学校にも家にも居場所がないという子どもたちに必要なこととは(写真:buritora/PIXTA)

もしもわが子が「学校に行きたくない」と言ったら――。親はどのように言葉をかけたらいいのでしょうか。

「行かなくてもいい」と話すのは、政治学者で、前著『政治学者、PTA会長になる』が話題となった岡田憲治氏です。それよりも自分の居場所となる「サード・プレイス」が必要だと指摘します。本稿は、岡田氏の新刊『教室を生きのびる政治学』より、一部抜粋・編集のうえ、お届けします。

学校など命をかけて行くところではない

僕は、君たち若者におもねるようなことはしない。そして、もうすでにできていることに「光を当てるのだ」。光を当てないと、本当はもう存在している、すでにちゃんとできること、できているのだということがまわりにも本人たちにも気づかれないのであって、それはお宝の持ち腐れだからモッタイナイ。

・自治は大切だが、コスパで上手にやり過ごすことだってエラいのだ。
・話せなくても、聞けなくても、書けなくても、励ませるのはエラいのだ。
・協力する根拠をきゅうくつな「真心」から切り離せるのならエラいのだ。
・他人の不幸と自分の良心の板ばさみのままで耐えられるのはエラいのだ。

最後に、そんなエラいと言われても、そもそも、やっぱり、どうしても、何度もトライしたけど、学校はどうしてもキツいと思う諸君に、そして明日になったらそうなるかもしれない君たちに、言っておこう。

どれもこれもキツいなら、学校なんか行かなくていいぞ。

理由はじつにかんたんだ。

学校などというところは、人間が命をかけて行くような場所ではないからだ。

それは、「人はどうして学校に行かなければならないのか?」という問題を丁寧に考えてみればすぐわかる。僕は50年以上学校にいるが、今のところ「学校というところにどうしても行かなければならない理由」は発見できていない。いまだに、だ。

え?  キョージュでしょ?  学校で働いてるんでしょ? その人が、「行かなくていい」って、そういうのアリなんですか?

人の言葉は注意深く行間を読まねばならないのだよ。僕は、これを「学びたい人≠学校に行く人」という意味で言っているのだ。

学びたい人の期待感、ドキドキ感、止められない感のようなものは、僕もずっと持ち続けているからよくわかる。そして、学びたいという欲求と、「学ぶことでお金までもらえる」という機会が、ありがたくもドッキングしている大学という場所を確保してもらえたから、学校に「居る」だけなのだ。

貯金が10億円あったら、野尻湖畔の別荘で、良い料理人を雇って、朝から晩まで本を読む。もちろん大学など行かない。世界で一番嫌いな仕事「試験監督」をやらないでいいだけで人生は幸福だ。

だから学びたい気持ちがちゃんとあるなら、必ずしも学校や教室に居なくてもいいと思うのだ。なぜならば、学びは教室や学校でなくてもできる、いや、もしかしたら学校に行かない方が学べるかもしれないからだ。

それじゃ、学校行かないで家ならいいの? 家はどうなの?

さてさて、これが今日大問題なのだ。ふう。

家は「学校的なもの」になりつつある

人間に一番必要なものは、食べ物や睡眠や休息だ。でもそれは生物としての話だ。そうではなく「人―間」、つまり自分一人ぼっちだけこの世界にいても何の意味もない、「自分以外の人がこの世界にいるからこそ生きる意味がある」という理由から考えなければならない。

その時、必要なのは何か?

ホッとできる、楽しい居場所だ。

君たちの居場所はどこだ?

