「乳房」を手放した女性が直面、それぞれの事情
単身でバリに渡り、現地で乳がんに気づいた日高利香子さん(筆者撮影)
「乳がんになっちゃってね。手術するの」
電話の向こうの友が、からっと打ち明けた。
「……全摘になるんだって。まぁいいのよ。子どもも大きいし、もう使い途ないんだから。“ぱぱっと取っちゃってください! ぱぱっとね!”って先生に言ったの」
よかった。思ったより元気で、さばさばと笑う声に私はほっとした。
――けれど次の瞬間、彼女は火がついたように泣き出した。
女性にとって特別の意味を持つ乳房
日本人女性の乳がん罹患率は2022年予測で9万4300人と、がんの中では最も多い。乳がんによる死亡者数は、2022年予測で1万5600人(国立研究開発法人国立がん研究センター「がんの統計2023」より)。
命を落とさずとも、なんらかのかたちで乳房を“うしなう”人は数多い。
乳房は、女性にとって身体のほかの部位とは異なる意味を持つ。大きさ、かたち、柔らかさ……この愛しくも悩ましいふくらみを手放すとき、女性たちの“胸”に降りるものは何か。乳がんを乗り越えた、ふたりの女性に問うてみた。
「どうぞ、お手に取ってご覧くださいね。このウェアは、乳がんの手術をされた方にも気にせずお召しいただけます」
横浜にある古民家カフェの一角。色とりどりの小物や衣類を並べながら、日高利香子さん(仮名・50歳)が微笑んだ。現在バリに住む利香子さんは、日本に帰るたび小さなイベントを開き、自身が手がけるヨガウェアやバリの雑貨を販売しているという。
私が前述のウェアを見ていると、利香子さんが傍らにやってきた。
単身でパリへ
「もう5〜6年ほど前になりますが、私、乳がんを経験したんです。乳房は全摘しましたが、猫のおかげで助かったんですよ」
「猫のおかげ?」
驚く私に頷いて、彼女は続けた。
「私が初めてバリを訪れたのは20代後半のころで、今から25年ほど前になります。当時のバリはヨーロッパと現地のカルチャーが小気味よくミックスされていて、一瞬で心を奪われました。“ずっとここにいたい!”と思って、その後、単身移り住んだんです」
利香子さんが手がけるヨガウェア。肩紐を絞ると、傷跡をカバーできる。現在国内ではイベント等での販売が中心で、価格は3850円(筆者撮影)
もともとフラダンスのインストラクターをしていた利香子さんは、バリでフラ用品の製造販売をしようと思っていた。すると、噂を聞きつけた人たちからオーダーが相次ぎ、彼女は思いがけず嬉しい悲鳴を上げることとなった。
「本当はオリジナルのフラショップをやりたかったんです。でも、OEMでお客様からオーダーをいただいているのに、自分がさらにオリジナルを作るのは立場的に難しいものがありました。フラでなければなんだろう?と考えたとき、思いが向いたのがヨガウェアでした。ちょうどバリが“ヨガの聖地”と言われ始めた時期と重なりましたし、前職でカジュアルウェアの販売をしていたので、アイデアもどんどん湧きました」
日本からのオーダーを捌きつつ、駐在員の多いジャカルタでバザーに参加したところ、オリジナルのウェアが彼らの妻たちの目に留まり、次第に売り上げも増していったという。
人からいただく注文はありがたくかけがえないぶん、神経を研ぎ澄まして慎重に向き合わなくてはならない。また、オリジナル商品には十分に愛を注いで磨き上げなくてはならない。恵まれた状況なのだから、どちらにも手を抜かず成り立たせなくては……。
ふたつの仕事を大切に思うがゆえ、自分を顧みる暇はなくなった。疲労はピークに達し、日に日にストレスが募る。消耗し追い詰められていく彼女を、開業当時からそばにいた愛猫はじっと見ていた。
愛猫が教えてくれた予想外の乳がん
その日も、利香子さんは休むことなく働いていた。
すると突然、愛猫が彼女のパソコンに粗相をしたのだ。そんなことは、初めてだった。
「パソコンが使えないので、しかたなくスマホで仕事をすることにしました。
それで、ベッドに横になってスマホを触っていたら、ふと手のひらが胸のしこりに当たったんです。“え?”と思って脇も触ってみたら、脇にもコロンとしたものがあって……。そのとき初めて“乳がんかもしれない”と思ったんです」
それまで、胸に痛みや違和感はまったくなかった。すぐに病院に行くも、インドネシアでの処置は難しいと判断され、利香子さんは一時帰国を余儀なくされた。そして、病気の発覚と入れ替わるように、愛猫の姿が消えた。
