今なお続く「パレスチナ問題」はここから始まった?…第一次世界大戦で大英帝国が犯した〈禁断の外交戦略〉【世界史】

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「サラエヴォ事件」を引き金に、ヨーロッパ全体を巻き込む戦争となった「第一次世界大戦」。渦中にあった大英帝国が、戦時下におこなった外交政策が、今日も紛争が続いている中東問題を引き起こす原因となります。立命館アジア太平洋大学(APU)名誉教授・学長特命補佐である出口治明氏の著書『一気読み世界史』(日経BP)より、詳しく見ていきましょう。

第1次世界大戦を招いた、オーストリア皇帝の頑迷

1914年6月、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公夫妻が、バルカン半島のサラエヴォでセルビア人の民族主義者に暗殺されます。第1次世界大戦の引き金になったサラエヴォ事件です。

しかし、不思議な話です。バルカン半島は当時、民族紛争で大荒れでした。そんなところになぜ、皇位継承者のフランツ・フェルディナント大公がわざわざ出向いたのでしょう。

それは、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世が賢くなかったからです。

ハプスブルク家は賢帝が出ない不思議な家系ですが、この人はまた、とんでもない頑固者でした。あまりの頑固さに息の詰まった妻が、放浪の旅に出てしまったくらいです。妻が放浪の旅をしている間に、皇帝と妻の子どもの皇太子が、若い女性と心中してしまいました。そこで甥にあたるフランツ・フェルディナント大公を皇位継承者にしました。

フランツ・フェルディナント大公は、ボヘミア生まれの下級貴族のお嬢さんと恋をして、幸せな家庭を築こうとしていました。フランツ・ヨーゼフ1世は頑迷そのものですから、下級貴族の妻を許しません。結婚は認めるが、子どもに皇位継承権は与えないし、ウィーンの宮廷で2人が並んで座ることも許さない、というのです。そんな2人も、地方に出かければ、並んで座れて、拍手喝采で迎えられます。だからフランツ・フェルディナント大公は地方に頻繁に出かけ、そこで凶弾に倒れたわけです。

ともあれ、皇位継承者がセルビア人に殺されたとあって、オーストリアは激怒します。しかし、それならオーストリアとセルビアの戦争になるはずです。それがなぜ、第1次世界大戦に発展したのでしょうか。

望まない戦争に引きずり込まれた、列強の愚かさ

暗殺事件の1ヵ月後、オーストリアはセルビアに宣戦布告します。ドイツもロシアもフランスも本来、これに何の関係もありません。ただし、ロシアはセルビアの後ろ盾になっていましたし、ドイツはオーストリアと同盟を結んでいます。

ロシアは兵士に動員をかけます。戦争の準備くらいして見せなければ、格好がつきません。ロシア皇帝のニコライ2世は、総動員を望んでいませんでした。総動員したら、ドイツを刺激してしまいます。ところが参謀の大臣たちは「部分動員は技術的に難しい」などと主張して食い下がります。すったもんだの末に疲れ果てた皇帝は、「しゃあないな」と、総動員を認めてしまいました。

ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世もあまり賢くありませんでした。戦争をする気なんてなかったのに、ロシアが総動員したと聞いて「じゃあ、うちも」と動員をかけます。露仏同盟を結んでいるフランスも、「ロシアがやるなら、うちもやらんとあかんな」と動員します。こうして悲惨な戦争が始まりました。

愚かですよね。『夢遊病者たち―第一次世界大戦はいかにして始まったか』(クリストファー・クラーク著、小原淳訳/みすず書房)という名著があります。誰も望んでいない戦争にずるずると引き込まれていく第1次世界大戦前夜の様子が、見事に描かれています。

ドイツ組と大英帝国組、アメリカの国力は「1:1:1強」

第1次世界大戦の構図を確認します。もともと三国同盟がありましたね。19世紀に、ドイツとオーストリア、イタリアが結んだ同盟です。しかし、オーストリアと領土問題を抱えていたイタリアは、第1次世界大戦では当初、中立を守ります。ドイツ側には、3B政策で深く結びついていたオスマン朝(トルコ)がつきました。このドイツとオーストリア、オスマン朝の陣営を、現在では中央同盟国と呼びます。いわば「ドイツ組」です。

この「ドイツ組」に対峙したのが、露仏同盟を結んでいたロシアとフランス、そしてドイツと覇権を争う大英帝国です。こちらは「大英帝国組」と考えればわかりやすいでしょう。

