藤原伊周、隆家ともゆかりがある太宰府。写真は太宰府天満宮(写真: denkei / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第31回は花山院に矢を射かけた、道長の甥の伊周と隆家のその後の運命を紹介する。

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呪詛疑われて1年後に死去した伊周

のちに「長徳の変」と呼ばれる不祥事をしでかしたことで、運命が一転した、藤原伊周とその弟の隆家であったが、その後にたどった運命は兄弟でずいぶんと違ったようだ。

妹で中宮の藤原定子が、一条天皇との間に第1皇子となる敦康を出産。定子の死後も、一条天皇の皇子はほかにしばらく生まれなかったため、敦康がひとまずの後継者候補となり、道長は後見人として、道長の娘・彰子は養母として 、敦康をバックアップすることになった。

そんな流れのなかで、敦康の伯父にあたる伊周も、少しずつ復権していく。長保5(1003)年に従二位に叙せられると、その2年後の寛弘2(1005)年には座次を大臣の下、大納言の上と定められている。

かつての政敵だった道長とも少しずつ交流が生まれるが、取り巻く状況はいつも刻一刻と変化していく。

道長の娘・彰子が懐妊し、一条天皇にとって第2皇子にあたる敦成が誕生したことで、亡き定子が生んだ敦康の存在は、第1皇子にもかかわらず、道長にとっては邪魔者でしかなくなってしまった。

そんな折に「伊周の外戚や親戚が、彰子や敦成を呪詛していた」という噂が流れて、伊周は再び失脚することとなる。『権記』によると、寛弘6(1009)年2月1日、藤原行成は道長から呪詛について、次のように伝えられたという。

「これは一条天皇の后・藤原彰子に対して、また若宮の敦成親王に対して行ったものである」

道長サイドにとってあまりにタイミングがよいため、でっちあげの可能性も高いが、伊周はあえなく処分されることとなった。

その後、彰子が再び懐妊したこともあって、6月には伊周の朝参が許されるが、もはや、気力も体力も限界だったのだろう。呪詛のゴタゴタから約1年後の寛弘7(1010)年1月28日、伊周は37歳で死去。その波乱の生涯に終止符を打った。

挫折によって「武闘派」から脱却

「世中のさがなもの(喧嘩っ早い荒くれ者)」

伊周の弟・隆家はそう評されるだけあって、かなりの武闘派だったらしい。藤原頼忠に無礼を働いたり、牛車で花山院の門に突進したりと、その手の逸話に事欠かない。

そして、極めつきが、兄の伊周とともに起こした「長徳の変」である。花山院に矢を射かけたとして、隆家も処分を受けて、出雲への左遷が決定。病気を理由に但馬にとどまったものの、伊周と同じく、京からは遠ざけられることとなった。


花山天皇が出家した元慶寺(写真: 金土日曜 / PIXTA)

だが、この挫折によって、隆家は「さがなもの」から脱却したらしい。復帰後は、さまざまな行事に顔を出しながら、道長との関係性を地道に作っている。道長の日記『御堂関白記』、藤原行成の日記『権記』、藤原実資の日記『小右記』などに、その名がたびたび記載されている。 

例えば、寛弘元(1004)年1月4日、道長が息子の頼通のところを訪れると、近衛府(このえふ)の官人たちが宴会を開き、隆家もこれに参加。衣を脱いで官人たちをもてなすなどして、楽しませた。

その3日後には、邪気を祓うとされる白馬を庭にひき出す白馬節会が行われて、隆家は叙位の宣命を読み上げる使者である叙位宣命使を務めた。さらにその翌日の8日には宮中に僧を招く「御斎会始め」にもしっかり参内している。

そして14日の「御斎会結願」には、道長に同行して大極殿に参ったようだ。道長が日記に次のように記している(『御堂関白記』)。

「直廬から大極殿に参った。権中納言と宰相中将が同行した」

「権中納言」は隆家のことである。

その剛腕ぶりからどちらかというと豪快なイメージがある道長だが、案外ジメジメしたところがあり、日記を読むと「公卿が行事にきちんと出席しているかどうか」を細かくチェックしていることがわかる。

かつて藤原実資は、3歳になった彰子の「着袴の儀」を欠席したことがあったが、その翌日には「道長が不快感を持っていた」と耳にする。実資は驚いて、すぐさま赴いて謝罪したという。

手痛い失脚によって成長した隆家は、そんな道長の細やかさも理解したうえで、積極的に行事に顔を出したのかもしれない。

『大鏡』には、行列の後方にいた隆家に同情して、道長が車に乗せた……という説話が紹介されている。少なくとも復帰後しばらくは、道長との関係は良好だったのではないだろうか。

眼病に苦しんで実資に相談した

兄・伊周の死後も、そんな隆家のスタンスは変わらず、長和元(1012)年9月20日には皇后御読経結願に参列。また10月27日には、大嘗会という宮中祭祀に向けての、天皇が川へ行幸して身を清める「大嘗会の御禊」にも参加している。

このときに、隆家は源経房や藤原兼隆とともに、華美な車を奉じて、道長を戸惑わせたという。型破りな性格は相変わらずだったようだ。

そんな隆家を悩ませたのは、眼病である。角膜の突き傷から細菌に感染し、化膿を起こしてしまったらしい。道長が長和2(1014)年1月10日の日記で、「去年の突目により、この何日か籠居している」と記している。

『小右記』によると、病状に苦しんだ隆家は、実資に相談したという。「九州の大宰府に宋の名医がいる」と知り、隆家は大宰権帥への任官を望み、それが実現することとなる。

実のところ、実資は「三条天皇は隆家の希望を汲んでくれそうだが、道長が妨げるのではないか」と展開を読んでいたようだ。この頃、道長は三条天皇と対立を深めていたことから、三条天皇が懇意にした隆家のことも警戒したらしい。

こんな逸話もある。道長が病におかされていたときのことだ。「道長の病を喜んでいる公卿が5人いる」と耳にすると、道長は「そんな噂は、隆家を除いて、信用していない」と口にしたという。

隆家をそれだけ警戒しながらも、望みを受け入れて大宰権帥としたのは、道長が隆家を都から遠ざけようとしたのではないか……とも言われている。

大宰府で待ち受けていた「未曽有の事態」

道長の真意はともかく、隆家からすれば、望み通りに大宰府にいくことが決まったのだから、万々歳だろう。だが、眼病を治したいがためのこの行動が、結果的に隆家に大きな仕事を課すことになる。

九州北部の大宰府管内に謎の武装集団が侵入。のちに「刀伊(とい)の入寇」と呼ばれる大事件が起きて、隆家はこれに立ち向かうことになったのである。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)