2024年の春闘では、多くの企業が賃上げを容認したが……(撮影:梅谷秀司)

「お金の本質を突く本で、これほど読みやすい本はない」

「勉強しようと思った本で、最後泣いちゃうなんて思ってなかった」

経済の教養が学べる小説きみのお金は誰のため──ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会のしくみ」には、発売直後から多くの感想の声が寄せられている。本書は「読者が選ぶビジネス書グランプリ」総合1位を獲得、19万部を突破した話題のベストセラーだ。

著者の田内学氏は元ゴールドマン・サックスのトレーダー。資本主義の最前線で16年間戦ってきた田内氏はこう語る。

「みんながどんなにがんばっても、全員がお金持ちになることはできません。でも、みんなでがんばれば、全員が幸せになれる社会をつくることはできる。大切なのは、お金を増やすことではなく、そのお金をどこに流してどんな社会を作るかなんです」

今回は、日本人の賃金上昇には「限界」がある、その根本的理由を解説してもらう。

高い商品を作るか、クビにするか

春闘での約5%の賃上げが「33年ぶりの高さ」ということで話題になっている。とはいえ、これは労働組合に加入している人たちの話。中小企業で働く人が7割を占める日本において、組合組織率は1割にも満たないそうだ。


仮に全体で5%賃金が上がっていたとしても、近年の物価上昇のペースには追いつけず、実質賃金は低下し続けている

「賃金を上げるには労働生産性を上げること」というのが一般的な見解だ。労働生産性とは、おおまかにいうと、投入する労働に対してどれだけ生産できるかということ。企業の労働生産性を上げるにはシンプルに考えて2つのアプローチがある。

まずは、生産額(生産量×価格)を増やすこと。

しかしながら、日本のような成熟した経済においては、生産量を増やすことには限界がある。買ってもらえる量を増やすことは難しいからだ。リビングにテレビをもう1台置こうとはならないし、食料品を2倍食べようとはならない。

生産量を増やせないなら、価格を上げるしかない。実際に高機能なテレビを作ったり、高品質なイチゴを作ったりして客単価を上げる努力をしている。

企業の労働生産性を上げるもう1つの方法は、投入する労働を減らすことだ。要は働く人をクビにする

「クビになんかできない。高い商品を作る努力をすべきだ」

終身雇用を是としている日本では当然の選択に思われるが、実はここに大きな落とし穴がある。日本全体で高い商品を作る努力をしても実質賃金は上がらないのだ。

ポイントは、「全体」というところにある。みんなが高い商品を作れば、みんなが高い商品を買わされることになるからだ。

高い商品を作るか、クビにするか、どちらがいいのか。架空の村を作って思考実験をしてみると、答えは明白になる。

高級おにぎりを作る村

ここに10人で暮らしている村があるとする。シンプルに考えるために、住民はおにぎりだけ食べて暮らしているとする。この10人はおにぎり会社で働いている。自分たちで育てたお米を炊き上げておにぎりを作る。

1つ100円のおにぎりが毎日コンスタントに30個ずつ売れる。当然である。朝昼晩と10人が1つずつ買っているからだ。

1日の売り上げは3000円。働く10人でこれを分けると、1人当たりの賃金は300円。それぞれの村人は賃金として受け取った300円を支払うことで、毎日3個ずつのおにぎりを買って暮らしている。

おそらく江戸時代はこれに近い暮らしだっただろう。村の中でおにぎりが売られていたわけではないが、多くの人がお米を作るために働いているという点ではかなり近いはずだ。

さて、このおにぎり会社は客単価を上げて売り上げを増やそうと考え、高級おにぎりの研究開発に乗り出した。そして、米の栽培方法、米の炊き方、おにぎりの握り方にこだわって、1個200円の高級おにぎりの開発に成功する。

結果、1日の売り上げは3000円から6000円に倍増。給料も300円から600円に増える

ところが、である。村人たちは生産者でもあり、消費者でもあるのだ。結果、おにぎり1個を買うのに200円支払う必要が出てくる。手に入れた600円の給料で200円のおにぎりを毎日3個食べる生活に変わるのだ。

これでは、賃金も2倍、物価も2倍になっているから、実質賃金は上がっていない(おにぎりは美味しくなっている)。実質賃金を上げるには別の研究開発をする必要があったのだ。