第1次世界大戦はまず、このような「3ヵ国対3ヵ国」の構図で始まったわけです。戦場はヨーロッパです。

第1次世界大戦は総力戦でした。軍事力だけでなく、国全体の経済力、生産力で戦う戦争ということです。そこで両陣営を工業生産力で比べてみましょう。

下の図表を見ていただければわかる通り、中央同盟国のドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国と、英仏ロシアの連合国3カ国の工業生産力は、かなり拮抗しています。中央同盟国にオスマン朝が加わることも考えれば、ほぼ互角といっていいでしょう。

[図表]1913年段階における主要参戦国の工業生産力 出所:『一気読み世界史』(日経BP)より引用

しかし、この2つの陣営とほぼ同じか、それを大きく上回る工業生産力を、アメリカ1カ国が持っていました。

かなり大雑把にまとめれば、当時の列強の国力は、次のような数式で表せるでしょう。

ドイツ組:大英帝国組:アメリカ=1:1:1強

3強ですね。実際に戦ってみるとドイツが強く、まず、東のロシアをタンネンベルクの戦いでこてんぱんにやっつけます。次にドイツは、西のフランスを倒そうとしますが、フランスは意外にしぶとく、西部戦線は膠着します。

大英帝国が「一番弱いオスマン朝」に狙いを定める

西部戦線が膠着すると、大英帝国がひらめきました。「ドイツは強い。だったら、中央同盟国のなかで一番弱い国からやっつけよう」ということで、オスマン朝に狙いを定めます。英仏は、イスタンブールの占領を目指して、ガリポリの戦いを仕掛けます。ところが、オスマン朝にはムスタファ・ケマルという若い英雄がいて、全然勝てません。ムスタファ・ケマルは、のちのケマル・アタテュルクです。

目算が狂った大英帝国は焦ります。そしてアラブの指導者フサインに「フサイン=マクマホン往復書簡」と呼ばれる手紙を出します。「アラビア半島で、オスマン朝に反乱を起こしてくれ。そうしたらアラブの国をつくってあげよう。パレスチナへの居住も認めよう」と。

このとき、アラブ側に立って活躍したのがアラビアのロレンスです。

大英帝国の「三枚舌」外交が、中東に禍根を残す

ドイツに苦しめられた大英帝国は、「三枚舌」外交に出ました。ユダヤ人の大富豪ロスチャイルドには「戦争はお金の勝負です。だから、お金を出してください。そうしたら、パレスチナにユダヤ人の国をつくってあげます」と約束しました。「バルフォア宣言」です。

しかし、その一方で、フランスには「戦争が終わったらシリアをあげる」「パレスチナは国際管理地にしよう」と約束していました。「サイクス・ピコ協定」です。

そして大英帝国は、アラブの人たちとも、往復書簡で「フサイン=マクマホン協定」を結んでいましたよね。この協定に従って、アラビアのロレンスは、アラブ人と一緒にシリアのダマスカスに入りました。

同じ土地を三者にあげると約束したわけですから、三枚舌です。学者のなかに、アラビア半島やパレスチナ、シリアの地図を精緻に読み込んだら、「この三枚舌は成立する」という人もいるのですが、どう考えてもおかしいです。

第1次世界大戦の終結後、フランスはサイクス・ピコ協定に従って、シリアを手に入れます。シリアに入っていたアラブ人は、突然「ここはフランスのものだ」といわれて激怒します。激怒したアラブ人をなだめるため、大英帝国は「じゃあ、イラクにアラブ人の国をつくってあげる」といいました。第1次大戦後、大英帝国はイラクとパレスチナを手に入れていました。イラクが建国されて、フサインの子どものファイサルがイラク国王になります。イラクの人たちにしてみれば、びっくりですよね。

今日の中東の混迷の原因のほとんどは、大英帝国の「三枚舌」にあると考えていいです。苦し紛れに、みんなにいい顔をしたからです。

アメリカ参戦で工業生産力の拮抗が崩れる

1916年の年末、ドイツが「もうしんどい。講和したい」と漏らしました。

それを受けて翌年、アメリカが「こんな戦争を続けていたらあかんで」と、仲介役を買って出ます。ところが、この申し出を英仏ロの連合国が蹴ります。「ここでドイツをやっつけないとえらいことになるで。やめられんで」と。

困ったドイツは、通商破壊作戦(無制限の潜水艦作戦)を始めて、連合国の船を徹底的に沈めます。アメリカはこれに怒って参戦します。

アメリカの参戦で、第1次世界大戦の帰趨は決しました。ドイツ組と大英帝国組の工業生産力は1:1で拮抗していましたね。それがアメリカの参戦で1:2強になるわけですから。

出口治明

立命館アジア太平洋大学(APU)
名誉教授・学長特命補佐