円安でも設備投資は増えていない(写真:Bloomberg)

円安が止まらない背景はさまざまだが、中長期的には貿易赤字など構造的な円売り要因が重要であるという見方が増えてきたように思われる。

もっとも、貿易収支だけをみると、2022年に原油高と円安が進んだ局面と比べれば、赤字幅は縮小してきている。


それでもなお円安が止まらない背景には、貿易収支の「改善パス」に問題があると、筆者はみている。

後述するように、日本では「悪いJカーブ効果」によって望まれないパスで貿易収支が改善している。日本経済の弱さによる貿易収支の改善を、為替市場はまったく評価していないと言えるだろう。

円安で輸出増」とはならなかった

通常の「Jカーブ効果」とは、円安局面では輸入が増加して貿易収支が悪化する一方で、その後は輸出競争力が増すことによって貿易収支が改善するだろうという考え方である。

日本は輸入の外貨建て比率が高いために円安局面では輸入金額が増加し、貿易収支が悪化(黒字縮小、赤字拡大)しやすい一方で、円安が定着した後は価格競争力を強めた日本企業が輸出を増やしやすくなり貿易収支が改善(黒字拡大、赤字縮小)することが期待できる。

しかし、現実には財輸出はほとんど増加しておらず、通常の「Jカーブ効果」のメカニズムは働いていない。

他方、筆者が指摘している「悪いJカーブ効果」とは、国内生産能力や競争力が弱くて円安でも輸出は増えない一方で、「悪い円安」によって国内の需要が落ちることで輸入数量が減少し、貿易収支が改善していくという考え方である。


通常の「Jカーブ効果」でも貿易収支は改善することが予想されるが、「悪いJカーブ効果」でも貿易収支は改善し得る。貿易収支だけをみればいずれも「Jカーブ」なのだが、発現のパスが異なることが重要である。

2022〜2023年はどちらの「Jカーブ」か

ここで、現状までの「答え合わせ」として、2022年度(円安局面)と2023年度(円安後)のデータを確認する。


円安が進行していた2022年度は、輸入価格の上昇によって貿易収支(金額)が大幅に悪化した。また、2023年度は輸出数量が小幅マイナスとなり、通常の「Jカーブ効果」が生じなかったことがわかる。

他方、2023年度は輸入数量が前年度比マイナス6.1%となり、輸入金額は大幅に減少した。その結果、輸入の減少によって貿易収支が改善した格好であり、「悪いJカーブ効果」の動きで説明できる。

「悪いJカーブ効果」によって貿易収支が改善したとしても、需要が減少して輸入も減少するという状況は日本経済が縮小均衡に向かっていると考えられ、まったくいい状況ではない。

貿易収支が改善しても円安が止まらない背景の一つとして、日本経済が縮小均衡に向かっているという事実がありそうである。

6月21日に閣議決定された「骨太の方針」の最大の問題は、貿易赤字などの構造的な円安要因への対応策が議論されなかったことだと、筆者は捉えている。

円安をテコに企業の国内回帰を促す姿勢を示し、姿勢だけでも円安を是正したいという態度を示すことで、足元の円売り圧力を弱めることができたのではないか。

むろん、人口減少社会で国内需要の減少と人手不足による供給能力の減少が同時に進むことが予想される日本に生産設備を回帰させることが賢明なのかという観点からは、政府が呼び掛けたところでそれほど国内回帰が進まない可能性もある。

しかし、今後の予想で動く金融市場に対しては「見せ方」も重要である。

国内の設備投資は増えていない

国内回帰が進めば、円安をテコに輸出を増加させることができる。その結果、通常の「Jカーブ効果」によって貿易赤字が減少(貿易黒字が増加)していくことが期待される。輸出企業が外貨売り・円買いを行うことで、円安圧力が弱まってくる(スタビライザー効果)。

この効果は現実に生じる必要はなく、「そうなるだろう」という期待が市場で働けば、その方向に市場が勝手に動いていくことが予想される。

逆に、国内の製造能力が脆弱だと円安が進んでも輸出は増えない。足元で円安が止まらない現状は、「どうせたいして輸出は増えない」と市場が判断している証左と言える。

実際に、国内生産を増やすための設備投資が順調に増えている様子はない。

7月11日に公表された5月の機械受注統計は前月比マイナス3.2%と、市場予想を下回った。振れが大きい統計とは言え、円安で家計の消費マインドが悪化する中、「良い円安」の効果に期待する向きには残念な結果だった。