雇用を減らして雇用を生み出す

それは、品質ではなく、生産効率を高める研究開発である。少ない人数で米を栽培し、おにぎりを作る。5人で30個のおにぎりを作ることができたら、1日3000円の売り上げを5人で分けることになるから、賃金は300円から600円に上がる

クビになった5人は、このままだとまずいと思い、新たな事業を始める。たとえば、ビール会社だ。

麦を栽培して、ビールを作る。1本300円。10人の村人が毎日1本ずつ買えば、売り上げはこちらも3000円で、1人あたりの賃金は600円になる。

つまり、この村の住民は600円の給料で、おにぎり3個(1個100円)とビール1本(300円)を買えるようになった

こうして、既存の産業の雇用を減らして、新しい産業の雇用を増やすことで、経済は進歩してきた。その結果、現代では、米やビールだけでなく、衣服、電化製品、教育など、さまざまな製品やサービスを手にすることができている。

実際に、100年前にくらべると賃金に対して支払う食費の割合は3分の1になっている。もしも雇用を減らす努力をしなければ、実質賃金は上がらず、新しい製品やサービスを手にすることはできなかった

もちろん、雇用を減らすだけ減らしても失業者が増えるだけでは意味がない。雇用を生み出すという意味でも、ビール会社の例のようなイノベーションが必要になる。

しかし、近年の日本では真逆の努力がなされていた。「日本経済は成熟しているから新しい需要を生み出すことが難しい」と考えて、高機能高付加価値のものを作る努力をする企業が多かった。これは高級おにぎりを作る村と同じで、実質賃金は上がらない。

一方、隣村のアメリカではイノベーションが起きて、iPhoneやGoogleが作られ、実質賃金も上昇した。

そして、日本はアメリカから新しい製品やサービスを輸入するようになった。生活は便利になったが、使ったお金は外に流れていくので自分たちの賃金には反映されない。これもまた、実質賃金が下がっている理由でもある。

少子化が引き起こす賃金上昇

春闘で大きく賃上げが行われたが、これには少子化の影響もある。応募者が減っているため、給料を上げないと新入社員を採用できなくなっているそうだ。

先ほどの村の例とは異なり、実際の社会では10人の生活を5人くらいの働く世代が支えている。今後、少子化が進んで働く人の割合が4人に減れば、結果的に賃金をあげることは可能になる。3000円の売り上げを5人で分ければ1人600円だが、4人で分ければ750円になるからだ。

しかし、それを実現するためには、AIなども活用して少ない人数で社会を回せるようにならないといけない

『きみのお金は誰のため』にも、こんな話を書いた。

お金が稼げなくなるのは困る。AIの活躍する未来に、優斗は不安を覚えた。

ところが、ボスの考えはまるっきり反対だった。

「経済は、ムダな仕事を減らしてきたから発展できたんや」

「どういうことですか?」と七海がたずねる。

「昔は、大勢が鍬や鋤を持って、田畑を耕しとった。トラクターなんかの機械ができたおかげで、仕事は激減した。そうして手のあいた人たちが、新しい仕事に取り組んで、新しい物を作るようになったんや。七海さんの腕時計や、このケーキがいい例やで」

ボスの皿のシフォンケーキは、そのまま残っていた。

そこに添えられたミントの葉を見つめる優斗に、疑問が芽生えた。次々に欲しいものや必要なものができれば、仕事は増えるだろう。だけど、と優斗は思う。

「新しい仕事が増えなかったら、やばくないですか?」

当然の心配だと思ったが、それこそがお金に囚われている証拠だとボスは言う。

「百人の国の話と同じやで。僕らが食べているのは、お金やない。パンが必要なんや。ロボットが活躍して仕事が減っても、生産されるパンは減るどころか増えるやろう。それなのに、生活できない人が増えるなら、パンを分かち合えていないってことや。せっかく仕事を減らせたのに、会社のえらい人や仕事のできる一部の人だけが得をしているという状態なんや」

「分かち合う…ですか」

それは、優斗が考えたことがない視点だった。

(『きみのお金は誰のため』94ページ)

経済成長の本質は、不要な仕事を減らし、新しい価値を創造することにある。

新NISAも始まって投資熱が高まっている。より多くの視線が企業の活動にフォーカスされれば、イノベーションが起こりやすくなる可能性はある。

それと同時に、社会全体にも視線を向けて、持続可能な成長や公平な富の分配についても考える必要がありそうだ。

(田内 学 : お金の向こう研究所代表・社会的金融教育家)