「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」鵜久森淳志(前編)

 昭和のプロ野球では、一流の基準として「1000万円プレーヤー」という言葉があった。現在、一軍選手の最低年俸が1600万円に設定されていることを考えれば、そのハードルは5000万円、いや、1億円くらいまで上がっているかもしれない。NPBでランキング50位に入るためには、1億5000万円を稼がなければいけない。

 3年〜5年活躍すれば年俸が1億円の大台に乗る、そんな選手も珍しくなくなった。しかし、プロ野球選手には寿命がある。どんなに素晴らしいスターも衰えとは無縁ではない。もう戦力にならないと判断された時は、すぐに働き場所を奪われる。そうなれば年俸はゼロ、無収入になってしまうのだ。「天国と地獄」を経験した元プロ野球選手に登場してもらい、お金にまつわるさまざまな話を聞いていこう。

 今回は日本ハム、ヤクルトでプレーした鵜久森淳志氏。済美高時代は3年春のセンバツ大会で優勝、夏も準優勝に輝き、全日本の4番を務めるなど右の長距離砲として期待されるも、プロ14年間で放った本塁打は11本。苦悩のプロ生活を振り返った。


日本ハム時代、右の長距離砲として期待された鵜久森淳志氏だがレギュラー奪取は果たせなかった photo by Sankei Visual

【高校通算47本塁打の強打者に成長】

── 2004年春のセンバツで初出場初優勝を飾った済美高(愛媛)の4番打者だった鵜久森淳志さん。夏の甲子園で準優勝したあと、高校日本代表にも選ばれました。でも、中学時代は目立った選手ではなかったそうですね。

鵜久森 はい。中学時代は1本もホームランを打ったことがありませんでした。もともと女子校だった済美が男女共学になると同時に野球部できたのですが、僕はその一期生です。入学してすぐ、試合に出ることができました。

── 初代監督に就任したのは、宇和島東高(愛媛)時代に日本一に輝いた経験を持つ上甲正典さん。監督は全国でも名を知られた名将でした。

鵜久森 僕は秘かにプロ野球選手になりたいと考えていたので、注目されるための方法を考えました。

── その方法とは?

鵜久森 ホームランをたくさん打って、新聞や雑誌、テレビで取り上げてもらうことです。3年間で通算47本塁打を打つことができました。夏は日本一になれませんでしたが、ジャパンにも選ばれ4番も任されました。これで、プロ野球選手になれるかもしれないと思いました。

── 身長190センチ近い長身とその長打力がプロ野球のスカウトの目に留まり、北海道日本ハムファイターズから8位指名を受けました。

鵜久森 スカウトの人と話をすることはなかったので、ドラフト会議前は実際に指名されるかどうか不安でした。指名されたと聞いて、ほっとしたというのが正直なところでした。甲子園で対戦したダルビッシュ有(東北高/現・パドレス)が1位だったので、「一緒の球団に入るんだな」と思いました。

── 契約金は3500万円、年俸は480万円。この金額を聞いてどう思いましたか。

鵜久森 まだ高校生だったので、新聞に3500万円と書かれていても、ピンと来ていませんでした。多いとか少ないとかも全然。もちろん、管理は親に任せて、お小遣いをもらうような立場でした。

【同期入団の選手はスーパースターに】

── 球団は2004年に本拠地を北海道札幌市に移しましたが、鵜久森さんは千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズの寮でプロ野球人生をスタートさせました。

鵜久森 プロ野球選手はこんなにお金をもらえるんだなという驚きがありました。それまでアルバイトをしたこともなくて、見たことのない金額をもらって「本当に使っていいのか」と思っていました。

── プロ1年目の2005年。イースタン・リーグ公式戦96試合のうち88試合に出場。8本塁打(リーグ7位)を放ったものの、打率(2割2分8厘)と三振数(90)はリーグ最下位でした。

