私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第25回
非エリートが見てきた日本代表とW杯の実像〜中村憲剛(4)

(1)中村憲剛が岡田ジャパンになって「代表には行かない」と本気で激怒したわけ>>

(2)レギュラーから外れた中村憲剛が「試合に出たいです」と吐露したのは?>>

(3)中村憲剛が見返すたびに後悔した南アフリカW杯でのワンプレー>>

 2014年5月12日、ブラジルW杯に挑む日本代表メンバー23名が発表される日、中村憲剛はAFCチャンピオンズリーグの試合のため、韓国への移動途中だった。羽田空港に到着したバスの中で、川崎フロンターレのチームメイトとともにメンバー発表のテレビ中継を見ていた。

「(監督からの評価は聞いていても)メンバー入りできるかどうか、正直、五分五分だと思っていました。入ってもおかしくないし、落ちてもおかしくない。なぜなら、1年間、代表に呼ばれていなかったから。ザックさん(アルベルト・ザッケローニ)がどんな人選をするのか、心臓をバクバクさせながら見ていました」

 GK、DFと選手の名が呼ばれ、MFで中村の名前は呼ばれず、FWでチームメイトの大久保嘉人の名前が呼ばれた。

「この時は......本当に地獄でしたね。みんな同じ車内で発表を見ているなか、嘉人は呼ばれて、自分が入らなかった。(チームメイトの)みんなもどうしていいのか、わからなかったと思います」


2014年ブラジルW杯について語る中村憲剛。photo by Sano Miki

 それでも、中村はすぐに気持ちを切り替えて、選出された日本代表の顔ぶれを見た。すると、期待感とともに不安も膨らんだ。34歳の遠藤保仁が最年長で、その他は25歳前後の選手が多かった。南アフリカW杯でチームを支えていたベテランの存在が、そこにはいなかったからだ。

「2002年と2010年と(W杯で)勝ち上がった時のチーム編成を見れば、ゴンさん(中山雅史)や秋田(豊)さん、(川口)能活さんやナラさん(楢崎正剛)のような(チームの支えとなる)ベテランの方たちが、(他の選手たちに)その背中を見せてチームをまとめていくことの重要性はわかっていたと思うんです。

 若い選手たちだけだと勝っている時はいいけど、結果が出ないと一気に崩れてしまう可能性があります。そこで重要な役割を果たすのが、チームを陰で支え、チームをまとめられる経験豊富なベテラン選手たち。

 だからこの時、自分じゃなくてもいいから、なぜそういう役割のできる選手を入れなかったのか。(実力重視の)ベストメンバーで行くのは監督の判断として当然あることだとは思いましたが、僕は過去の日本代表の成功例を鑑みて、ベテランを入れてほしかった」

 中村の不安は、現実のものになっていく。

 ブラジルW杯の初戦、コートジボワールと対戦した日本は本田圭佑のゴールで先制したものの、後半に逆転されて大事な初戦を落とした。そのショックは大きく、次戦に向けての紅白戦では選手間で言い争いが起き、練習がストップするなどして、チームの雰囲気は険悪なものになっていった。

 続くギリシャ戦も相手に退場者が出ながら、攻めきれずに0−0のドロー。3戦目のコロンビア戦では、相手エースのハメス・ロドリゲスに翻弄されて1−4と惨敗を喫した。結果、日本は1勝もできずにグループリーグ敗退となった。

 自信に満ち溢れ、優れた能力を持つメンバーたちが「自分たちのサッカー」を掲げ、本田らは「W杯優勝」を宣言していたが、「史上最強」と称された2006年ドイツW杯と同じく、悲惨な結果に終わってしまった。

「率直に思ったのは、なんでこんな結果に終わったのか、ということ。

 圭佑はじめ、多くの選手が欧州のクラブでプレーしていて、世界に引け目を感じることなく戦えていたし、(2013年11月の)親善試合ではオランダやベルギー相手にもいい試合ができていたので、(選手たちが)『"自分たちのサッカー"を貫けばW杯でも勝てる』と思ってもおかしくはなかった。

 でも、W杯は親善試合とは違う。それに、W杯は自分たちのやりたいことだけをやって勝てる世界じゃないということは、2010年の南アフリカW杯でも経験したはず。(田中マルクス)闘莉王が言った『地べたを這いつくばってやるしかない』という精神で、みんながやらないと勝てない世界なんです。

 コートジボワール戦はもっとやりようがあったし、ギリシャ戦も攻撃が淡泊だった。最終予選を戦っていた頃のチームならどうだったのか......。すごくもったいなかった」

 中村がもったいないと感じたのは、アジアカップで優勝してどんどん完成度を高めていった時のチームと、W杯のチームが"別モノ"になっていた感があったからだ。

「アジアカップ優勝という成功体験を得て、メンバーも固定されて、(W杯最終予選では)みんながオートマティックに動けていた。僕は、ザックジャパンの生命線はヤットさん(遠藤)とハセ(長谷部誠)のボランチだと思っていたんですけど、その後、ヤットさんらベースとなるサッカーを築いていた面々の何人かがレギュラーから外れていった。

 僕の個人的な感覚ですけど、(W杯を目前にして)チームが解体され、選手間のあうんの呼吸がなくなっていった。よかった時のチームの面影がなくなったのがとても残念でした」