「あの子は、うちのオフィスで生まれてずっと私が育ててきたんですけど……。大事なことを伝えて、ふっと姿を消してしまいました。必死に探し回りましたが、結局見つからなくて。でもあの粗相は、私へのメッセージだったと思うんです。無理矢理にでも私をパソコンから引き離して、“胸に触れてみて”と伝えてくれたんじゃないかと。そうでなければ、乳がんに気づくのがもっと遅れて、命にかかわっていたかもしれません」
愛猫の失踪に胸を痛めながら、利香子さんは闘病を始めた。
「私は最初ステージ3aと言われていたんですが、いざ手術してみたらがん細胞は脇のリンパ節を越えてリンパ腺まで広がっていて。それが一般的に言うステージ4なのか、ステージ3bなのか、はっきりとはお医者様に言われませんでした。
“ステージ”って人によって状況が違うので、同じ“4”でも大変な人もいれば、そうでもない人もいるんです。だから、ステージそのものはそんなに気にしなくていいんだと思いました」
淡々と語る利香子さんには、病への怯えが少しも垣間見られなかった。
見えたのは、どうにか脅かしてやろうと手ぐすねを引くがんを、真顔であしらってやった美しいふてぶてしさ。それには、バリで出会った友人の言葉が大きく影響しているという。
「ある人に、“目の前で起きてることって、自分が悩んでも悩まなくても状況が一緒だったら、悩んでいる意味ないじゃない?”って言われたんです。その言葉が、すごく腑に落ちて。だから、乳がんだとわかったときも、落ち込んでも意味がないから、できることをしようと気持ちを切り替えられたんです。なるべく体調が悪くならないように温熱療法を採り入れたり、バリの人に親しまれているサプリを飲んだり。私の場合は、それが全部よい方向に作用したみたいです。
抗がん剤もやりましたが、胸のがんなので、どんどん小さくなっていくのが手で触れてわかるんです。患部が内臓だとわからないじゃないですか。でも、自分で触れてがんが小さくなっているのがわかると、やけにポジティブになるんですよね」
しばらく乳房と別れることを決意
抗がん剤を投与した後、利香子さんはがんの摘出手術を受けた。
思ったより病状が進行していたため、主治医は「乳房の同時再建はしないほうがいい」という見解を示した。同時再建をすると万が一再発した際に再再建が難しくなり、また、シリコンなどを入れると温熱療法の効果が及びにくくなる。放射線治療もしていたためリンパを流すケアも欠かせず、これができないとリンパ浮腫を起こすおそれもあった。
そのリスクを取るよりは、今しばらく乳房と別れることを利香子さんは選んだ。
「最初から“再建をしない”と決めていたわけではないんですけど、結果的にそうなりました。再建しても“元と同じようにはならないかも”とも思いましたし。
……私は、自分の胸がとても好きでした。手術の後、先生が“これを取りました”って、写真を見せてくれたんですが……。一見したら、単なる肉の塊なんですけど、まぎれもなく“私の胸”だったんです。それがなんか、すごいなと思いました。いつも見てきたものとは違うけれど、やっぱり私の胸だなぁって、わかったんです」
「あなたの場合、ここに腫瘍があって、ここが……」
医師の端的な説明を聞きながら、利香子さんは写真のなかの“胸”と対峙した。人もうらやむほど豊満で形のよい乳房は、密かな自慢でもあった。それはつい先ほどまで共にいた、彼女自身の一部だ。けれど、今身体から離れた乳房は、彼女に生きてもらうためあえて身を引いた、愛猫のようでもあった。たとえ姿が見えなくなっても、たしかな存在感で利香子さんを支え続ける。
このとき、もし泉から女神が現れて“新しい乳房”を差し出したとしても、彼女は首を横に振っただろう。
傷跡を気にせず過ごせるウェア
「今でもお風呂に入るときなど、胸を見て“気にならない”と言ったら嘘になりますし、銭湯でまわりの人が“えっ”となるのは少し嫌ですね。でも、それ以外は支障もありません。
バリは暑いので胸の開いた服が多いですし、自分自身もそういう服を作っているので、胸元から傷口が見えてしまうことはあります。でも、私が何か悪いことをしたわけではないし、堂々としています。
ただ、バリではあまりないのですが、日本でヨガやエクササイズの教室に行くと、スタジオがガラス張りだったり、大きな鏡があったりしますよね。そうすると、どんなに胸の詰まったウェアを着ても、ポーズを取ったときに傷口が見えてしまうんです」
