「戦争体験者でも、空襲の経験がある人とない人では全然違う」田原総一朗・毒蝮三太夫″超老″対談 - BLOGOS編集部

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※この記事は2022年02月08日にBLOGOSで公開されたものです

田原総一朗と毒蝮三太夫、政治に世相に常に目を光らせBLOGOSで定期的に発言を続けるふたり。田原が87歳で毒蝮が85歳、まさにBLOGOSが誇る長老同士。お互いに少年時代に戦争体験を持ち、戦後日本を昭和・平成・令和とメディアに身を置き歩んできた。今もって現役で活動を続ける両人がBLOGOSレギュラー同士という縁により、初のロング対談が実現。長老同士が老いを超えて語り合う"超老"対談です。

全5回のロング対談、日本人、戦争、核問題、政治、若者と多岐にわたった第2回は…。

死体があちこちに…城南大空襲から生き延びた経験

田原 毒蝮さんは空襲に遭ってる。

毒蝮 昭和20年3月10日の東京大空襲は、江東区、墨田区、台東区が燃えたんです。俺はそれを桐ケ谷の高台から見てた。向こうのほうが真っ赤になって、うわあ下町は大変なことになってるな・・・って。俺はそのあと5月24日の真夜中にあった城南の空襲で焼け出されたんです。これは大変な空襲でしたよ。田原さんは空襲の思い出がない?

田原 うちは彦根だったから空襲がなかった。空襲はないけど爆弾は落ちました。当時、名古屋を空襲した爆撃機が帰る時に爆弾が余ってると、そのまま持って帰ってもしょうがないから面白半分に彦根に落としていった。狙われたのが近江鉄道。交通機関はいい標的だから、近江鉄道に爆弾が投下された。乗ってた人が随分と亡くなりました。

毒蝮 そうか、たまたま鉄道に乗ってた人が爆弾を落とされたんだ…。

田原 戦争体験者でも、空襲の経験がある人とない人では思いが全然違いますね。文藝春秋にいた作家の半藤一利さん、空襲を受けて本当に死にそうになったって語ってた。

毒蝮 半藤さんは墨田区ですよ。向島のほうの出身だからいちばん被害がひどかった所だ。3月の東京大空襲は3時間で10万人亡くなってる。あれは亡くなってるっていうんじゃない、殺されてるんですよ。それを半藤さんはずっと言ってましたね。

田原 だから戦争は絶対ダメだと。自国であろうが戦争をやった国なんて敵だと。戦争を煽ったマスコミなんて敵だと。半藤さんは言い続けた。

毒蝮 空襲で言うとうちの親父、明治35年生まれで石井正寅って言うんです。寅年生まれで、今年は寅年だから親父が生まれてちょうど120年。親父は120年前に神奈川県の戸塚で生まれて大工になった。腕は立ったから当時「海軍技術研究所」に雇われたんです。今、中目黒で防衛省の施設がある場所ですよ。そこに雇われてたもんだから、5月24日の空襲の時に、辺りが燃えてきたらうちの親父は「俺は技研に行って見てくるから」って、おふくろと俺に「おまえたち、ひどくなったら逃げろ」って行っちゃった。

田原 おふくろさんと取り残されたんだ。

毒蝮 逃げろって言ってもね、当時は空襲受けて燃えてるのから逃げると捕まったんですよ。国賊だって言われたんです。ハタキやバケツリレーで火を消すのが義務だった。おふくろはやってましたよ近所の人たちと。でもね、いくら消そうとしたってどんどん燃えてきて間に合わない。前のほうがどんどん焼けただれてきて、もうダメだ、もう逃げようっておふくろと逃げたんですよ。で、桐ケ谷の高台に逃げて助かった。

この城南の空襲はB29が500機ぐらい飛んで来て、3月の東京大空襲よりも規模は大きかったんです。だけど城南地区は木造住宅がわりと少なかったのと、人口が少なかったから死んだ人数は約4千人だった。3月の大空襲は10万人、それがいかに多かったか。

田原 死体もいっぱい見たんでしょう?

毒蝮 はい、見ましたね。でも半藤さんのほうはもっと凄かったでしょうね。焼夷弾であちこち燃えるとすさまじい熱風が起きるんです。それがすごいんですよ。だから熱くて隅田川とかに荷物背負ったまま飛び込んだりしてる。

田原 半藤さんも川に飛び込んだって。そこで大勢死んだけど、彼は助かった。

毒蝮 半藤さんも生き地獄を見てるわけですね。

田原 僕は彼とわりと親しかった。だから言われましたよ、「君は本当は戦争を知らない」って。

毒蝮 でも、田原さんも戦争があと2年も延びてたら徴兵されてましたよね。

田原 終戦の年に11歳、小学校5年だった。1学期は軍事教練が始まってました。

毒蝮 天突き体操とか。

田原 竹やり持ってね。

毒蝮 わら人形を突いたり。

田原 小学5年で本格的に社会科の授業が始まって、そこで先生たちが、この戦争は悪魔のようなアメリカ、イギリスを打ち破るんだと。アメリカやヨーロッパの国々に奴隷同然の植民地にされているアジアの国々を独立させ、解放させるための正義の戦争なんだと教えた。

毒蝮 聖戦だと。

田原 だから君たちはみんな早く大人になって戦争に参加して、天皇陛下のために名誉の戦死をしろと。そう教えられて信じたんですよ。当時、僕らの将来は2つしかなかった。陸軍に入るか海軍に入るか。

毒蝮 選択肢が2つとも兵隊なの?

