為末大が考えるこれからのオリンピックの在り方 新しいインターネット型の大会を再開発していく可能性
肥大化したオリンピックはその在り方を変えていく時期に来ているのかもしれない photo by Getty Images
検証・オリンピックの存在意義08〜為末大インタビュー後編〜
2000年シドニー、2004年アテネ、2008年北京と3回のオリンピックに出場した元陸上選手の為末大氏。引退後は幅広い分野で活動し、現在は教育の視点から日本のスポーツ界にアプローチしているが、為末氏にとって、近代オリンピックは果たして普遍的なイベントなのか、またオリンピズム・オリンピックムーブメントが社会にもたらす影響と意義について、率直な考えを聞いた。
>>前編「レガシー、アスリートファーストとは何だったのか?」
>>中編「日本スポーツ界の構造的問題とは?」
――近代オリンピックは〈オリンピックムーブメント〉〈オリンピズム〉という思想を具体化した活動という側面がある一方で、3年前の東京大会ではいろんな矛盾も顕在化しました。現在の形のオリンピックは、今後もずっと持続可能だと思いますか?
為末:ここまでのブランドとして出来上がってしまうと何かの形で継続していくと思いますが、形態が大きく変わっていく可能性があるかもしれないですね。
たとえば、将来も1都市開催でなければならないのか、という疑問は必ず出てくると思います。今の開催条件だと、民主主義体制でも経済的に豊かではない国は開催合意を取れなくなるでしょうし、反対派の人々を説得するのが困難という意味では、アメリカも厳しくなっていくと思います。そうすると意思決定を集約しやすい国、たとえば中東や中国の都市をぐるぐる回っていくような状態になるでしょう。
それを防ぐには開催国と開催都市の負担を減らすしかなく、そのために各競技がいろんな地域に散って地域ごとに担当競技が決まっていく。それで、開会式や閉会式だけをどこかに集約して実施する、という方法がひとつの可能性としてあり得るでしょう。
ふたつ目は、競技種目を現在のように限定するのではなく、開催期間中に行なわれているあらゆるスポーツの祭典になっていく可能性もあると思います。30年前なら、オリンピック競技といわれると多くの人が種目を思い浮かべることができましたが、最近では、「ブレイクダンスってオリンピックに入るんだっけ?」「サーフィンはどうなんだっけ?」と、共通の認識が薄くなりつつあります。これがさらに加速していくと、オリンピック競技かどうかよくわからないスポーツまでたくさん行なわれている、という将来像は変化の形態としてあり得ると思います。
もうひとつ考えられる大きな変化は、放映権をMetaやGoogleなどのIT企業に売る、というモデルです。放映権を課金制サービスにしない最大の理由は世界中に広げるため、というのがIOCの説明だと私は理解しているのですが、いまコンテンツを最も広げることができるのはIT企業なので、たとえば彼らがすべてのスマホにオリンピックを流すようなことをすれば、ものすごく斬新な展開もありえると思います。
――つまり、放映権の主役が現在のテレビ事業者からインターネットのプラットフォーマーに替わっていく、ということですか。
為末:そのとおりです。しかも、有償サービスのネットフリックスなどではなく、コンセプト的には無償で見られるプラットフォーム、たとえばMetaやGoogleのような事業者が候補になっていくのかな、と思います。
――利益構造も変わってくるでしょうね。
為末:大きく変わると思いますね。
――そうなると、オリンピックに関する知財の考え方、現在のオリンピック憲章規則40(※)のありかたも変わってくるでしょうね。
*オリンピック憲章規則40:開催期間を含む前後期間に、選手を含む関係者の広告活動などの規制を定めるルール
為末:そうですね。1984年のロサンゼルス五輪モデルが一気に崩れて次のモデルになっていくと思うのですが、歴史的にそういうものはたいていアメリカが先鞭をつけるので、今回のパリではなく次の2028年ロス五輪あたりのタイミングで、新しいインターネット型オリンピックを再開発していく可能性があるかもしれません。
【オリンピズムはその時代の最先端の象徴】――先ほどの話にもありましたが、近年はスケートボードなどアーバンスポーツがオリンピック種目に入ってきています。アーバンスポーツはオリンピックのような中央集権的な考え方と対極にある、いわばもっとアナーキーなスポーツだと思うのですが、そのような競技がオリンピック種目に入ることを、為末さんはどんなふうに見ていますか?
為末:すごくいいことだと思います。我々のようなオリンピアンがオリンピックにとって大切だと考える要素のひとつが公平性です。同じ条件かどうかをすごく気にするんです。陸上競技だと、風の強さが秒速2mを超えると標準記録ではなくなるのですが、たとえばサーフィンはいつも同じ波で競うわけではないですよね。そのように公平ではない条件でも競い合うスポーツが入ってくると、価値観が少しずつ変わっていくと思うんです。それがオリンピックをよい方向に変えてくれるのではないかと思います。
――つまり、本来のオリンピズムの思想に近づいていく、ということでしょうか。
為末:当初のオリンピズムとは何だったのか、オリンピアンである私にもよくわかっていないのですが、古代オリンピックに関するものを調べてみると、おそらく現代の祭りのようなものに近かったのではないか、とも思います。
アーバンスポーツがオリンピックに入ってくることで、そういった祝祭的な空気がもう少し強くなる気がするんですよ。ルールが厳密で公平性も担保されて勝利条件が明確になると、「機械」になれる人ほど強くなる。寸分違わず毎回同じプレーをできるほうが強くなるからです。今はその傾向が少し行き過ぎている気がするんですよね。
――もう少し、緩やかなほうが望ましい?
