『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載第12話

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
登場人物一覧>> 第1話>>無料 第2話>>無料 第3話>>※有料 第4話>>※有料 第5話>>無料 第6話>>無料 第7話>>※有料 第8話>>無料 第9話>>無料 第10話>>※有料 第11話>>無料


 

第12話 王者の孤独

 中国、北京。夜の外気は冷たく、リンク内にいるよりも寒かった。ホテルの部屋の窓が、気温差で結露になっていた。

 グランプリファイナルが終わった後、三浦富美也は部屋で一人、怒りと悔しさに体を震わせていた。比喩ではない。本当に震えが収まらなかった。一人がけのソファに浅く座り、前かがみで肘を膝につけ、こぶしを握り締め、虚空を睨んだ。

 富美也はショートで2位ながら、フリーで200点以上を叩き出した。ベストに近い演技だった。演技後、優勝を確信し、観客席にVサインを送って、笑顔を振りまいた。

 はしゃいでいた自分が恥ずかしく、血液が逆流しそうになる。

 最終滑走の陸が出したトータルスコアに、0.29点及ばなかったのである。計算外だったのは、二つのジャンプで4分の1の回転不足を取られていた。ジャッジに毒づきたくなったが、惨めになるだけで覆るはずもない。行き場を失った毒が、体内を駆け巡っていた。

 コツコツと部屋のドアを叩く音が聞こえた。メッセージが既読にならないことを心配したロシア人コーチが安否を確認しに来たのだろう。

「はい」

 ソファからおもむろに立ち上がって小さく言い、フラフラとした足取りでドアに近づいて開けた。

「Are you ok?」

 コーチが英語で「大丈夫か?」と聞いた。酒を飲んで酔っ払っているのか、上機嫌だった。

「Ok ,Don't worry about me. I'm just angry」

 富美也は「大丈夫、俺のことは心配しないで。怒っているだけだから」と返した。

「Don't hurt yourself too much」

 コーチは「あまり自分を傷つけるな」と言った。アルコールの匂いがした。

「Enjoy the party, Leave me alone」

 富美也は、「パーティーを楽しんで、一人にしてくれ」とドアを閉めた。傷つけるつもりなどない。しかし、自分自身に腹が立って仕方なかった。一人でいた方がマシだ。

 ドアを閉めた後、絶対的王者である自分のコーチであるにもかかわらず、負けた後に酔っ払っているのに沸々と怒りが湧いてきた。なにがそんなに愉快なのか。富美也は舌打ちをした。

 自分が孤独な人間であることに気づいたのは、割と早い時期だった。子どもの頃に体形のことを揶揄されるようになって、コミュニケーションをうまく取れなくなったのは事実だが、幼稚園くらいから友人を作るのには苦労していた。すぐに張り合ってしまうからだろう。相手よりも劣っているのが、どうにも我慢できない。仲良しごっこに興じている連中を見ると、吐き気がした。

 フィギュアスケーターとして活躍するたび、人を嫌悪する傾向が顕著に出た。背が伸びて細身になって、国際大会でタイトルを取り、女性ファンが増えて、周りとの垣根を高くした。スターの孤独だ。

「お前、いいセンスしているな。練習頑張れよ」

 富美也はそう言って、仙台出身だというジュニアの片倉一輝に目をかけたことがあった。一輝は全日本ジュニアで表彰台に乗るなど、将来を嘱望されていた。要領がいいのか、覚えも早かった。

 富美也は五輪で金メダルを獲得することができた後、若手に対して「偉大な先輩」として振る舞おうとした。「カリスマ」になりたかった。それがチャンピオンにふさわしい王冠にも思えた。

 ある日、リンクでの忘れ物があって取りに行った時だった。ついでに一輝のスケートを久しぶりにチェックし、アドバイスの一つも授けてやろうと足を運んだ。

「なあなあ、お前さ、富美也さんに可愛がられているけど、話すこととかあんの?」

 通路で、自分の名前が出ていた。角に隠れる。どうやら、一輝とスケート仲間が話し込んでいるようだった。

「いや、富美也さんは二人になると結構、話をするし、アドバイスもやっぱり的を射ているよ」

 一輝の返答を聞きながら、富美也は胸をなでおろした。出て行って、生意気そうな選手の方を、少し脅かしてやろうとした時だった。

「富美也さんのおかげで、スポーツメーカーだってついているんだから、悪いこと言えないよな」

 もう一人が言った。

「まあ、そういうとこもあるかな」

 一輝が答えた。富美也は、そういうとこもあるのかよ、と突っ込みたくなった。

「いい子にしてたら、かわいがってもらえるんだから、俺もすり寄ろうっかな」

 一人が言う。

「いや、でもさ、富美也さんは自分が話していると、勝手に悦に入っちゃうから、大変なこともあるよ。独演会、いつまで続くのってさ」

 一輝の声がした。

 富美也は体が凍り付いた。動くことができない。

「ちょっと、友達いないタイプだしな」

 一人がけらけらと笑いながら言う。

「さみしいんだよ、たぶん」

 一輝が言う声が聞こえた。

 富美也は、ひっそりと踵を返した。自分が目をかけてやったのに、はらわたが煮えくり返る。無駄な時間を過ごした、と体が震えた。

 以来、一層、人間不信になった。

 日本人の女性コーチからロシア人の男性コーチに変えたのも、その頃である。

「富美也、あなたはもう少し、人とうまく付き合いなさい。手あたり次第、周りを敵視しすぎよ」

 日本人コーチは、この自分に説教をした。スケーティングに関する助言だったら、「違う」とは思っても対話し、受け止めることはできた。しかし人間関係について、人から言われるのは嫌だった。だから、外国人コーチに変えた。しかし、外国人の方が「人間関係が大事」と、折に触れて説教じみた話をするようになった。