田原 それ以外ない。僕は当時、陸軍は行軍があって延々と歩かなきゃならない。海軍は甲板の上、たいして歩かなくていい。だから海軍に行こうと思ってた。

毒蝮 アハハハハ。

田原 僕のいとこが海軍兵学校に入ってて、海軍のほうが軍服がカッコイイんですよ。

毒蝮 錨のマークが入ってね。

田原 だから僕は海軍兵学校に入りたい、それが当時の夢だった。

毒蝮 俺は終戦の年に9歳だったけど、兵隊さんになりたいってのはありました。あと、電車の運転士になりたいって思ってましたね。

アニキは知覧で特攻隊に

毒蝮 うちはアニキふたりが兵隊に行ってるんですよ。いちばん上のアニキは通信兵で中支に行ったんです、中国ですね。だから日中戦争の時代からアニキが兵隊に行ってるのを間近で見てました。兵営に会いに行ったら、こっちから持ってった餅菓子なんかをアニキが美味しそうに食べてくれてね。

2番目のアニキは郵便兵になりたかったんです。郵便を飛行機で運ぶ。それで仙台の郵便飛行学校に行ったんですよ。それから戦争が悪化していく中で、学校が軍隊にすり替わったんですね。それで特攻隊です。仙台から中国に移っちゃった。やがて戦争が末期になって沖縄に突っ込むぞっていうんで鹿児島の知覧に移った。

田原 知覧は特攻隊の基地で有名だ。

毒蝮 もしあと1ヶ月ぐらい戦争が長引いてたら、アニキも特攻で行ってました。話を聞いたら特攻の訓練を毎日のようにやってて、150キロの爆弾を飛行機に積んで練習するんだけど、その時の飛行機が劣化しててガソリンも質が悪いからよく飛ばないんですって。重い爆弾積んでバタバタで、とても目的地まで行けないって…。

学童疎開しなかった親父の思い

毒蝮 俺にとっての戦争体験はやはり空襲です。でも本当は学童疎開で地方に疎開しても良かった。田原さん、彦根は学童疎開は無かったんですか?

田原 彦根には東京や大阪から学童疎開が来てました。

毒蝮 受け持ったほうなんだ。

田原 そういう都会から来た子たちと学校で一緒になるでしょ、彼らは勉強ができるんですよ。それまでは僕も勉強に自信があったんだけど、東京や大阪の子は勉強がずっと進んでた。それで僕はちょっと自信をなくした。

毒蝮 アハハハハ。でね、うちの親父は俺に「学童疎開には行くな」って言うんですよ。それで品川に残った。俺は友だちがみんな学童疎開に行くのを見送ったんです。当時小学3年生、なぜ俺を疎開させずに残したのか、親父の口からは聞けなかったけど、親父からしたら家族は死なばもろともだって思いがあったんでしょうね。

田原 疎開する、地方へ逃げる、それは卑怯だって思いがあったのかもしれない。

毒蝮 ウーン、どうですかねぇ・・・。でもまあ変な親父でしたね。ゴリおやじでね、本(「たぬきババアとゴリおやじ」学研プラス)にも書いたけど、おふくろが江戸っ子で脳天熊のたぬきババア。ゴリとたぬきで、その子がマムシ(苦笑)。結局、うちの家族は東京に残されたために、空襲の悲惨さを味わっちゃった。

田原 普通は疎開しますよね。だって当時の皇太子だった現在の上皇も疎開してますよ。

毒蝮 疎開せずに残るほうが少なかった。みんな疎開しちゃって近所に子どもがいなかったですよ。それで5月に城南の空襲に遭っておふくろと逃げた。あたりは死体が累々。その道を逃げるわけです。さっきも言いましたが焼夷弾であちこちが焼けるとものすごい熱風が起こるんですよ。そうそう、明暦の大火(1657年)で江戸城が焼けたのも延焼じゃなくて、神田あたりの武家屋敷が燃えて起きた熱風で焼けたんですよね。