為末:そうですね。機械になる、ということは答え合わせができてしまうわけですから、小学校時代にはこんな条件で育成して高校で一番いい状態になって......、とシステムに組み込んで鍛えていく発想が出来上がる。それが先ほど言った勝利至上主義にもつながっていくわけです。メダルを獲るためには4歳までに競技を始めましょう、というような効率性至上主義ばかりになると、エリートコースを歩んだ人しかオリンピアンになれない世界になって、たとえばどこかの田舎から出てきた少年がいきなりオリンピックに行く、という余地がなくなってしまうので、それはあまりいいことではないと思います。
――それでは夢がなくなる、と。
為末:そうなんです。インドネシアの田舎で裸足で走っていた少年が速くなって、アジア大会で10秒0台でメダルを獲ったラル・ムハマンド・ゾーリ選手のような、ああいう物語が世界中のどこでも起きる可能性があるのがすばらしいと思うので、「ここに生まれない限りは無理」「こういう経験を人生の早い段階でしていなければトップを目指せない」というのはつまらないと思いますね。
――1都市開催は難しくなるだろう、という話がありましたが、4年に1度の開催間隔は今後も続いていくと思いますか?
為末:続くでしょうね。要するに、何が崩れるとオリンピックではなくなるのかという問いだと思うのですが、4年に1度であることと世界中からの参加という、このふたつの要素が崩れたらオリンピックではなくなる気がします。
――IT企業のようなプラットフォーマーが世界的な放送・配信を担うようになり、1都市ではなく複数都市で行なわれるようになるとすれば、今までの近代オリンピックとは似て非なる大会になる可能性が出てきます。従来のようなオリンピックを目指してきた人々やIOCは、それでもいいと考えるでしょうか。
為末:とはいえ、人間の記憶は強力なので、あの5つの輪と「オリンピック」という名前がもたらすイメージは普遍的だと思います。たとえば世界的な数学大会に『国際数学オリンピック』という名前をつけてしまうくらいなので、世界的コンペティションの象徴としてオリンピックという名前やフォーマットは崩れない気がしますね。
【突き詰めれば世界平和と地球環境の維持】
時代の変遷に合わせてオリンピック開催のための環境の維持に努めることがオリンピズムという為末氏 photo by Murakami Shogo
――男女別の競技分類も、近年ではジェンダーアイデンティティなどの面からさまざまな議論があるようですが、そこはどうなっていくと考えていますか?
為末:生物学的な男女で区別する在り方は、基本的に変わらないだろうし変えるべきでもないと思います。まずはその線引きをクリアにしたうえで、トランスジェンダーの選手をどうするか、ということは別途議論が必要になるでしょう。カテゴリーを新たに作るのか、またはハンディマッチにするのか、いろいろと工夫する必要はあるでしょうが、あくまで生物学的な違いで分ける考え方は揺るがないと思います。
――最後にやや大きな問いをお訊ねしたいのですが、近代オリンピックが体現しているとされるオリンピズムやオリンピックムーブメントは、今後も人間社会に有用で、人間社会をよりよき段階へ進めてゆく有効な〈道具〉であり続けると思いますか?
為末:ピエール・ド・クーベルタンが近代オリンピックを復活させた当初は、若者の健全な育成という側面もあったのでしょうが、それが世界平和というニュアンスを含みながら発展してきたように思います。その意味では、オリンピズムは最初から普遍的な大義名分を唱えてきたというよりも、時代とともにある程度の変遷をしながら、「オリンピックが開催できる地球環境を保ちましょう」という努力を続けてきたことが、じつはオリンピズムの根幹だと考えています。
つまり、オリンピック自体が世界に対して何かを訴えるというよりも、200以上の国と地域から選手たちが集まってきてスポーツをできる環境を保つことが(オリンピズムの)根幹なのだと思います。
今後は地球環境問題も大きなテーマになるでしょう。それと、世界が分断してしまわないようにその手前で織り合える知恵を見出すこと。このふたつがオリンピックを開催する最低条件で、それを維持していくためのものがオリンピズムなのだと思います。
要するに世界平和ですね。理由は何であれ「世界中からアスリートが集まってスポーツをできる状況を保ちましょう」という理想は、世界をひとつにつなぎ止めるパワーになり得ると思います。
――特にパリオリンピックは、国際情勢がはらんだ中での開催になるわけですからね。
為末:しかも開催地が欧州ですからね。日本から見た視点と欧州の危機感は、ヨーロッパの知人と話していても皮膚感覚のレベルでかなり違う印象があります。だから、パリオリンピックは象徴的な意味でも、とても重要な大会になるでしょうね。
>>前編「レガシー、アスリートファーストとは何だったのか?」
>>中編「日本スポーツ界の構造的問題とは?」
【Profile】為末大(ためすえ・だい)/1978年生まれ、広島県出身。現役時代は400mハードル日本代表選手として多くの世界大会に活躍し、2001年エドモントン、05年ヘルシンキの世界陸上選手権では銅メダルを獲得。オリンピックには2000年シドニー、04年アテネ、08年北京と3大会連続で出場を果たした。現在(2024年7月15日)も400mハードル日本記録(47秒89/2001年樹立)を保持している。2012年シーズンを最後に現役を引退後、現在はスポーツ事業を行なうほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。