家と学校……の2カ所なんだろう。

どうして「なんだろう」なんていう言い方をしたかというと、僕が言っている居場所とは、ホッとできて楽しいという2つの条件がそろっていなければ、生きていくのにありがたい場所にはならないのに、君たちみんなにとってこの2カ所(学校と家)がそうだとは限らないからだ。

「友だち100人なんて要らないよ」と僕は言ったが、友だちが不要だと思っているわけじゃない。でも、学校にいる友だちはいいやつもたくさんいるけど、学校という場は、基本的には「何かが試されている」、「何かの順番がつけられる」、「大中小の緊張が強いられる」、つまりあまりホッとできないことがたくさん盛り込まれている場所だ。

高校に入って、「お前、第一志望?」、「ああ(本当は県立落ちて来たんだけど)、まぁ」というやりとりひとつ取ったって、なんだかストレスフルで面倒だ。

つまり、何かが試され、評価される(学業、スポーツ、技芸、やる気、性格なんか含めて)場所だから、本当にくつろげるかといえば、そうでもなかったりする。なんかあまり呼吸しやすいところではなく、なにかが「測られている」ところだ。そういう場所になっていることを「学校化」された場所と呼んでみれば、それは君たちの行っている学校だけではない。

父さんや母さんだって、企業とか会社で働くわけだが、そこはノルマだとか業績だとか売上だとかいう結果が求められるところだ。それに応じて課長とか部長とか、そういう序列化された場所だからホッとできる場じゃない。でも必要なお金を稼ぐためにしょうがないから行く。いつも能力や結果を問われている、息も詰まる「学校化」されたところだろう。

家にも居場所がなかったら

だから、疲れた顔をして電車に乗っているおじさんやおばさんも、家に帰れば「今日もいろいろあって疲れたなぁ。やっぱり家(うち)が一番だ」なんて思いながら、お風呂につかったりしている。ここだけは、結果も能力もあまり問われない、ホッとできる居場所だと。

こういう場所を「愛の共同体」なんて呼んだりする。「愛の」というのは、何があっても「あなたはそのままでいいよ」と言ってもらえるという意味だ。共同体は、「序列や業績を問われる組織」ではなく、血縁や地縁でつながった「生まれる前からある最小単位のカタマリ」だ。お前はどうしてここにいるのだと質問されない場所だからホッとできる。

しかし、そんな家も、ところによってはあまりホッとできない、いつも結果を問われる、学校化されている場合となっているかもしれない。「◯◯高校に入らなければ、◯◯大学に合格しなければ、お前の人生には意味がないんだよ」と、12歳ぐらいから毎日言われ続けたら、そこはホッとできるところにはならない。いつだってテストの順位を問われる序列化圧力に満ちた場所になってしまっているからだ。

業績が悪化してボーナスが減ってしまった。社運をかけたプロジェクトで赤字を出してしまって、責任をとらされて、1500キロも離れた土地に単身赴任を命じられて、「そんなとこアタシは行かないから」なんてツレアイさんに冷たく言われる。実家から借金して開いたお店をつぶしてしまったため、親戚から無能者扱いされる。……結果しだいで「そんなことでどうする!」と怒られるような場所になっていないだろうか?

だから、学校(会社)が辛くて家に帰ってきても、そこも辛かったら、人は居場所がないということになるのだ。

これは、各人ぜんぶ事情が異なるから、決めつける言い方や、すべてに当てはまることだ、なんて言い方もできない。でも、学校も家も両方あまりくつろげないという気持ちで、なんか行き場がないよと思っている人はきっといる。

いるのだ。

だから、「学校なんて命かけていくところじゃない」と僕に言われても、不登校の君は、「家にいても『この子はどうして学校に行ってくれないのかしら』って、母さんが毎日泣いていて、ちょーウザいんですけど」と思っているかもしれないから、解決になっていないことになる。

綾小路きみまろという芸人のネタに「お父さん、会社にも家にも居場所がありません! ホッとできるのはトイレの中だけです!」(お客さん爆笑)というのがあるけど、そういう気持ちの中高生だっているはずだ。

だとすると、居場所がない人たち(父さん、母さん、君たち)には、1番目の家でもない、2番目の学校・会社でもない、ホッとできるもうひとつの場所、サード・プレイスが必要だ。