田原 そうか、江戸城は堀もあるし類焼はない。なのに焼けちゃうってのはそれだけ熱風がすごいんだ。

毒蝮 すごいんです。半藤一利さんも熱風で死んでいく人をたくさん見てたんですよ。熱風を浴びると髪の毛は焼けちゃうけど体の表面はほとんど焼けないんです。窒息死になる。喉や肺が焼けてしまう。それで死んでしまう。そういう中を俺はおふくろと逃げて、桐ケ谷の高台で夜を徹した。朝になってようやく空襲が止んで、うちへ帰ろうとおふくろと歩いた。みんな焼けてなくなって、そこらじゅうぶすぶす火がくすぶってる。帰っていくB29が見えるんです。それがものすごく低く飛んでて、こっちから操縦士の顔が見えましたよ。

田原 超低空飛行なんだ。

毒蝮 こっちには対抗できる高射砲がない。向こうもそれをわかってるから飛び方がバカにしてるんです。

田原 わかるんだ。

毒蝮 それを見て、日本はホントにダメなんだなって、しみじみ思いました。そうして自分の家に向かって歩いてく。だけど目印もないんですよ。残ってたのは風呂屋の煙突ぐらい。途中に防空壕があってまだ蓋がしてあったんですね。それを開けてやったんです。すると中から5、6人がこっちを見てる。みんな衣服もちゃんとしてる。「空襲終わりましたよー」って言ったら、みんな黙ったままで、よく見たらみんな死んでた。窒息死なんです。

田原 ああっ。

毒蝮 防空壕で蓋してあって、周りが一気に焼けたから酸素を持ってかれちゃった。それで酸欠。体はまったく傷ついてないんです。もはや燻製ですよね。

田原 うーん…。

毒蝮 そんなこともあって歩いてたら革靴が落っこってたんですよ。革靴なんて当時は貴重品ですよ。みんな安いズックとか、ゾウリとか、下駄だったから。その革靴がちょうど俺ぐらいの子どもが履いてるぐらいの大きさで、拾って持って帰ろうと思って片方を手に取ったら重いんです。見たら中に足首が入ってた。

田原 えっ?

毒蝮 っていうことは、この靴を履いてた子は爆風で飛ばされたんだなって。戦争に詳しい人に訊いたら焼夷弾なんですね。日本の空襲に焼夷弾が有効だっていう作戦を考えたのが、米軍の航空司令官だったルメイ(カーチス・ルメイ)って人で、日本の家屋は木と紙で出来ているから爆弾で飛ばすよりも燃やしたほうが早いと。それで作ったのが焼夷弾。

しかも東京にはヨーロッパの国々にあったような対空砲、高射砲があまりないことがわかったから、低空で飛んで焼夷弾を落とすのがより効果的だと。焼夷弾はバラバラバラって落とされて、ドーンとなって油が飛び散る。その油のせいで火が消えないで辺りが燃える。水で消そうとしてもダメなの、油だから。そういうのをアメリカが考えて、束で落っこってきて破裂して爆風が起きる。その爆風でその子は吹き飛ばされたんだろうって…。

革靴にあった足首はきれいに切れてた。血がほとんど出てないんです。だから、吹き飛ばされて、その瞬間的に鋭い何かでスパーっと切った…。俺はその足首を抜き取って、その靴を履きましたよ。

田原 抜いて履いた?

毒蝮 だって革靴なんですもん。おふくろはそれをじーっと見てた。これを仲代達矢さんに話したら、仲代さんも目黒で空襲に遭って、逃げる途中で女の子がいたから「おい、逃げなきゃダメだ」ってその子の手を握って逃げてたんですって。そしたら握ってる手が急に軽くなって、仲代さんはその子の片腕だけ握ってた。女の子は吹き飛ばされてたんです。それで仲代さんは「僕は逃げるためにその手を放り投げた。それが今でも悔やまれるんです」って。それはもうしょうがないんですけど…。

田原 そんなことがあったんですか…。

毒蝮 俺はもうその革靴については悪いとかっていう気持ちはなかったですよ。おふくろが日蓮宗を信じてて「履いてあげるほうが供養だよ」って言ってた。ああ、そうなんだなって俺も思って、その靴をだいぶ履き続けましたよ。

田原 そうでしたか…。

毒蝮 空襲は半藤さんも書いているけど、抵抗できない子どもにも襲ってくる。それをわかってて襲うんだから殺人ですよね。何にも抵抗できない我々は逃げるしかなかった。

田原 いちばんの問題はね、当時の日本はまったく戦力がない。アメリカは空襲をやりたい放題。空襲をやりたい放題の果てになんで原爆を落としたのかと。

毒蝮 そうですよ、あのとき日本は死に体ですよね。8月までに軍事工場も全部やられちゃったし、南方やなんかは全滅ですからね。

田原 広島、長崎に原爆なんて落とさなくたってよかった。だけど落とした。僕はなんでアメリカは広島、長崎に原爆を落としたのかと、全部調べました。

(田原総一朗・毒蝮三太夫 BLOGOS超老対談 第3回へ続く

(構成:松田健次 田野幸伸 撮影:弘田充)