中村憲剛が見返すたびに後悔した南アフリカW杯でのワンプレー「今でも、ボールが目の前を通り過ぎていくのを思い出す」
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第25回
非エリートが見てきた日本代表とW杯の実像〜中村憲剛(3)
(1)中村憲剛が岡田ジャパンになって「代表には行かない」と本気で激怒したわけ>>
(2)レギュラーから外れた中村憲剛が「試合に出たいです」と吐露したのは?>>
2010年南アフリカW杯で日本は決勝トーナメントに進出。ラウンド16ではパラグアイと対戦することになった。グループリーグ3戦で出番のなかった中村憲剛だが、決勝トーナメントとなれば、勝たなければ次に進めないため、「(パラグアイ戦では)自分の出番がやってくる」と信じていた。
「グループリーグはとにかく負けずに勝ち点を得る戦いになるので、自分に出番があるかどうかは微妙だなと思っていました。でも、決勝トーナメントは勝たないといけないので、試合の途中でギアを上げなければいけない瞬間が出てくる。
(控えの)攻撃陣は、タマちゃん(玉田圭司)、オカ(岡崎慎司)、(矢野)貴章、モリ(森本貴幸)、そしてシュンさん(中村俊輔)に、自分。岡田(武史)さんからは『チャンスはある』とも何も言われていなかったですけど、そのなかで出るのは『自分だろう』と、なんでかわからないんですけど勝手にそう思っていました(苦笑)」
中村がそう思うには、理由もあった。
試合前日、中村は自分でもびっくりするぐらい体がキレていて、コンディションが良いと感じていた。一方で、グループリーグの戦いではレギュラーが固定され、その主力の面々からは疲れが見えていた。前日練習で、彼らの動きは明らかによくなかった。
また、ノックアウトステージとなるここからは、延長戦もあり、PK戦までもつれる可能性もある。どこかで流れを変える必要が間違いなくある。それが自分だと、中村は思っていた。
「今思えば、よくそんなことを思えたなと思うんですけど、実際に試合は、日本もパラグアイも動きが重く、日本が先に点を取ったらわからないけど、0−0のままなら、自分の出番がくるだろうと勝手に思い込んでいました。
相手は日本と同じ4−1−4−1システムでボランチの脇が空いていたし、選手の強度もそれほどではなかった。『これならやれる』『出だしてくれ』って思いながら、ベンチの裏で走っていました」
中村が言うとおり、試合は両チームともに動きが鈍く、0−0の膠着状態が続いた。そして後半36分、ベンチが動いた。岡田はここまで結果を出してきた4−1−4−1システムのキーマンだった阿部勇樹に代えて、中村を投入。中村はトップ下に入り、システムもかつての4−2−3−1に変更した。
「名前を呼ばれて、ピッチに出た時は(気持ちが)たぎりましたね。緊張するのかなって思ったけど、もう『自分が決める』『チームを助けたい』という気持ちが強かったんで、ワクワクしかなかった。
ファーストタッチがよくて、サイドの長友(佑都)にパスを出したところからクロスになって、チャンスに繋がったので、試合の入りもすごくよかった。岡田さんには『点を取ってこい』と言われたけど、言われたことを守りさえすれば『何をしてもいい』『自分がヒーローになる』って思っていました」
中村はピッチに入ってから、何度かチャンスが生まれた。だが、なかなか得点には至らなかった。
結局、延長戦もスコアレスに終わり、PK戦に突入した。中村は玉田らと肩を組み、祈るような気持ちでPK戦を見守っていた。しかし、3番目の駒野友一がPKを外し、日本は敗れた。
「駒ちゃんが外したけど、(川島)永嗣が止めてくれると思っていた。でも、すべて相手にズラされてしまった。
負けた瞬間は、ショックでした。W杯は負けた時点でチームは解散するので、二度とこのメンバーで戦うことはない。いいチームになっていたし、このチームで上に行きたいと思っていただけに、『ここで終わりかぁ』と思うと悲しかった。
でも今思えば、あそこが限界だったかもしれない。W杯はどの試合も激戦で、選手は心身ともにかなり疲弊していた。(大久保)嘉人も当時は『まだいける』と言っていたけど、のちに話を聞いたら、疲労がかなりあったらしい。(低い位置の)守備からボールを奪って、一気に前へ出ていくサッカーは、もはや難しい状態にあったと思います」
南アフリカW杯、決勝トーナメント1回戦のパラグアイ戦で途中出場し奮闘した中村憲剛(中央)だったが...。右は稲本潤一、左は岡崎慎司。photo by Getty Images
南アフリカから日本に戻り、中村はパラグアイ戦をビデオで何度も見返した。見るたびに後悔の波が押し寄せてきたという。
そのひとつが延長後半、玉田からのクロスに飛び込んだプレーだ。触れば1点モノで、勝負を決めていたプレーだったが、合わせることができなかった。
「タマちゃんはファー狙いで、自分がマイナスをイメージしていたので、合わなかった。今でも、ボールが目の前を通り過ぎていくのを思い出します。なぜファーにいなかったのか......。マイナスからでも、ファーに行けば、簡単に点が取れたんですよ。
