香坂英典が語る広報から見たジャイアンツ(前編)

 巨人の投手としては5年で現役引退したものの、その後は35年もの間、長きにわたりスコアラー、プロスカウトなど球団職員として現場に携わってきた香坂英典氏。なかでも、広報の仕事は計14年。言うなれば、巨人の"表も裏も知り尽くした男"である。

 そんな香坂氏が巨人を退職して4年。このたび回顧録ともいうべき一冊『プロ野球現場広報は忙しかった。裏方が見たジャイアンツ黄金時代』(ベースボールマガジン社)を上梓した。プロ野球界屈指の人気入団である巨人というチームの広報は、どんな仕事をしてきたのか。


巨人入団後は思うような結果を残せず苦しんだ清原和博氏 photo by Sankei Visual

【朝から深夜まで働き詰め】

── 香坂さんは阪神監督の岡田彰布さんと同い年なんですね。

香坂 そう。年齢も一緒だし、僕は中央大学で岡田は早稲田大学。リーグは違ったけれど、大学選手権決勝戦で対戦したり、日米大学野球の日本チームでも一緒でした。

── 天下の岡田さんを呼び捨てにできる限られた野球人ですね(笑)。

香坂 僕と同期で巨人に入団した島貫(省一)も早稲田大学、ヤクルトGMの小川淳司が中央大学の同級生で。いまプロでまだユニフォームを着ているのは、同じヤクルトでコーチの杉村繁くらいかな。もう少なくなっちゃいましたね。

── 選手を引退し、球団職員となって広報部門に就いたのが1992年。

香坂 Jリーグが発足する前年でした。当時のプロスポーツの主流は、プロ野球、相撲という時代でした。当時の監督は藤田元司さん。選手でいえば原辰徳、篠塚和典、村田真一、駒田徳広、川相昌弘、岡崎郁、吉村禎章......。ピッチャーでは斎藤雅樹、槇原寛己、桑田真澄、宮本和知、水野雄仁たちです。

── 錚々たる顔ぶれですね。

香坂 ただ92年の巨人は、リーグ優勝を逃がし2位。チームも転換期を迎えている時期でもありました。そのシーズンオフに長嶋茂雄さんが2度目の監督に復帰し、ドラフト会議で松井秀喜が入団してきたんです。世間の注目を集めるふたりが同時にユニフォームを着る。ドラフト会議場で、くじを引き当てた長嶋監督が親指を立てて笑顔を見せたとき、僕は逆に思わずしゃがみ込んじゃいましたからね。長嶋監督就任で慌ただしくなった毎日が、さらに忙しくなるわけです。不謹慎だけど、愕然としました(笑)。

── 記者の数も一般紙、スポーツ紙、テレビ、ラジオでおよそ30社、80名もいたとか。

香坂 春季キャンプですね。でもそれは常駐の数ですから、それ以上の人数と対応していました。翌日以降の取材申請やテレビラジオなどの出演対応もあり、朝から深夜まで働き詰めで、もちろん休みなどなし。疲れきっていた時は風呂にも入れず、部屋の電気もつけっぱなしでスタッフウエアのまま畳の部屋で寝てしまい、朝、目覚めるとそのままの格好で、またグランドに行ったこともありました。もう本当に死にそうって感じでした(笑)。当時は携帯電話もメールもない時代でしたから、シーズン中でも遠征から戻って家に帰ったら、自室がファクス受信した用紙で真っ白に埋まっていて、ファクス用紙の芯が何本も溜まっていった。今の人にそんな光景、わかるかな(笑)。

【メディアの窓口となる広報の仕事】

── 読者の方が広報の人を見るとしたら、テレビ中継でホームランを打った選手などがベンチに戻ってきたとき、そばで話を聞いているスタッフらしき人だったりします。

香坂 コメント取りですね。試合中はテレビも新聞もベンチには入れないので、代わりに広報が話を聞いてコメントを提供する。試合に勝てば、まずはテレビ、ラジオなどの中継対応としてヒーローインタビューの選手を決める。ヒーローは試合の成績から大体判断できるものだけど、決定的な該当者がいない時などは広報が奔走し、チーム内の意見を統一する。仕事はあげていくとキリがないけど、負けた時のほうが比較的ラクでした。

── 夕刊紙や雑誌とは"ケンカ"もありましたね。

香坂 関心を持ってもらえるのはありがたいことでしたが、誹謗中傷記事もかなりありましたからね。巨人の人気がありすぎたということなんだろうけど、叩けば新聞、雑誌も売れるという風潮もありました。だからメディアの窓口となる広報が「チームを守る仕事」も担わなくちゃいけなかった。そんな時代だった。「悪名高き巨人軍広報」なんて言われ方したこともありました。とにかくあの頃は、メディアのさまざまなニーズが殺到していました。写真誌も増え、グラウンドの内外問わずプライベートなシーンでも取材合戦が激しかった。抗議から係争ともなると、当時の広報部長をされた方々はかなりご苦労されていたのを忘れません。

── とはいえ、「守るだけ」「断るだけ」が当時の巨人広報ではなかった。

香坂 スポーツ報道も、本来の趣旨から外れた切り口で取り上げられることも少なくなかったので、チームを守っていくということを前面に出す時代もありましたが、守りすぎると閉鎖的なイメージばかりが強くなってしまう。難しいところではありますが、ファンのみなさんに喜んでいただけるのは巨人というチーム、そしてその選手の魅力がしっかりと伝わることです。それにはまず勝つことが前提にあり、このバランスがうまく取れていくのが理想だと考えていました。シーズンオフにはスポーツ選手と芸能人の境目がハッキリしないテレビ番組の演出依頼もあり、「野球選手がチャラチャラするな」という意見もあれば、逆に「親近感が湧くこんな愛すべき一面もあるんだ」という意見もあったりする。多くのファン層から支持を受け、もっと野球を、巨人軍を知ってもらうということから考えれば、広報担当者は柔軟な対応ができないといけないと考えるようになりました。

