「2島は帰ってくる。残り2島は知恵を出そう」鈴木宗男議員が明かす北方領土交渉の現実 - 田野幸伸

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※この記事は2019年10月02日にBLOGOSで公開されたものです

10月2日、都内で行われた内外ニュース主催の講演会で、9年ぶりに国政復帰した日本維新の会所属・新党大地代表の鈴木宗男参議院議員が「最後の役割を果たす」というテーマで語った。鈴木宗男氏は、1956年の日ソ共同宣言に基づき2島の引き渡しを実現させ、残り2島については知恵を絞るべきだという。【撮影・編集 田野幸伸】

「返還」ではなく「引き渡し」

鈴木:2018年11月14日、安倍総理はプーチン大統領と会談し、カードを切りました。日露平和条約交渉を加速すると。

56年宣言(日ソ共同宣言)には「平和条約を締結したあと、日本の要望に鑑みてソ連は歯舞群島と色丹島を日本に引渡しをする」と書いてあります。

『返還』という言葉を使う人がいますがそれは間違いで、返還というのは自分が持っていたものを返すのが返還です。

『引き渡し』というのは自分の持っていたものを善意で譲りますよということ。

同時にその言葉はポツダム宣言、カイロ宣言、さらにはヤルタ協定でもそういう表現がされています。

よくロシアのラブロフ外務大臣が北方四島を「戦後の手続の中でわれわれが正当に手にした領土だ」と言います。

おそらく会場の中には「ふざけるな、中立条約を破って勝手に盗ったんだろ」と思っている方もいらっしゃると思いますけれども、それは日本人の感覚。日本国内では通用するけども、国際的には通用しないのであります。

1941年に戦争がはじまりました、43年にはすでに蒋介石・ルーズベルト・チャーチルがカイロで会談。日本が戦争に負けるということを想定して、話し合っています。そこで日本が略奪したものをすべて、連合国に引き渡しをさせるという事がカイロ宣言で決まっております。

そして1945年のヤルタ協定です。南千島をソ連に返還させ、国後・択捉・千島列島もソ連に返還させる。日本の領土は本州、四国、九州、北海道、その周辺の諸島。北方領土でいえば歯舞と色丹に限定されており、それに基づいてポツダム宣言もできております。

「戦争が終わったにも関わらずソ連が攻めてきた!けしからん!!」これは通用しません。もう日本には戦う力がなく、原爆を2つも落とされて、8月15日に昭和天皇の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」というお言葉であります。

しかし、まだ戦争は続いていました。戦争が終わった日をどうぞ正確に覚えておいてください。

それが9月2日。ミズーリ号で降伏文書に署名がなされ、初めて戦争は終結したのです。だから9月2日までは戦争が続いていたのであります。この点、政治家もマスコミも勉強が足りないと思っております。国際法というのは国際的な諸手続、関係者がきちっと手続きをもって決定して初めてピリオド。実行されるということであります。

私は何も連合国側の肩を持つのではなくて、それが国際法的には当然の認識だということ。日ソ中立条約を破ったのはソ連。これは事実であります。しかし、ヤルタ会談で「5月にはヨーロッパ戦線でヒットラーが負ける。その2~3ヶ月後、ソ連は日本を攻めろ。取ったものはお前のものだ」と言ったのがアメリカのルーズベルトで、チャーチルは葉巻をくわえながらうなずいていた。これが歴史の事実であります。

そのアメリカやイギリスがいま、日本に「四島返還で頑張れ」なんて応援してくれることはありません。「日露両国で話し合え」これが国際社会の現実なのです。

小泉内閣でパーになった日露交渉

橋本龍太郎・小渕恵三・森喜朗総理の時の「2+2」(日露外務・防衛閣僚協議)では、まず2島返してもらって、残り2島はなんとか日本に引き付ける努力をしよう、と思っていましたけれども、小泉純一郎政権でこれはダメになりました。

