「電通と喧嘩してテレ東を辞めてよかった」田原総一朗(87)と毒蝮三太夫(85)初の″超老″対談 - BLOGOS編集部
※この記事は2022年02月08日にBLOGOSで公開されたものです
田原総一朗と毒蝮三太夫、政治に世相に常に目を光らせBLOGOSで定期的に発言を続けるふたり。田原が87歳で毒蝮が85歳、まさにBLOGOSが誇る長老同士。お互いに少年時代に戦争体験を持ち、戦後日本を昭和・平成・令和とメディアに身を置き歩んできた。今もって現役で活動を続ける両人がBLOGOSレギュラー同士という縁により、初のロング対談が実現。長老同士が老いを超えて語り合う超老対談です。
全5回にわたるロング対談、日本人、戦争、核問題、政治、若者と多岐にわたったその第1回は…。
80代現役バリバリの"超老"2人が初対談
毒蝮 俺が田原さんとお会いしたので覚えてるのは浅香光代さんの会。浅草ビューホテルでやった時にちょっとだけ顔を合わせた。でも、こうしてきちんとお会いして話すのは初めてですよね。お会いできるのを願ってました。
田原 ホントにね、僕もじっくりとお会いしたいと思ってました。僕が毒蝮さんと初めて会ったのはおそらく1972年頃。半世紀前。毒蝮さんがTBSラジオで活躍されてて、僕はまだ東京12チャンネル(現・テレビ東京)の社員だった。毒蝮さんと会ったのは放送作家の菅沼定憲(※すがぬまていけん/「ヤング720」「11PM」等の番組構成を担当)さんがご縁だった。
毒蝮 そうそうスガチン、菅沼定憲ね。ふたりとも定憲が共通の知人なんですよね。俺は定憲とは戦友みたいなもんですよ。俺がまだ石井伊吉の時代、若い頃に彼と一緒に「劇団山王」(1954年~)ってのを作ったんです。「劇団四季」(1953年~)と「テアトルエコー」(1956年)なんかはほぼ同時期の結成ですよ。「山王」の旗揚げ公演は第一生命ホールでやった石原慎太郎の「処刑の部屋」だった。そのあと公演4回でポシャっちゃった。
田原 僕はTVディレクター時代に数々の番組を定憲さんに構成してもらってた。定憲さんの紹介で二番目のカミさんと知り合った。
毒蝮 今回、田原さんと会うにあたって定憲の奥さん、まゆみちゃんに電話したんですよ。何しろ田原さんの話はよく定憲から聞いてたからね。定憲はがんで亡くなっちゃったけど、田原さんの「朝まで生テレビ!」にも、がんの医療を語る立場で出てましたね。
田原 日本の医療問題を取り上げた回ですね。
毒蝮 定憲が亡くなった時に田原さんが弔辞を読まれたんですよね。
田原 そう。今回、我々を引き合わせたのはBLOGOSだけど、菅沼定憲という作家の存在もあったわけだ。
毒蝮 この対談、あの世にいる定憲にも読んでもらいたいですね。ええと、これは何で読めるんだっけ? パソコン? スマホ? 定憲はあの世でスマホ持ってるかな?(笑)
毒蝮 それにしても俺と田原さんが対談するってのはいったい何が目的なの? 年寄りはもういらねえって話か?(笑)
田原 それは冗談でなく去年から今年にかけて、ラジオで長期間つとめてたパーソナリティーが次々に辞めてるでしょ。
毒蝮 そうなんですよ、俺に近いところでは大沢悠里ちゃんが3月で降板(大沢悠里のゆうゆうワイド/TBSラジオ)するし、関西では道上洋三アナウンサー(ABCラジオ)も健康を考えて3月いっぱいで降りるとか、年々そうなっていきますよ。
田原 世代交代ですね。
毒蝮 まあ、カッコよく言えばそうだけど、年寄りは老害ですよ(笑)
田原 老害老害(笑)、僕なんて老害の典型です!