そのうえで、何気なくX(旧Twitter)を眺めていたところ、あるリフレ派のアカウントが、円安でも国内回帰による設備投資の状況が顕在化しないことについて、一部の「専門家」が言い出した「悪い円安」論が阻害している、と批判していた(およびそれを報じるメディア、支持する世論、政府、日銀も含めて全方位的に批判していた)。

「患者の体質が悪いから手術しても治らない」?

まず、筆者の認識では「悪い円安」論は、何かそちらの方向に持っていきたい(リフレ派の好きな言葉で言えば、期待に働きかける)という目的で議論されてきたわけではない。

実際に消費マインドが大幅に悪化し、悪影響が目立った。そのうえで、製造業の生産拠点の状況などから円安による輸出の増加(Jカーブ効果)が出にくいことは、前述の議論の通り予想されたので、自然発生的に「悪い円安」論が出てきた。

それを批判するということは、各主体は現実を直視せずに都合のいいプロパガンダに徹すべきであるということであり、それは正しい姿ではないだろう。

5月21日に行われた日銀「多角的レビュー」のワークショップでは、東京大学名誉教授の吉川洋氏が「荒療治かもしれないが外科手術をすれば治るということで、手術した。一定の効果はあったが治らなかった。理由は『患者の体質が悪いから』。こういう説明は患者にアクセプト(容認)されるのだろうか」と述べたという(『日本経済新聞』)。

前述の「悪い円安」論への批判は、「円安になれば経済は良くなるはずだが、専門家・メディア・世論・政治・日銀が悪いから良くならない」と言っているようなものであり、アクセプトされるものではないだろう。

そもそも、リフレ派でなくても「悪い円安」論の議論の最後はたいてい「そうは言っても円安をテコに外需を取り込むべきである」という話になる。

円安のメリットは最大限活かすべきだという考えを否定する余地はないだろう。筆者も「骨太の方針2024」に企業の国内回帰を促す視点が少なかったことが残念だと指摘してきた。

実際には、円安をテコにした投資「期待」は生じていないわけではない。例えば、日銀短観の設備投資計画は堅調である。計画をしても実行されないことが問題なのである。

この背景については、設備投資のニーズはあっても人手不足問題などでなかなか実行されないという見方が多い。もっとも、機械受注統計は2022年と比べても下向きになっており、キャパシティーの問題だけでもないようである。

需要が増えなければ、設備投資は進まない

例えば、生成AIなど最新の技術を使った設備投資の計画が行われても、やってみたら実現は難しいことがわかったり、予算が余ったり、そもそも需要が増加して(必要性に対応して)設備投資をするわけではないので、先送りされやすいものが多かったりするのではないかと、筆者はみている。

企業利益が高まっても需要が増えなければ(設備稼働率が高まらなければ)設備投資は進まないということは、アベノミクスの円安局面の教訓でもある。

いずれにせよ、円安でも設備投資が増えない理由は、「期待」や「雰囲気」のようなナイーブな要因によるものではなく、「悪い円安」論に原因はないだろう。

近代経済学において、「期待」の役割が大きいことは事実である。そういった中で、メディア、世論、政府、日銀といった経済主体が経済成長率を最大化する方向に向いていないことは往々にしてあるだろう。

しかし、それぞれにそう考える理由があるはずである。

例えば、高齢化社会において中長期の経済安定よりも足元の景気に目が向きやすくなることは自然なことである。人々の「期待」を動かすことが難しいことは異次元緩和の教訓だった。

このような前提を所与として、経済政策の効果や景気のパスを予測し、処方箋を考える必要がある。

例えば、高い経済成長率によって社会保障の問題を解決することはベストである。しかし、現実にはそれは難しいとして、セカンドベストとして現実的な政策を選択することが先々のリスクを軽減することにつながることもあるだろう。

患者の状況も勘案して分析をすることを、筆者は心掛けている。

(末廣 徹 : 大和証券 チーフエコノミスト)