※この記事は2019年10月11日にBLOGOSで公開されたものです

私が初めて「パソコン通信」なるものに触れたのは高校生のときで、あれからかれこれ30年もの月日が流れました。いまやインターネットは自分の人生の一部と化しているために、いまさら「デジタル社会」や「ネットによる第四次産業革命」と言われてもまったくピンと来ないのは当事者性が強すぎるからでしょうか。

2ちゃんねる、ニコニコ動画…自由な「場」が受け容れられたネット黎明期

ネットとメディアの歴史を振り返るとき、おそらく誰もが等しく共通するネット経験というものは実際には存在せず、ひとくちに「2ちゃんねる」「ニコニコ動画」などの黄金期がネット内のカウンターカルチャーで全盛であったとしても、人によって見ている内容も違えば、持つ意味も、また感じた幻想的な共有体験も異なるというのが実情なのだろうと思います。

より現象面でのインターネットの歴史は、Yahoo! JAPANが渾身のサイトを制作していて、こちらを是非ご覧いただければと存じますが、私がメディアとしてネットを振り返ったときに着目するのは「場」であります。

思い返せば、1999年ごろから勃興した「2ちゃんねる」を運営していた西村博之さんの話で印象的だったのは「ネットでないと居場所のない人たちでも、肩書関係なくモノが言える『場』を作る」という発想であって、その前身である「あめぞう掲示板」以降の匿名BBS文化が日本で流行していくにあたり、インターネットの原理主義的な自由さ、誰からも縛られないことを是とするアナーキーな風土が日本社会にも広く受容されていったというのは特筆するべきところです。もちろん、西村博之さんがそういうインターネットの原理原則も主義もすべて理解して自由なインターネットの具現物としての匿名掲示板を企図したわけではないのですが(彼は2ちゃんねるに犯行声明が書かれた「ネオ麦茶事件」について、保護者からネットを取り上げられたことが動機のひとつとされた犯人像に深い同情を寄せる一方、この悲惨な事件を2ちゃんねるの成長の好機を捉えてもいた)、言いたいことを言える、書きたいことを書ける、という仕組みの魅力が初期のインターネットには詰まっていたことに当初から直感的に気づいていた人物の一人でした。

「浅い」 サービスに人気が集まるようになった現在

一方で、現在のインターネット向けサービスで見るならば、ひとたび暴言でも吐こうものならネットでの関係はブロックにより打ち切られ、場合によってはサービスそのものからアカウントがBANされてしまいます。かくいう私もTwitterで軽い暴言を吐いたらアカウントが停止させられてしまい、以降あれだけ好きだったTwitterは見ることもほとんどなくなってしまうぐらい、ひとつの「場」を運営する仕組みはより落ち着いた、礼儀正しいものでなければならないという方向へと進化していきます。仕事柄、他のSNS企業のコンサル業務などもしていますが、やはり起きているのは「そのサービスに相応しくないユーザーは、その存在がなるだけ他の人たちから見えないようにするためのアルゴリズムを回してSNS内から(事業者の考える)望ましくない書き込みの流通を減らす」方向に動いています。

これをアカウントBANなど一番乱暴な方法で進めているTwitterでは私がいなくなって以降も続々と問題発言や暴言、デマの類が乱舞している一方、ユーザー同士のコミュニケーションをあまり可視化させないサービスほど駄目な発言をする人の「スコア」が下がり、表示されなくなり、ネットでは存在しない人であるかのような扱いになっていくのは印象的です。かつて、西村博之さんが言っていた自由なインターネットを追求していった結果、暴言を見たくない・排除する自由が事業者によって確立していきました。ビジネスとして罵倒交じりの論争や雑多な意見が流通する「深い」モデルよりも穏やかに新しく出た炭酸飲料や海外旅行、子どもの写真にグルメ、夜プールといった生活の断片を見せる「浅い」サービスのほうがインターネットを利用する圧倒的多数に対してウケることが分かり、結果として、自由なインターネットの旗手であるはずだったネットらしい自由放任主義を掲げるウェブメディアやサービスは検索エンジンからも弾かれてネットビジネスのメインストリームから外れ、アンダーグラウンドな世界へと戻っていくことになります。

ページビュー重視からユーザー属性重視へ変化してきたネットビジネス

そして、これらのネットビジネスの大きな変遷を促した原因のひとつは、ページビュー(PV)の量的拡大をベースに検索エンジンからの流入を目指して一山いくらのページを量産していく方針から、ユーザーの属性を見極め、彼らの生活上のコンテクストに見合うサービスや情報を提供することで具体的な商品の購買や制約を目指すカテゴリー別のタイアップ型ビジネスへと移り変わっていきました。ネットでは流れる情報の質が問われるようになったのではなく、量の性質が変わってきたのです。すべての消費は、いまやネットなしに語ることのできない時代になり、そのネットで消費者の生活シーンにあわせた情報提供がもしもできるなら、その消費者をネットで集めるフックになるメディアは大きな可能性を秘めます。検索エンジンからの流入を漠然と追いかけるよりも、自社サービス内にある検索がどういう傾向になったのかをいち早く確認し、流行の先端を追いかける女子学生も週末の献立に悩む家庭向けのまとめ買いも、広く鋭く消費者に情報提供できるかどうかの勝負になっていきました。