鏡を前に突きつけられると、“女性の胸はなめらかで、ふたつの隆起があってこそ”と、たじろいでしまう人もいる。利香子さんは自身の経験をふまえて、そんな女性たちの助けになりたいと思った。そこで、たまたま自分が作ったワンショルダーのウェアを改良してみたら、ヨガをしてもまったく傷跡が見えなくなった。これならば、胸が気になる人にも楽しく着てもらえるし、アクティブに過ごしてもらえる。
「女性が人目を気にせず過ごせたらいいなと思って、このウェアは定番で作っているんです。日本の温泉にも、傷などが気になる方のための“湯浴み着”があると聞いて、“じゃあ、温泉も大丈夫だ”と思いました。今、乳がんの治療をしていて“運動や温泉が楽しめなくなっちゃうな”と悩んでいる方にも“こういうものがあるなら安心だ”と思っていただけたら、嬉しいんです」
失乳という経験を凜と涼やかに鎮めて、利香子さんは前を向く。
「乳房を取ってから5年くらい経ちますが、当初は、まったく泣かなかったんですよ。でも、少し前に自分の内面と向き合う呼吸法のワークショップに参加したとき、急に私の胸のことを思い出して。“本当は、切りたくなかった!”って強く思ったんです。そのとき、初めて涙が出ました。ヨガや瞑想に親しんで、“よいほうに考えよう、執着しないようにしよう”と言い聞かせてきたけれど、根底には“切りたくなかったよね”という思いが息づいていたんです。泣いて、ようやくその気持ちを吐き出せてよかった。弔って改めて、見えないけれど今もそこにいる私の胸を、とても愛しく思いました」
利香子さんのように、わが胸を大切に思うがゆえ、再建を見送った人もいる。
一方、パートナーの思いに背中を押されて、再建を選んだ人もいる。
思い込みと忙しさで育ててしまった乳がん
藤代美波さん(仮名・48歳)は、夫婦でクリーニング店を営む1男1女の母親だ。
両親から引き継いだ家業を切り盛りし、その丁寧な仕事ぶりは町でも評判だった。
しかし、乳がんの浸潤が明らかとなり、彼女は治療のために店を離れた。
半年後――ひさびさに店頭に立った美波さんに、話を伺った。
「私は、思い込みと忙しさを言い訳にして、自分で乳がんを育ててしまったんです。小さなころから“おでき”ができやすい体質で、背中とかおしりとかあちこちにできものが顔を出していて。日帰り手術をしたこともあったので、“胸のもの”もきっとおできだと思っていました。当時、娘の進学問題で頭を悩ませていましたし、仕事の忙しさもあって、“これが終わったら診てもらおう”、“もう少し落ち着いてからにしよう”と診察を先送りにしてきました。でも、知人の妹さんが乳がんになったと聞いて急に不安になり、乳腺外科に行ったんです」
担当の医師は美波さんの胸を触診するなり顔色を変え、「すぐに細胞の検査をしましょう」と言った。あわただしく事態が動き、結果、美波さんは「今、みんながなっている乳がんのいちばんポピュラーなものです。ステージは2ですね」と告げられた。
夫に支えられ挑んだ同時再建
どうやって帰ったのかわからないほど動揺し、夫の誠さん(仮名・52歳)に話すと、彼は治療計画の打ち合わせに同行してくれた。美波さんは抗がん剤でがんを小さくしたのち、乳房を全摘出することになり、医師から再建の否応を訊かれた。
「見た目を気にするほどの年でもないか……と思ったし、何よりこわがりだったから最低限のことで済ませたかった」という彼女は、「そのままでいいです」と答えた。
しかし、長年連れ添ってきた夫は美波さんをやさしく諭した。
「夫に、“今まで家族のためを思って自分のことを後回しにしてきたでしょ? 大変な手術を終えたあと、鏡に映った胸を見て、気持ちの上でもハンデを負うのは違うと思う。病気ではないのに、美容のためにメスを入れて豊胸する人もいるよね。きみはそういうタイプではないけれど、同時再建が可能なら、この機会を逆手にとってやってみたら?”と言われて、再建することに決めました」
パートナーをもつ人にとって、わが身は“自分のもの”であると同時に、“相手のためのもの”としての側面ももつ。容姿に変化を伴う手術に挑む妻に、夫は“これを美容のチャンスととらえてみては?”と提案し、術後も続く彼女の未来を慮った。そんな夫の気持ちを汲んで、美波さんは乳房を“作り直す”ことに決めた。夫のためにも、できれば元のような胸になりたい。
“先っぽ、どうします?”