イルクーツク声明というのがあります。2001年であります。

当時の森総理が「歯舞と色丹を日本に返してくれ、その協議しよう。国後択捉はロシアに着くか日本に着くかの並行協議をしよう」と提案しました。

プーチン大統領は承ったと言って丁重に持ち帰ってくれ、当時のロシアの外務次官はこれはいけるという反応でした。

よかったなと思ったらその1ヶ月後、日本で政変が起きて森内閣から小泉内閣に変わりました。

小泉さんは勉強していないものですから、まったくロシアに関心が低い。もうアメリカ一辺倒でしたね。プレスリーの真似をしてブッシュ大統領を喜ばせていたわけですよ。まったくポイントがずれていました。しかも外務大臣がちょっと頭に虫が這っている田中真紀子さんだったから、どうにもなりませんでした。

そして小泉さんは田中さんをクビにしました。その後外務大臣になったのが川口順子さんです。川口さんは森さんの提案を取り下げてしまいました。

よくプーチン大統領が記者会見で「日本が断ってきたんじゃないか」と言うのはこのことであります。北方領土がいちばん近づいていたのは森政権のときの並行協議なんです。2島は帰ってくる、2島は知恵を出し合おう。これが小泉政権で全てパーになりました。

そこから空白の10年になったんです。小泉さんの残り4年と安倍総理、麻生総理、福田総理の3年と民主党の3年でちょうど10年。

そして2012年、安倍総理が2回目の政権に返り咲きました。ここから新しい動きが始まります。

それが「引き分け 始め」と言うプーチン大統領の言葉です。

柔道家のプーチン大統領が発言した「引き分け」の意味

プーチン大統領も7年前に2度目の大統領に返り咲きました。その大統領選挙前の3月1日、世界の主要メディアを呼んで会見を行いました。日本から呼ばれたのは朝日新聞、若宮啓文さんという主筆です。意外と知られていませんが、若宮さんのお父さんは鳩山一郎総理の秘書官でした。あの1956年、日ソ共同宣言に鳩山さんが署名している後ろに立っている人がお父さんです。ちゃんと分かっていて私は呼んでいたのだと思います。

その会見でプーチン大統領は外交は「引き分け」だと言いました。

若宮さんはその時、外交官以上の役目を果たしたんです。「大統領待ってくれ、引き分けだと『2島対2島』だ、日本は納得しない」こう切り込みました。

そうしたらプーチン大統領はちょっと待てと。「まだ選挙中だ、大統領になっていない。じゃあこうしよう。俺が大統領になったら外務省を位置につかせる。日本も位置につかせろ、ここで『始め!』と号令をかけよう」という話を引き出したのです。

ところが日本は当時野田政権です。野田政権には外交をやる能力はなかった。

その年に安倍政権が誕生し、2013年2月、森元総理を特使として送りました。そこで森元総理はプーチン大統領に「引き分け 始め」の意味を聞きました。

するとプーチン大統領は柔道場の絵を書いて、今ロシアと日本は場外すれすれで組んでいて危ない。真ん中に持ってきてしっかり組ませようという意味だと。

2島は返す。残り2島は知恵を出そう、叡智を結集しよう、というのがプーチン大統領の考えだったと森元総理は私に説明をしてくれました。

同時に、56年宣言の有効性を最初に認めてくれたのはプーチン大統領です。

プーチン大統領は記者会見で、「56年宣言は日本の国会も批准している。ソ連の最高会議、今のロシアの国会にあたる所も批准している。国民に対する約束、義務だ」と。

ソ連時代の指導者たちは誰も言わなかった。エリツィンさんでも言わなかった。

プーチン大統領が初めて言ってくれたんです。よく、平和条約を結んでも島は帰ってこないじゃないかと危惧している人がいるけれどもそれはありません。

56年宣言の有効性という意味で、プーチン大統領は2000年からブレていないのです。

プーチン大統領は、冷たいとかKGB上がりだから暗いとか事務的だとか言われますけど、私はたった4回しか会っていませんが、4回会った印象では人情家だと思います。

プーチン大統領の人情・人間味と安倍総理の信念とそして自分の手でやるという決意と覚悟。この2人でしか日露関係の平和条約の問題は解決できない、私はそんなふうに思っています。