必然的に、いま起きていることをより早くネットでニュースとして配信することがネットメディアの至上命題となり、SNSでバズらせ、テレビに取り上げさせる「起点」となることができれば、そのメディアは話題となったジャンルでの勝ち組となり、多くの見込み客を集め、多大なマーケティングフィーを受け取ることができます。秋の最新ファッションを春に仕込むのではなく、いま街角で起きているモードの変化を嗅ぎ付け、話題となったSNSユーザーを仕込むことで、プロの世界では定番だった秋向けのコーディネーションとは別の商機を産むことができます。繰り返しになりますが、情報の「質」はどうでもいいのです。速く、大量に流れる情報が大正義です。これこそがネットのパワーであり、メディアが一番成長し得た大構造ではなかったか、と思います。西村博之さんの場合は自前サービスで「ネオ麦茶の犯行声明」があったことを拡大の好機と捉えましたが、本当にビジネスになるのは「秋の電車旅行」であったり「タピオカ名店巡り」や「ホテルレストランの秋メニュー」であって、そういうお金になる消費者以外はうちのサービスには不要であると言わんばかりに発信源となるユーザーを選別する不公正も厭わなくなったのが、いまのウェブメディアである、と言えます。

これが、かつて私たちの求めた未来のインターネット社会だったのか、と暗澹たる気分に陥る一方、メッセージングアプリから一日で消えるストーリー機能、長短さまざまあるゲーム実況、短いダンス動画にバーチャルキャラクターによる動画配信など、ユーザーはみな、自分が歓迎される「場」を見つけて、思い思いの表現をネットでできる環境が出揃った、ある意味でネットメディア全体の黄金期とも言える状況になっているのは事実です。なにぶん、各社は機能の開発競争を繰り広げ、赤字を垂れ流してでもリッチな環境を消費者に提供しているのですから、盛り上がらないわけがありません。

データを活用したバブルもいつか弾ける?

これらのネットメディアにおけるビジネスを支えているのは、昔は広告、いまはデータ(によるマーケティング機能)であります。昔はユニークユーザー200万人が半分毎月使ってくれてようやくペイしていた事業者は、いまや10分の1のDAU2万人でも熱量の高い(つまり、モノを買ってくれる)ユーザーのリストさえ手に入れば、それだけでそのカテゴリーを制覇できるぐらいのビジネスに発展したというのがこんにちです。いまでこそ、巷で「エコーチェンバー」や「ネットによる分断」「クラスター化」という単語が飛び交うようになりましたが、同質性が求められ、自分にとって信じたい、欲しい、気持ちの良い情報以外は目もくれなくなる傾向がネットでは大きかったのは昔から知られていたことです。

しかしながら、満ちた月はいずれ欠けるように、これらのビジネスは極めて怪しいプライバシーポリシーの上に運用されており、大手のサービスと言えど蓋を開けてみるととんでもないところにユーザーの具体的な情報が第三者提供の形で流通させられてしまっていたり、情報分析の委託先で個人に関する情報が突合されてしまって思わぬところで不当なスコアリングをされて差別を受けてしまっているかもしれません。これから日本もプラットフォーム事業者に対する規制の内容の是非を問う会合が開かれ、いままでのように事業者がある程度の制限を突破すれば好きに個人に関する情報を利活用できた時代が過ぎ去ってしまうならば、いま目の前で起きている情報通信バブルが素敵な音を立てて弾けることもあるのでしょう。

でも、古くからインターネットとともに歩んできた人たちからすれば、そんなことは良くあることと気にも留めないんじゃないでしょうかね。なにせ、ネットやそれにまつわる新サービスや夢のあるテクノロジーは、凄まじく持て囃されたかと思うと、途端に雲行きが怪しくなって、鼠が逃げるころには大爆発をして髪がチリチリになった当事者が「だめだこりゃ」と言うような事例を繰り返してきましたから。みんなが注目した凄そうなものが実現して、それが日常になってしまうと、あの熱狂を忘れて次のものに夢中になる、その繰り返しがネットであり、ユーザーの作法だったんじゃないかと思うのです。

