せました」

こう思った尾形さんは、5浪目で自分を見つめ直すためにスパルタ指導で有名な北九州予備校に入ります。

「この年のセンター試験は550/900点でした。でも、点数よりはまともな生活習慣を身につけることに時間をかけました。毎日朝8時半〜夜6時半までは必ず塾にいて、生活環境を整えました。5浪までは生活環境が整っていなかったなと改めて痛感しました

根本的な勉強の仕方を考えるように

生活環境を変える必要性に気づけた彼は、6浪目からまた壺溪塾に戻ります。

「6浪目から、目の前で起きている現象の仕組みを考えはじめました。北予備ほど拘束されない壺溪塾で、根本的な勉強のやり方をじっくりと考えるようになったのです。

『どういうサイクルで勉強をするべきか』『長期的に記憶を保持するにはどうすればいいか』を考えて、『どうして記憶できないのか』『自分には記憶保持の仕組みがないのか』『自分の学習サイクルのどこが問題なのか』など、今の弱点を思いつく限り紙に書いて弱点を潰していきました。

構造・サイクルを見ていくと、うまくいっていない理由が見えてきたんです。英語の勉強もかねて、Google Scholarを使って、人間の脳の認識についての論文も読んでいました。

この時点で化学や政経はもう準備し終えていたのですが、ほかの1科目ごとの弱点を潰し切るのに1年はかかるかもしれないという感覚にもなりました。ただ、勉強を続けたおかげで、6浪目はセンター試験で160点くらいしか取れなかった英語で190点が取れるようになってきましたし、7浪目では数学、8浪目では物理の点数がそれぞれグンと上がりました」

センター試験の点数も年々上がっていき、6浪目で78%、7浪目で82%、8浪目では85%とついに自己最高を記録します。この間、広島大学の医学部など、地方の医学部も受験していたそうですが、合格にはあと少し届かない状態が続いていました。

「センター試験が得意じゃないので、85%くらいが限界値だという感覚がありました。だから、あとは2次試験を上げるしかないなと思ったのです。私はどうしても国語が苦手だったので、私と相性がよさそうな記号論・論理学を使って思考を整理してくれる先生を探したところ、代ゼミの先生でいい方が見つかり、9浪目から受験勉強の環境を変えました」

代ゼミでは、国語の先生に加えて、化学でも相性のいい先生と出会うことができました。しかし、9浪目は結局、国語を伸ばしきれずにセンター試験は80%を少し超える程度で終えました。

「9浪目は国語以外の記述模試の平均偏差値が73になっていました。医学部に出せないと思って、鹿児島大学の歯学部に出願したのですが、面接点がよほど低かったのか落ちてしまいました」

医学部ではない道を選ぶことを決意

こうしてついに10浪に突入した尾形さんですが、限界を感じはじめたことと、ほかの学部を受けたことで、医学部以外の学部も調べはじめます。

「ここまでやり方を体系化したうえで勉強してダメなら、もう(医学部は)無理だなと思いました。記述模試で偏差値80に到達する科目も出る一方で、早く社会にでなきゃまずいなと思っていたので、後ろ向きな1年でしたね。だから、センター試験で最低限の点数が取れなければ、もう薬学部に出そうと決めていました」

センター試験は毎回点数が取れなかったものの、記述模試では9年目に国立医学部でA判定が出はじめ、最後の年は最難関の医学部以外は合格の可能性が高い判定が取れるようになりました。

「得意な科目は記述模試で偏差値70後半〜80でしたし、苦手な国語も記述模試で偏差値73程度は取れるようになりました。でも、センター試験はこの年も8割程度で、医学部には届かないと思ったので、長崎大学の薬学部を前期で受けて、合格しました」


合格時の尾形さん(写真:尾形さん提供)

こうして10浪の末、長崎大学の薬学部に進学した尾形さん。彼は今、自分が大学に落ち続けた理由を、「戦うゲームへの理解力不足」「自己分析の不足」「生活環境の不整備」「情報収集不足」の4つの要因を挙げて分析します。

浪人してよかったことを聞くと、「自分の課題に集中してマイナスリターンの癖の潰し方を掴めたこと」、頑張れた理由については、「親に認めてほしかったから」「他責で考えてしまう自分が嫌だったから」という答えが返ってきました。

「うちは親が大学に行っているわけではないので、親のためにも行かなければならないし、親から自分のことを認めてもらいたいという思いがありました。

親は勉強をしていることをほめてくれなかったのですが、浪人生活をやめるときに代ゼミの先生に『めちゃくちゃお前はマニアなレベルだよ!よく1人でここまでやってきたよね、普通だったらここまでやれない』と言っていただけて、『自分のためにも親のためにも医学部に行く』という自分に課していた縛りから解放され、憑き物が落ちた感覚になりました」

10浪で薬学部に入ってからは、10個下の同期とのジェネレーションギャップに驚きながらも、サークルに30個近く入って交流し、「年上の後輩」のいじられキャラとして、さまざまなコミュニティーに顔を出し続けました。

「変わることが遅すぎた」

そして現在は、大学1年生の5月くらいから始めた塾・家庭教師のバイトをした縁から、教育業界に就職。リソー教育グループの家庭教師塾・名門会部門の社員として勤務しています。


現在の尾形さん(写真:尾形さん提供)

「アルバイトを始めたとき、私自身いろんな失敗、経験をしてきたので、生徒に結果を出してもらうのにすごく燃えていました。そのきっかけもあって、教育業界に就職することになりました。

仕事では勉強というテーマを扱っていますが、いざ自発的に勉強をするようになるには、『変容』がキーになると感じています。

例えば、最終的に合格できなかったのは、「変わることが遅すぎたこと」。私自身が挑戦をする局面で、変われるエネルギーが残っていなかったと感じています。エネルギーが高い、若いときに『変わる決断をする』状態に持っていかない限りは、志望校に合格できないのが、自分の経験からもわかりました。

こうした私自身の挫折経験から、同じような状況に置かれる生徒を1人でも減らし、”変容する”ためのお手伝いをしたいと思ってこの仕事をしています」

10年間、苦手な勉強に向き合い挫折をした経験があったからこそ、多くの生徒に合った適切な勉強法を提示するのに役立っているのだと思いました。

尾形さんの浪人生活の教訓:自身が試行錯誤する中で経てきた膨大な変容のプロセスは、次に道を進む人たちの道標となる

(濱井 正吾 : 教育系ライター)