 誰も、自分のことを理解できないし、自分も誰のことも理解できない。その断絶にいることを、富美也は実感していた。

「スケーターたちの輪」

 先人たちがよく使うフレーズがある。長い歴史の中、一人一人のスケーターたちの思いがつながっているという。その輪の中で、お互いに切磋琢磨し、熱を生み出し、世界を拡張させてきた。

 富美也は、お花畑の世界で暮らしているのかよ、と毒づきたくなった。

 絶対的王者の存在だけが歴史を作り出し、生み出す。みんなで手をつないで仲良し、で時代を作れるはずがない。突然変異のようなスケーターがいてこそ、その眩しい光のおかげで、他のスケーターたちも恩恵を受ける。王の権威が沈んだら、輝ける時代はおしまいだ。

 富美也は、そう考えている。だからこそ、スターである自分が惨めな敗北は許されない。華々しく勝ち続けなければならないのだ。

 さもなければ、フィギュアスケートは世間から関心を失う。他にもスポーツもエンタメもたくさんある中、トレンドに生き残るには強烈なチャンピオンの存在が欠かせない。なぜ、それが理解できないのか。

「スケートが好き」

 飛鳥井陸や星野翔平は、無邪気に言う。

 富美也も、否定はしない。しかし、アプローチが違う。自分は勝つことでしか、好きな気持ちを証明できないと考えている。みんな仲良くやって、健闘をたたえ合う、なんてお遊戯だ。

 それでも時折、性善説を受け入れられたら楽なのに、と思う。たとえば、心配で部屋に来たロシア人コーチには感謝していた。酔っ払ったようにしていたのも、お前も少しは気楽にやれよ、というメッセージだろう。陽気に振る舞っていただけなのかもしれない。

 さらに言えば、富美也は一輝の気持ちがわからないわけではなかった。同年代のスケーターたちに囲まれ、少し言葉が過ぎただけだろう。一輝に「友達がいないが、作る必要性も感じない」と伝えたのは、他でもなく富美也自身だったし、別に自分を卑下したわけではない。そういう生き方なのだ。

 日本人女性コーチの言葉も正論だった。人間関係を作ることで、スムーズに運ぶ事柄は多い。それぞれがリスペクトし合って、生み出されるエネルギーもあるだろう。

 しかし、どれも承服することはできない。

 それが三浦富美也というフィギュアスケーターだった。

 富美也はスケートにすべてをかけてきた。友達だけでなく、彼女だって、ろくに作っていない。気になった女性はいたが、スケートで一番になる、ということを優先すると、関係は自然消滅した。

「そんな暇はない」

 富美也はそう言って、突っ張って生きてきた。

〈全日本で借りを返す〉

 富美也は陸へのリベンジを誓った。自分の生き方を、今さら裏切ることはできない。そこに辿り着くと、平常心が戻ってくるのを感じた。

 全日本ではかつて自分の特別コーチを引き受けた福山凌太が、星野翔平のコーチとして戻ってくるという。

 富美也にとって、凌太は特別な人だった。体形を揶揄され、スケートをあきらめかけた時、自分の才能を認め、励ましてくれた。コーチを引き受けてくれた時は、本当にうれしかった。ようやく自分の心を打ち明けられる人ができた。おかげで、デンバー五輪王者にもなることができたのだ。

 しかし、凌太はそれを境に富美也から離れることになった。

「なぜですか?」

「理由はないよ、一区切り」

 凌太はさっさと辞めて去った。それ以後、誰のコーチもしていなかったのに、翔平のコーチを引き受けた。

 富美也はそれが我慢できなかった。コーチ解消後、調子が狂わせたことで、カルガリー五輪では陸に敗れた。コーチに戻って来てほしかったのに、翔平を選んだ。"裏切り行為だ"と詰って、その報いを受けさせたかった。

「お前は、本質的には翔平に似ているんだよ」

 凌太が、富美也に向かってそう言ったことがある。さっぱり意味がわからなかった。その真意はどこにあったのか。

 ソファから立ち上がった富美也は、バッグからスケート靴を取り出す。ブレードからエッジカバーを外し、タオルで入念に拭き直した。少しでも水分が残っていると、錆のもとになる。革の汚れを丁寧にブラシで落とした後、靴用クリームを靴用クロスにつけて、じっくりと磨き上げた。仕上げに、乾いたタオルで拭いた。

 一年間、肌身離さず持ってきた、この靴こそが味方だ。

「誰に嫌われたって、一人でもいい。俺はスケートで一番になる」

 富美也は声には出さず呟いた。