ネットの自由をどう維持するか 課題が表面化したサイトブロッキング問題

ただ、あのインターネット初期に信じた「ネットは自由なものである」という理想は、あれは本当に幻だったのでしょうか。むしろ、マンガ海賊版対策の議論でサイトブロッキングが公然と議論されたときに、これはネットの自由を維持するために立ち上がらなければならない、と私などは思っておりました。まあ実際に立ち上がった結果、なぜか中国型の統制されたネット環境を是とするドワンゴの川上量生さんとは面白裁判をやる羽目になったりもするのですが、ネットともに30年も生きてきて気づいたことは、自由というものはきちんと「これが自由というものだ」と知覚して、それに対して「自由を守っていくのだ」と行動して成果を挙げなければ、決して自由という状態を維持することはできないのだ、という事実でした。

いまの現実社会は不自由だし不合理だし、ともすれば運が悪ければ野垂れ死ぬのも当然とされる一方、せめて自分が共にあったインターネットの中ぐらいは、それなりの自由が維持され、窒息しない程度にお互いに書きたいことを書ける世界のほうが良いのではないかなあと思うわけであります。

自由をおびやかすフェイクニュース問題 ネットメディアはまだ道半ば

蛇足ながら、ネットの自由を脅かすものとして、前述の「プラットフォーム規制」とは別に「フェイクニュース問題」というものもございます。デジタル・ゲリマンダー問題とも言われる本件は、まさにネットと民主主義における不安要素の大きな一角で、既存の大手メディアの機能低下とともにネット内での過激な論争やデマが原因で具体的な政治への影響が顕著になるという事案が跋扈するようになりました。

かくいう私もネット炎上に詳しいということで各所でお話する機会はとても多いのですが、やはり問題となるのは「ネットで物事を受け止める人たちは、必ずしも全部の分野に詳しい、情報の真贋を見極められるとは限らない」という一点に尽きると思います。すなわち、ある特定の政治集団や海外勢力が、日本の社会的安定を脅かそうとネットでガセネタを大量に流すと、仮に9割の人が問題を見抜いたり、問題に興味ないなどしてスルーしたとしても、そのガセネタを真に受けたり、その内容を信じたい人たちが再拡散していってしまうという問題があります。たとえフェイクニュースを真に受けるのが全体の2%に満たない人であったとしても、100万人がそのフェイクニュースを見ると潜在的に2万人が信じ込むことになります。これらは、何度も書く通り「質」は問われません。

これらのノイジーマイノリティ発生の構造こそが、リアル社会においては「騒動は禁忌」とされる価値判断と相俟って、ネット上のSNSがデマの温床、カルト活動やニセ科学の呼び水であるとさえ言われかねない問題に直結してきているわけであります。ネットがないころは、クラスに一人変わった奴がいても気が向いたときだけ付き合えばよいという対応だったはずが、ネットができて各学校各クラスに一人ずついる変わった奴が横で連絡が取り合えるようになれば、これはこれで物凄い党派性を持つマイノリティができてしまいます。

先般のWELQ問題で明らかになったのは、あれは健康情報ではありましたがネットには「いま流通している情報は嘘だ」と信じたい人たちが多数いるなかで、反ワクチンや、ガンの代替医療を選択する運動が簡単に勃発してしまい、社会問題になるという点です。本人や親族がガンなどを患い、苦しんでいるときに「質」は低いけどそれらしい商品を見かければ、正気なら絶対に手を出さないようなインチキ商品でも乗ってしまうのは人情です。2ちゃんねるのように、誰もが公平にモノが言えるという理想とは裏腹に、医療を中心に専門家がはっきりとさせて、学術的に確定していることですら、研究家でもない素人が「これのほうが普通の医療よりも健康に良さそう」と情報を流通させることで、とんでもない害悪が社会にばら撒かれる恐れが出たということでもあります。ここまでくると、情報の「質」どころの騒ぎではありません。

翻って、ネットメディアと正しい情報という観点からすれば、ある問題について賛否両論の議論になったときにニセの根拠が流通することを抑えることができないという状況は、ネットの自由を守るべきだという主張をする側こそが、どのようにしたらこの問題を解決できるようになるのかという問いを常に胸に秘めていなければなりません。

間違いなく、ネットとともに生きる人生は、まだ道の途中なんだと思うんですよ。確かに目の前はネット社会の下り坂かもしれないけど、高いところまで登ってきたからこそ見える絶景のようなものが確かに見える気がします、病気でしょうか。

プロフィール

山本 一郎(やまもと・いちろう):
1973年生まれ。東京都出身。ブロガー、作家、個人投資家。慶應義塾大学法学部政治学科卒。IT技術関連のコンサルティングや知的財産権管理、コンテンツの企画・制作に携わる一方、高齢社会研究や時事問題の状況調査もおこなう。著書多数。近著に『ズレずに生き抜く 仕事も結婚も人生も、パフォーマンスを上げる自己改革』(文藝春秋)。