「サード・プレイス」とは学校でも家でもないところ

僕は、クラスを生きのびよ、学校をサバイブせよ、そのためにスプーン1杯の勇気と、いろいろやり過ごすための知恵をつけよと言った。そして、それがどうしても苦しくてやり過ごせなかったら、行かなくていい。正しく、賢く逃げよと言った。

でも、逃げた先にあるのが、学校化されてしまった家だったり、転校先の全寮制の軍隊生活だったりしたら、逃げた意味がない。だから、なんとかホッとできて楽しく暮らせる居場所、サード・プレイスを見つけなければならない。よそがダメなら、あらゆるお願いと作戦をたてて、家の中にサード・プレイスをつくり上げなければならない。そうでないと呼吸ができないからだ。

これは、住んでいる地域、近所の人たち、街の広さ狭さ、呼吸ができる施設があるかないか、そういう事情によってさまざまだ。近所がみんな顔見知りで、「あいつは学校に行ってねぇぞ」なんて、すぐにバレてしまう田舎はキツい。空気がよく、食べ物も美味しく、のんびりして人々が優しく善良で、駐車場が無料で、戸締りも必要ない。いいところかもしれないけれど、キツい。

だからこれに関して、オススメの街があるよなんて言えない。とにかく、自分が呼吸のできるサード・プレイスを探す、つくる、教えてもらう、仲間と協力してみる……いろいろとやらないといけない。でも、そういう場所が必要だと思っている人たちは、結構たくさんいるし、そういう人たちをつなげることを仕事にしている大人も、けっこういるのだ。

自立のためだ。ギリギリの力を出そう。

「自分の弱さや未熟や無力さを受け入れて、ちゃんと助けを求められること」こそが自立だと僕は言っている。

「◯◯さん、オレ・ワタシ、ちょっとダメだ。ここじゃ息ができないわ。ちょっと階段登るのも疲れたから、踊り場みたいな所ないっすか?」って、助けを求めることができたら、もうそれだけでエラい。それを言えずに、「どうせダメっすから。ま、自己責任なんで」と暗い目をしているより、光が差し込んでくると思う。

ちなみに、僕はこのサード・プレイスのことを「はらっぱ」と呼んでいる。

最近は「はらっぱ」と言われても「?」というティーンズがいるが、要するに「お前がこの世でどれくらい仕事(勉強)ができるのか、どのくらい金持ってるのか、ちゃんと家族つくって幸せに暮らしてるのか?」みたいなことをまったく問われることなく、とにかくぶらっとやってきて、ぐだぁーっとたむろすることができて、起承転結も何もない雑談して、でも「ま、話したらちょっとスッキリしたな」とか、「自分の話なんて誰も聞いてくれないと思っていたけど、そうでもないんだな」なんて思ったり、「人と話すと、最近の自分はものすごくイビツな思い込みに追っかけられてたんだな」なんて気づいたりする。

そういうことが起こるスペースのことだ。

立派な人間になんてなる必要がない

話のすじを取り戻すために言うと、政治という決め事、この世の運営の仕方の中には、こういう「頑張らなくていいところをつくる」といった活動だって含まれている。学校なんて命をかけて行くところじゃないということの先にあるのは、ホッとできる、楽しい、呼吸のできる居場所だ。


しかし、それがこの世の中にあまり用意されていない、あまり残っていない、みんながその大切さを忘れているなら、思い出そうと呼びかけて、話して、書いて、励まして、そういう気持ちで生きている人たちのスペースをつくろうと説得するのも政治だ。

学校から出ても、家でなくても、そういう場所をつくるという政治はできる。それは疲れちまった大人にも必要な場所だ。君たちが40人の教室でモヤモヤしていること、できないこと、できることは、サイズや種類を変えれば、そのまま大人の世界の話と同じなのだ。

辛くなったら、立派な人間になんてなる必要がないのだから、弱くて小さくて自己チューな友だちと、はらっぱでひと息つこうぜと言って、受け入れてもらおう。

(岡田 憲治 : 政治学者/専修大学法学部教授)