── 著書のなかでも、選手を育てるのはコーチだけでなく、記者も育てるとあります。

香坂 とにかく巨人みたいな人気チームに入ってチヤホヤされると、大きな勘違いをする選手も少なからずいるわけですよ。僕だってその環境に身を置きました。大体、コーチや先輩選手に導かれていくものだけど、それは記者も一緒だと思ったんです。とくに人生経験豊かなベテラン記者ともなれば、日頃の取材活動だけに捉われず、選手自身のことを思い「おい、それちょっと違うぞ」と選手をたしなめてくれる人が昔はいたんです。僕はそういう光景を見てきました。

── かつては家族以上に接している時間が長かったりしましたからね。

香坂 選手と巨人担当メディアの仲はいい時もあれば、喧嘩したりすることもあったけど、そういうベテラン記者の人たちが、ときにはメシに連れて行ってくれて、バカ話することもあれば説教をすることもあった。巨人担当メディアと取材対象者の距離が理想的な時代でした。でも選手とマスコミの距離が近すぎるのもよろしくないということもあり、僕ら広報担当者は常にその距離感にはいつも注意しながらシーズンを送っていました。

【長嶋茂雄流のファンサービス】

── 当時、香坂さんは「巨人はマスコミチームだから」とおっしゃっていました。

香坂 長嶋監督がおっしゃっていた言葉です。もちろん、僕もそう思っています。長嶋監督ほどメディアの対応をずっと考えていた方はいません。たとえば、春季キャンプの朝の球場入り。長嶋監督は、とんでもない数のファンが"入り待ち"している真ん中を笑顔で入っていきます。僕らは多くのファンが殺到してケガでもしないかとか心配するけど、監督は突然笑顔で入っていく。でもその時、同じく入り待ちしていた報道カメラマンの一団が、ちゃんといい写真が撮れる位置を歩いているかどうかしっかり計算していて、監督はしっかり「絵を撮らせた」たんです。サービスというより計算、戦略ですよね。

── 当時はSNSのない時代。今のように球団が映像を撮り、発信するなど考えられない時代でした。

広報 ある日、接戦の末に負けた東京ドームでの試合がありました。ゲームセットのあと、監督はいつも報道陣が待つ試合後の囲み取材に向かうのですが、その日はなぜかすぐにベンチからグラウンドに出て、スタンドをぐるりと眺めつつ「おい、どうだ、どのくらいお客さん残ってくれてたかな」と少し微笑みながら呟いたんです。9回、あと一歩のところまで相手を追い詰めて、勝てなかったけど、ファンは満足して帰ってくれたかな......と、監督はそう考えていたんですね。でもその直後の記者の囲み取材では険しい顔をして、淡々と試合を振り返った。この切り替えの早さ、すごいと思いましたね。今ならハンディカメラで試合終了直後のベンチを撮影できる時代かもしれないが、カメラが回っていないから監督は呟いた訳で、負け試合でもファンの手応えを常に気にしている本当の監督の姿は、やはり簡単には見られないものです。

── そんな長嶋さんご自身が「長嶋茂雄を演じるのも大変なんだ」と漏らしていたとか。

香坂 当時、監督担当の広報だった小俣(進)さんから聞きました。監督は多くの人たちが気にしている存在であり、ファンのことを常に考えています。エピソードはたくさんありますし、また語り尽くせない恩義というか、人生経験をさせていただいた方ですね。本のなかでも書きましたけど、人生の教科書のような方です。

── 選手で言えば、清原和博さんがFAで入団したときも香坂さんが窓口となり、仕切っていたんですね。

香坂 長い歴史があるなかで、巨人というチームはこれまで多くの選手が入りたい、入って活躍したいと思うチームだと思うんです。結果、夢が実現した選手もいれば、叶わなかった選手もいる。そうした大勢のなかで、おそらく巨人に対する想いがもっとも強かったのが、清原だったと思うんです。そしてFAという形で夢を実現させた。ところが、一番好きなチームなのに、一番苦労もする場所に入って来ちゃったのではないか......(笑)。そんな風に感じましたね。どれだけ窮屈さを感じていたか、僕は心配しました。もっと自分の思いどおりに自由にやりたかったのだろうけど。でも、それが巨人というところだったからね。

── 文字どおり、皮肉な運命というか。

香坂 そのひとつがマスコミ対応です。活躍はしたけど、メディアにはあまりしゃべりたくないっていうのは、通用しないチームなんでね......。ある時、キヨが丁寧すぎるほどちゃんと記者の囲みに応対している姿を見た時、こう言ったことがあるんですよ。「キヨ、大変か?」って。そしたら少し笑って「修業だと思ってます」って返してきたんです。えっ?と驚いたけど、憎いこというなぁと(苦笑)。彼なりに精一杯やっているんだと思うと、あの怖い顔でもなんとか応援したくなった。大変なことはいっぱいあったと思いますが、やっぱり巨人に入るべき人間だったと思いますね。松井秀喜とはまったく対照的なタイプでしたが......。

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香坂英典(こうさか・ひでのり)/1957年10月19日、埼玉県生まれ。川越工業高から中央大を経て、79年ドラフト外で巨人に入団。4年目の83年にプロ初勝利を挙げるも、翌年現役を引退。引退後は打撃投手をはじめ、スコアラー、広報、プロスカウトなどを歴任。2020年に巨人を退団し、21年秋からクラブチームの全府中野球倶楽部でコーチを務めている