毒蝮 森喜朗さんなんか、森ロウガイだって(笑)
田原 今回は老害ふたりの老害対談だ(笑)
毒蝮 なんだ編集部、BLOGOSの長老同士だからこの対談を企画した? じゃあ長老で老害だからチョウロウガイ・・・超老害対談か? アハハハハ。
当たり障りのあることを言える人が必要
田原 今ラジオでは多くのベテランたちが交代している。毒蝮さんは1969年からずっとTBSラジオ(「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」)をやっている。だけど毒蝮さんは辞める気配がまったくない。この人が必要だってことがみんなわかってるんだ。
毒蝮 かれこれ50数年やってますね。
田原 テレビでもラジオでも出てる人はだいたい無難なことを言う人が多い。だけど毒蝮さんは当たり障りのあることをガンガン言いながら、なんでマスメディアに出続けているのか。年寄りをつかまえて「ジジイ!ババア!」、ところが言われたジジイとババアが毒蝮さんのファンになってる。だからそういう当たり障りのあることを言える人が必要だって国民がいるわけですよ。
毒蝮 それで言うと立川談志なんかもそうで、当たり障りのあることばかり言ってた。世の中を皮肉って痛烈なことを言う。言ってることは正しかったりするんだけど、談志の場合は痛烈過ぎて言われた相手は傷ついちゃうんです。例えば、「努力とは馬鹿に恵(あた)えた夢である」なんて、努力してがんばっている人を見下すようなことを堂々と言う。
解釈すれば深い言葉でもあるけど、言葉が辛辣なんですよね。それで相手をスパッと斬っちゃう。斬りっぱなし。斬ったらそのぶん相手を手当てしないとコミュニケーションにならないでしょ。だけどあいつは縫合手術がヘタなんですよ。斬りつけたまんま帰っちゃう。相手に痛みが残っちゃう。それに比べると俺はズルいから縫合手術が上手いし、斬ったら縫うタイプですから(笑)
田原 毒蝮さんには言いたいことをガンガン言ってほしい。
毒蝮 当たり障りあっても言う時は言ってくほうが大事だと思いますよ。田原さんもそういうとこあるじゃないですか。政治家に「あんた何やってるんだ」なんて平気で言う。だけど政治家たちも「田原さんなら会う」って人が多い。心から嫌われてたらとっくにこの世界にいませんよ。またね、田原さんが上手なんですよ。だから必要とされている。
田原 僕はね、自民党の歴代の総理大臣はけっこう柔軟性があると思ってる。だから面と向かってガーン!って斬り込んでいくのを、向こうも歓迎している。
毒蝮 向こうも打たれ強いんだ。
田原 安倍さんが三選されたあと、僕は安倍さんに言った。「国民の70%以上が森友・加計が問題だと思ってる。自民党の議員にも問題だと思っている人間がいるはずだ。誰か党内の議員で安倍さんに『問題だ!』と言ってくる人はいるか?」って聞いた。安倍さん「ひとりもいない」。
そこで言った、「ということは、自民党の議員は安倍さんへのゴマスリばっかり考えてて、この危機にどうすればいいか何をしたらいいかを考えてない。そんな無責任な野郎ばっかりだったらこの国は危なくなる。それが心配にならないか!」と。そしたら安倍さん「田原さんに言われれば心配だ」って。
毒蝮 言われなかったら心配じゃなかった?
田原 安倍さんも周りに言う人がいないんだ。
毒蝮 田原さんは政治家に対して当たり障りのあることを直接言える貴重な存在ですよ。
電通と喧嘩してテレ東を辞めてよかった
田原 僕も毒蝮さんもお互い、当たり障りのあることを言い続けてる。それが共通点。あと共通点というと、お互いに「フリー」だってこと。
毒蝮 フリーランサーってことですね。俺は会社勤めをしたことはないけど、役者でもありタレントでもあり、自由に色んな仕事をさせてもらってます。
田原 僕は会社を辞めてフリーになった。これがこの歳になって結果的にはありがたい。何しろ仕事に定年がない。
毒蝮 テレビ東京の社員でいたままだったらとっくに定年で、そのあとも働こうとしたら色んなとこに頭下げなきゃなんない。田原さんは電通とケンカして良かったんだ(笑)。電通とケンカになってテレ東をお辞めになった。
田原 当時僕はテレ東のディレクターだった。1976年に「原発反対運動」ってのがあった。一方で「原発推進運動」があった。僕はそれを取材した。バックに電通がいることがわかった。それを僕は「原子力戦争」と題して筑摩書房で連載した。すると電通が、そんなヤツがいる局にはスポンサー入れないぞって脅してきた。今はもうテレ東も大した局だけど、当時は三流のテレビ局だから電通という大手広告代理店からスポンサーをもらえなかったら収入が途絶えて倒産してしまう。
それで、連載を辞めるか会社辞めるかどっちかだとなった。僕はどっちも選択しなかった。そしたら局長やなんかが動いて、僕の退社がドーンと発表された。それで1977年に僕は会社を辞めた。辞めたのが42歳。何もなかったら定年まで会社にいた。たぶんそれで終わってた。
毒蝮 42歳、後厄で厄払いしたんだ(笑)。それでフリーのジャーナリストになって、世間にもどんどん知られるようになって今に続いている。でも、会社辞めてフリーでうまく行く人もいるけど、ポシャる人も多いですよ。
田原 今から思えば非常にラッキーだった。
毒蝮 田原さんは若い頃からマスコミ志望だったんですか?