もうひとつ、(本田)圭佑のFKで、これも触っていれば入っていたと思います。パラグアイに勝っていれば、日本はベスト8に進出。あの時に勝ち上がっていれば、その後もベスト8が当たり前になっていたかもしれない。そう思うと、悔しさがどんどん込み上げてきた。そしてそれが、次のW杯への自分のエネルギーになっていったんです」
南アフリアW杯を終えて、2014年ブラジルW杯に向けて始動した日本代表は、アルベルト・ザッケローニが新たな指揮官に就任した。チーム結成当初は中村もメンバーに呼ばれていたが、2011年1月のアジアカップには招集されなかった。
「アジアカップでは『若い選手を連れていきたいから大丈夫。休んでいい』って言われたんですけど、『?』って思いましたよ。ヤットさん(遠藤保仁)は(メンバーに)入っていましたから。
なのでその時は、『ヤットさんはレギュラーで、サブのベテランはいらないってことか』と思っていました。で、そこから代表に呼ばれなくなったんです」
以降、中村は代表から遠のいた。
アジアカップで優勝を遂げたザッケローニは、早々に主力メンバーを固定していった。遠藤と長谷部誠をボランチに配し、前線の攻撃陣は本田、岡崎、香川真司が軸になっていた。
南アフリカW杯からチームがさらに若返るなか、中村が再び代表に招集されたのは2011年10月、親善試合のベトナム戦。その直後のブラジルW杯アジア3次予選のタジキスタン戦では先発出場している。
中村はザックジャパンに再合流し、自らの役割を改めて考えた。
「(ザックジャパンは)アジアカップで優勝したことで、早めにメンバーが固定された印象でした。そして、久しぶりに代表に戻った時のチームの雰囲気が世代交代をした影響なのか、代表の重みというものが2010年の頃よりも薄れてしまった感じがありました。
それで、チームを見回した時に『このチームで自分は何ができるのか』を考えた結果、2010年の(川口)能活さんやナラさん(楢崎正剛)のような"大人"の役割を果たすことなのではないかと思いました」
ザッケローニは当初、自身の代名詞でもある3−4−3システムでのサッカーも視野に入れていたが、思うように機能せず、選手たちが戦い慣れた4−2−3−1を採用。W杯アジア3次予選をクリアし、最終予選も難なく突破した。
システムとレギュラーも固まったチームは、2013年6月には自信を持ってコンフェデレーションズカップに出場した。しかし、ブラジル、イタリア、メキシコ相手に3連敗。順風満帆だったチームは、マイナーチェンジを求められた。
7月の東アジアカップでは、若手主体のチームを編成。ザッケローニは新戦力の発掘に着手した。主力メンバー不在のなか、翌年に控えたW杯に向けて「最後のチャンス」と見た若き選手、代表入りへボーダーラインにいる選手たちは発奮。中国には引き分けたものの、オーストラリア、韓国を破って優勝した。
同大会のメンバーに中村は招集されなかった。
「東アジアカップの際は、『おまえの力はわかっている。若い選手を連れていきたいから休んでいい』と言われたんです。でもそれから、再び代表に呼ばれなくなった。
それは、東アジアカップでの優勝が大きかったと思います。(柿谷)曜一朗や(山口)蛍らが頭角を現して、優勝した選手たちに(監督の)信頼がいくのは当然なんです。
でも自分は、プレーで負ける気がしなかったし、実際にクラブでの調子もよかった。"大人の役割"を果たして、チームに貢献できると思っていました」
コンフェデレーションズカップ以降、中村は日本代表に招集されることはなかったが、チーム関係者を通じて、ザッケローニが「ナカムラはチームの輪を乱さず、プレーも、パーソナリティも評価している」という話を聞いていた。それゆえ、招集されなくても、ザッケローニからは一定の信頼を得ていると思っていた。
さらに、2013年シーズンに得点王に輝いて、2014年シーズンもゴールを量産していたチームメイトの大久保嘉人の評価が急上昇。土壇場でのサプライズ選出が現実味を増すなか、大久保へのパスの供給源である自らの存在が無視されているとは思っていなかった。
だからこそ、ブラジルW杯に挑む日本代表メンバーが発表される日、中村はドキドキしながらその瞬間を待っていた。
(文中敬称略/つづく)◆中村憲剛が語るブラジルW杯「自分をうまく使ってほしかった」>>
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都小平市出身。久留米高校から中央大学に進学し、2003年にテスト生として参加していた川崎フロンターレに加入。2020年に現役を引退するまで移籍することなく18年間チームひと筋でプレーし、川崎に3度のJ1優勝(2017年、2018年、2020年)をもたらすなど黄金時代を築く。2016年にはJリーグMVPを受賞。日本代表、通算68試合出場6得点。ポジション=MF。身長175cm、体重65kg。