 コートジボワールに負けて半壊したチームは、攻撃陣と守備陣との間で意見の食い違いが生まれ、収拾のつかない状態になっていた。その時、チームには"怒れる大人""まとめられる大人"がいなかった。

「レギュラーも、ベンチも若い選手が多かった。それで、試合に出られない、試合にも負けるとなったら、大なり小なり波風は立つと思います。そこで、若い選手ばかりだと傷のなめ合いになってしまうけど、そこにそれを吸い上げる大人がいるとだいぶ違うと思うんです。

 そういうことを南アフリカW杯の時に経験した自分を、緩衝材じゃないけど、うまく使ってほしかった。若いチームに可能性を感じていただけに、すごく残念でした」

 2010年南アフリカW杯の時、中村は川口に救われたという。同世代には言えない愚痴も、大先輩で経験のある選手にはぶつけられた。それで、気持ちがどんなにラクになったことか。

 そうした経験をブラジルW杯で生かしたかったが、ザッケローニはその枠を設けなかった。もちろん、敗戦の結果はそれだけではない。だが、過去の結果、さらにはその後の結果が、その必要性を裏づけている。

 日本は2002年、2010年、2018年、2022年のW杯でグループリーグ突破を果たしているが、いずれもベテランと言われる、チームのまとめ役となる選手の存在があった。

「昨年のカタールW杯では、2010年南アフリカW杯でレギュラーになった(川島)永嗣がレギュラーを狙いながら全体も見る役割を担いながらチームの雰囲気を作り、(長友)佑都もそうした役割を果たしたからこそ、あの結果が生まれたと思います。僕は、役割の継承がすごく大事だと思っていて、メインキャストだった選手がベンチに座った時に大人の振る舞いができるチームは強いと思います」

 現在、日本代表を率いる森保一は和を重視し、中村が言う"継承"の重要性を2018年ロシアW杯で体感し、昨年のカタールW杯で存分に生かした。次の2026年W杯では、吉田麻也あたりがその役を担うことになるのだろうか。

 中村はブラジルW杯から6年後の2020年、現役を引退した。所属のフロンターレでは、リーグ戦で連覇を含めて3度の優勝を果たすなど、「やり残したことはない」と語ったが、日本代表ではどうだったのか。

「当然、悔いはありますよ。(南アフリカW杯の)パラグアイ戦での悔しさを消化できなかったんで......。W杯の借りはW杯でしか返せない。ただ、代表での悔しさをずっと抱えていたからこそ、フロンターレで最後まで駆け抜けることができた、というのもあります。

 サッカー選手は、挫折を経験したほうがいい。そこから這い上がってくる選手は強いし、生き残れる。自分にとってはパラグアイ戦での悔しさが、その後のサッカー人生において、自分のエネルギーになりました」

 中村は今、プロの指導者となるべくライセンス講習を受けている。未来の日本代表監督の話となると、「ライバルが多いですよね」と苦笑した。今や日本にも、現役時にさまざまな経験をしてきた優秀な面々がいるが、中村もそのなかのひとりとして、自らの強みや経験を指導者として生かしていきたいと考えている。

「今、S級ライセンスを(内田)篤人らも受けているんですが、彼はシャルケでUEFAチャンピオンズリーグのベスト4に進出した経験があり、世代別の代表選手たちなどにそういった話をすると、『おぉ〜』ってなるんです。そういう経験を話せるのは、彼しかいない。

 翻(ひるがえ)って、僕はノンキャリアで、W杯も1回しか経験していない。でも、試合に出られない選手の気持ちがわかる。ノンキャリアでもやれることを証明した。代表にいた7年間で、それぞれの監督のチームマネジメントなども学ぶことができた。

 引き出しや話せることはたくさんあるし、技術も見せられるので、そこは自分の強みかな、と思います」

 中村はロールモデルコーチとしてU−17日本代表の選手を見ていた時、選手たちにこんなことを言ったという。

「今あぐらをかいていたら、みんなが認知すらしていない、オレみたいな選手に数年後抜かれることになるからね。だから今、やれることはしっかりやったほうがいい」

 その話を聞いた選手たちは、目の色を変えて練習するようになった。

 プロの世界には、惜しまぬ努力によって、いつしかエリートを越えていく選手もいる。そのモデルケースになった元選手の言葉ほど、リアルなものはない。ノンキャリアの自らの生き方を語ることで、選手に危機感を与え、鼓舞できる指導者は稀有だろう。

 選手としてパラグアイ戦の借りは返せなかったが、中村からその悔しさが失われることない。今度は指導者として、"世界の壁をブレイクスルーする"というモチベーションに変っていくはずだ。

(文中敬称略/おわり)

中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都小平市出身。久留米高校から中央大学に進学し、2003年にテスト生として参加していた川崎フロンターレに加入。2020年に現役を引退するまで移籍することなく18年間チームひと筋でプレーし、川崎に3度のJ1優勝(2017年、2018年、2020年)をもたらすなど黄金時代を築く。2016年にはJリーグMVPを受賞。日本代表、通算68試合出場6得点。ポジション=MF。身長175cm、体重65kg。