鵜久森 試合にはたくさん出してもらいましたし、練習でも絞られました。ずっと試合か練習をしているというのは高校時代と同じ。それでお金をもらえることが不思議でしたね。一軍でプレーしている先輩には「おまえらはまだプロ野球選手じゃないぞ」と言われていました。一軍の選手たちがお客さんを集めて、球団として利益が出るわけじゃないですか。「おまえらはまだ何も貢献していないんだから」と言われたことを覚えています。「少しでも早く、ここからはい上がらないと」と思いました。

── 2006年4月に代打で一軍デビュー。2007年、イースタン・リーグで打率2割8分6厘、10本塁打、46打点をマークしても、一軍に定着することはできませんでした。2008年の一軍出場は11試合だけ。2009年はイースタン・リーグで20本塁打(リーグ2位)を放つも、一軍でプレーする機会はなし。この間、年俸はほぼ横ばいでしたね(入団時480万円→500万円)。2010年は一軍で23試合に出場してヒットは10本。2011年は42試合出場で15安打に終わりました。

鵜久森 同期入団のダルビッシュは、もうスーパースターになっていました。僕が一軍に上がった時にはご飯に誘ってくれました。「聞きたいことがあったら聞いたら?」という感じで、埼玉西武ライオンズの中島宏之さんとの会食をセッティングしてくれたこともありました。ダルビッシュの優しさを感じましたね。

【二軍で活躍しても年俸は上がらない】

── 鵜久森さんがプロ野球選手になったと実感できたのはいつですか。

鵜久森 一軍で初ホームラン(2011年)を打った時ですね。僕はプロ5年目の2009年に二軍で20本ホームランを打ったんですけど、後輩の中田翔(現・巨人)は30本塁打しています。下でどれだけいい成績を残しても、年俸は上がりません。やっぱり一軍で活躍しないと。

── 期待されながら一軍に定着できないことに対してどんな気持ちでいましたか。

鵜久森 自分でも歯がゆさを感じていました。プロに入る時には、いずれは1億円プレーヤーになりたい、打撃タイトルを獲りたいと思ったものですが、現実は厳しかったですね。

── 2012年、鵜久森さんは37打席に立ち、4本塁打を放ちましたが、打率は2割1分9厘。レギュラーポジションは遠かったですね。

鵜久森 ピッチャーで入団した糸井嘉男さんが外野手に転向したり、FAで稲葉篤紀さんが移籍してきたり。すごい選手が加わることで、自分の居場所がなくなっていきました。せめてチームの一員として、戦力になりたかった。たとえ代打の一打席であっても、自分の力を出せればと思っていました。

── 栗山英樹監督が就任したこの年、ファイターズはリーグ優勝を飾りました。しかし、鵜久森さんは2013年に22試合、2014年に24試合しか一軍で起用されませんでした。プロ11年目のシーズンとなった2015年。二軍で10本塁打を放っても一軍では結果を残せず(出場試合は3。ヒットなし)、10月に戦力外を通告されました。日本ハムでの11年間で放った本塁打は6本でした。

鵜久森 バッティングが好調の時に骨折して、それを隠しながらプレーしたこともありました。せっかくもらったチャンスをムダにしたくない一心でした。そうしないと生き残れない世界だし、到底、年俸は上がっていきません。

── 2015年の年俸は960万円でした。

鵜久森 レギュラーになれないと、年俸は上がりません。戦力外になるんじゃないかと真剣に考えたのはプロ9年目くらい。そのあとは、毎年、危ないと思っていました。

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鵜久森淳志(うぐもり・あつし)/1987年2月1日、愛媛県生まれ。済美高3年時に春のセンバツ大会で初出場・初優勝を果たし、夏の甲子園では準優勝。大会後、高校日本代表に選出され4番を担った。04年ドラフト8位で日本ハムから指名を受け入団。右の長距離砲として期待されるもレギュラーに定着できず、15年に戦力外通告を受ける。トライアウトを経てヤクルトに入団すると、シーズン終盤は5番に定着。その後も代打として活躍するも、18年に戦力外となり現役を引退。現在はソニー生命のライフプランナーとして活躍中