田原 僕は高校から大学の頃、作家になろうと思ってた。大学生の時に石原慎太郎の「太陽の季節」が出た(1955年)。それを本屋で立ち読みした。マイッタ。弟の裕次郎のことをモデルに書いている。リアリティに充ちてる。僕は彼女もいないのに恋愛小説を書いてた(笑)。そのあと大江健三郎の「飼育」(1958年)。そのふたりを読んで作家はあきらめた。大江は昭和10年生まれで毒蝮さんとほぼ同世代。
毒蝮 俺は昭和11年生まれだから大江さんはひとつ上ですね。大江さんと言えばノーベル賞だけど、俺がラジオ(「毒蝮三太夫のミュージックプレゼント」TBSラジオ)で中継に出てる時にスタジオゲストで大江健三郎さんがいらした時があったんです。スタジオの大沢悠里ちゃんが、「まむしさん、大江さんと話しなよ」って言うから、いやいや俺は外でババアくたばれとか言ってるわけでしょ、だから「そんな偉い人としゃべるのイヤだよ」って言ったんだけど悠里ちゃんが、「いいからしゃべりなよ」って。
だからこっちは中継場所から「ノーベル健ちゃ~ん」って呼びかけたの(笑)。何しろノーベル賞受賞だからね、ずっとスタジオでは大江さんを下にも置かないもてなしだったのに、急に「ノーベル健ちゃ~ん」だからみんなビックリしちゃった(笑)。だけど大江さん「ハイハイハイハイ」って応えてくれた。シャレのわかる人でしたよ。
田原 「ノーベル健ちゃん」なんて言えるのは毒蝮さんぐらいですよ(笑)。小中陽太郎が東大で大江健三郎と同期だった。小中さんは神戸の生まれで高校から東京だった。大江さんは四国(愛媛県)出身でしょ。四国から東大に入って来た大江を、小中はちょっとバカにしてたんです。
毒蝮 夏目漱石と正岡子規みたいなもんだ。正岡子規は四国松山、漱石が「坊っちゃん」でもそうだけど、イナカッペって書いてますよね。
田原 そうそう。だけど小中陽太郎は大江に抜かれちゃった。僕は小中と親しかったから聞いてた、「正直言って大江をバカにしてた」って。大江は松山弁で、標準語をしゃべらなかったから。
毒蝮 あいつはどこの出身だからどうだこうだって話は尽きないですよね。田原さんは滋賀の彦根ですよね。ご先祖が彦根藩の近江商人だそうで。
田原 僕はね幼稚園の時から親父に言われたの、「お前は大きくなっても政治家や役人にはなるな」と。今、世の中は薩長の時代だと。彦根は井伊直弼が出身だから。
毒蝮 幕府側だ。
田原 井伊は薩長に殺された。だから彦根は薩長の敵だと。それで親父は「政治家や役人になっても絶対に偉くなれない、出世できないからなるな」って。
毒蝮 世の中の主流と非主流を説いたんだ、幼稚園児に(笑)
田原 もうひとつ言われたのは、近江商人は「三方よし」だと。商売で成功するには「売り手によし 買い手によし 世間によし」であって、商売を通じて「商人、客、社会」の三方に良ければ儲かるんだと。
毒蝮 田原さんの親父さんは歴史を背負って生きてたんでしょうね。あのね、俺のラジオの現場をアシストしてくれる女の子で、毛利藩の毛利輝元の子孫がいましてね。その子のお父さんが毛利家二十四代とかの当主で、今も周りから「殿」って呼ばれてる(笑)。毛利は長州藩ですから、その子はお父さんから事あるごとに「会津には行くな」「会津の人とは会うな」「会津の人とは友達になるな」ってずっと言われてたって(笑)。そしたらこないだそのお父さんが会津と手打ちをしたとかナントカ言ってたな(笑)。現代にもまだまだあるんですよね、江戸が明治になってからの因縁が。
田原 会津若松は白虎隊。白虎隊は勤王。薩長と戦って敗れて若者たちが自害しました。明治維新で薩長が政治の中枢になって、会津若松は反体制となった。その反体制ぶりが典型的に出てたのが民主党だった渡部恒三。僕は彼と仲が良かった。
毒蝮 ズーズー弁の。
田原 ズーズー弁を隠さない渡部恒三、ズーズー弁にプライドを持ってる。
毒蝮 明治維新が約150年前でしょ。これが遠い歴史のようで案外身近だったりする。維新で薩長が政治を握って、日本の総理大臣は長州山口県出身が占めている。伊藤博文から始まって戦後は岸信介、佐藤栄作、安倍晋三とつながってます。
田原 毒蝮さんは東京の生まれ?
毒蝮 これがきちんと言うと、親父とおふくろが関東大震災で焼け出されて、東京はダメだってなって大阪に逃げたんですね。そこで夫婦別れして、おふくろが2度目の結婚をしたんです。そこで生まれたのが俺で。だから昭和11年に大阪の阿倍野区阪南町ってとこで生まれたんですが、すぐに東京に戻って、品川の中延で同潤会の木造アパートに移り住んだ。そこで育って9歳の時に空襲に遭ったんです。
田原 毒蝮さんは空襲に遭ってる。
(田原総一朗・毒蝮三太夫 BLOGOS超老対談 第2回に続く)
(構成:松田健次 田野幸伸 撮影:弘田充)