ところが、さらに強い思いがその決意に“待った”をかけた。
「手術の1週間ほど前、担当の先生に“先っぽ、どうします?”って訊かれたんです。先っぽって……ああ、乳首のことか。そうか、なくなっちゃうのかなって。
“あなたの場合、がんがちょうど乳頭の裏側にあるんです。取ってしまえるなら取ったほうが安心ですが、そうすると先端はなくなってしまいます。取るか取らないか、どちらでも構わないので、あなたご自身が決めていいですよ”って言われました。
でも、見た目を気にして乳首を残して、悪い細胞まで残ってまた増えたりしたら嫌なので、すぐに“取ってください”と言いました」
そのとき美波さんの脳裏に浮かんだのは、愛してやまない子どもたちの笑顔だった。
当時、娘は19歳で翌年成人式を、息子は15歳で高校入学を控えていた。
「なんとしても娘の成人式と息子の入学式を見たい。そのためにできることは全部やる。生き延びられるなら、乳首なんていらない!」
そう思って、医師に訴えた。
「乳首はあきらめるとしても、取ったあとはどうなるんだろう?と思って訊くと、“先端には、お腹の皮を着けます。改めて手術すればもう少し乳首らしく作り直すこともできますし、人工の乳頭を着けることもできますよ”って、乳頭のサンプルをたくさん見せていただきました」
色も形もとりどりの人工乳頭は、粘着剤で肌に装着して使用する。
既製品で3万円程度〜、健側乳頭の型取りをして作るオーダーメイドの場合は、8万円程度〜が代金の目安となる(人口乳頭等の販売サイト「BREAST CARE Mine」より)。人工乳頭を着ければ人に身体を見られる場でも違和感がないので、温泉なども気軽に楽しめる。
ところが、美波さんはあえてこのオプションを選ばなかった。
手術への恐怖
「私なりに考えがあったからなんです。それと、“先っぽ、どうします?”のほかに、もうひとつ訊かれたことがあるんですよ。“カスイ、どうします?”って」
カスイ。下垂。乳房を再建すると、どうしても左右の“垂れ具合”がアンバランスになる。術後1年くらいすれば多少均衡が取れてくるが、気になるなら健側の乳房を持ち上げる処置もできるという。夫には「やってもらえば?」と言われたが、さすがに「両胸を切るのは嫌」と、美波さんは拒否した。
同時再建ならば、乳房は簡単に元通りになると思っていた。
よく、豊胸や脂肪吸引の広告には、「傷口は小さくて目立ちません」などのコピーが踊っている。美波さんも、さもたやすく親しんだ胸が還るように認識していたが、実際はバランスをとるために複合的な施術を要した。美を返してもらう代わりに、バラエティに富んだ痛みがかわるがわる彼女を襲った。きれいな胸に戻すことを、甘く見ていた。
「私はぽっちゃりしているので、お腹の贅肉を取って胸に入れるならちょうどいいな、と思っていたんですが……。いざ、切開する部分に執刀医の先生がマーキングしたとき、血の気が引きました。切腹と見まごうほどの範囲に線が引かれていて、“こわい! やっぱり、このままでいい! やめたい! やめたい!”と心の中で悲鳴を上げました。でも、声にならなくて……。そうこうするうちに先生が、“僕のチームは肥満の研究をしていまして。取り出して余った脂肪は研究に使わせてもらっていいですか?”って誓約書を差し出したんです。それに無言でサインしながら“いいんですけど……。どっちかっていうとこの手術自体をやめたいです”って沈み込みました」
夫に背中を押され、がんの全摘出から乳房再建に挑んだ藤代美波さん(筆者撮影)
乳がんの摘出から再建まで、12時間に及ぶ手術に美波さんは耐えた。
胸に入れる脂肪を取ったぶん身体の前面はへこみ、ふくよかな背面とバランスが合わなくなる。その辻褄を合わせるため、背中の脂肪も吸い出すことになった。術後は傷の痛みだけでなく、恐怖感と不安に苛まれ、彼女は悶えた。
看護師と夫があたたかく寄り添ってくれた
人魚姫は声と引き換えに美しい脚を得た。
その選択に悔いはなかったろうが、一歩歩くたび剣で刺されるような痛みに、心くじけるときもあったのではないか。
傷口が開かないよう固定されて自由の利かない身に、尿道に挿したカテーテルの痛み、胸から出たドレーンの痛み、処方された安定剤が合わずに込み上げる吐き気……押し寄せる不調にパニックになった美波さんは「こわい、こわい」と泣き出した。
必死に“元の胸”をたぐり寄せる彼女に、担当の看護師と夫はあたたかく寄り添い続けた。
「私があまりにも“こわい、こわい”って泣くので、夜勤の看護師さんが“美波さん、泣いちゃうからいてあげるね”って、夜通しついていてくれたんです。パソコンを持ってきて、私の脚におしりがつくようにベッドに座ってくれて。“私、ここで仕事してるから大丈夫だよ”って。本当にありがたく思いました。
私、不安で幻覚を見るようにまでなっていたんですよ。病室の壁紙がペイズリー柄だったんですけど、ペイズリーが襲ってくるんです。バーン! シューッ!て。本当に、ペイズリーに押しつぶされるんじゃないかって震えていました。
そんなとき、主人が来て“あのさぁ、そんな調子だと家に帰れないけどいいの?”ってたしなめてくれて。食事を摂る気力もなかった私に根気よくご飯を食べさせてくれたり、臆病な私が傷口を見なくて済むよう、代わってテープを貼ってくれたりもしました」
美波さんのがんばりと周囲のいたわりで、切除した彼女の乳房は、再びまろやかにふくらんだ。大変な思いをしたけれど、やはり再建に挑んでよかったと彼女は言う。
「前の胸も好きでしたけど、共に戦った戦友みたいな今の胸はもっと好きなんです。“がんばった! えらーい!”と思って(笑)。先生に“摘出した胸の写真、見ますか?”って訊かれたんですけど……見ませんでした。手術室のこわさも、お腹を切った痛みも思い出したくなかったし、元の胸とはきちんとお別れできたと思うんです。
乳首を整形する再再建や、人工乳頭の着用も考えていません。ただ、胸の先がへこんでいるので、そのままだと服の上から身体の線が出てしまうんです。なので、パット付きの下着は使っています」
乳がん経験者に見つけてもらえるように
美波さんは、自分なりの考えがあって乳頭を着けなかったと言っていた。
それはどういう思いによるものだったのか、改めて訊いてみた。
すると彼女はまわりを見回し、私を手招いた。
「よかったら私の胸、見てやってください」
驚く私の前で、彼女は上着を持ち上げた。
まるく、豊かな胸があらわになる。左の胸の先は、すべすべと平らかでほの白い。
それは陽を受け、真珠のようにつややかに光っていた。
「きれい……」
私は思わず声を漏らした。なぜか、目に涙がにじんだ。
美波さんは微笑んで続けた。
「前にどこかで聞いたんですけど、乳がんを経験した方が術後に温泉で同じような方に会って、“あっ! あなたも!?”って盛り上がったんですって。
だから私もあえてわかるようにして、同じような方に会えたら“あなたも!? 乳がん、がんばったよね!”ってなごみ合えたらいいなって思ってるんです」
美波さんが「ふふっ」と笑うと、ふたつの乳房が柔らかく弾んで、やさしく揺れた。
(みきーる : 文筆家、女子マインド学研究家)