※この記事は2019年09月27日にBLOGOSで公開されたものです

なぜ不揃いではだめなのか

最近、りんごや梨を切るときに、わざと全部ばらばらの大きさになるようにしています。そうすると、家族の中でも大きいのを食べたい人は大きいのを食べられるし、小さいのを食べたい人は小さいのを食べられて都合が良いのです。

そもそもみんな同じ大きさでなければいけないという発想ってどこからきたのでしょうか。お皿に並べたときに見栄えが良いから、というのが理由なら、なぜ、みんな同じ大きさの方が見栄えが良いと、私達は感じるのでしょう。

私が20代前半だった頃、つまり15年くらい前は、部屋のインテリアは真っ白にするのがいいと思っていました。物もたくさん置かないで、スッキリしているのがいいな、と。でも最近はそうではなくなりました。その人が集めずにはいられないもの、あるいはそれがなければ生活できないどうしようもないものが、ごちゃっと溢れ出しているくらいの雑多な部屋が、なんとも魅力的だなと感じるようになりました。

白くてスッキリした部屋はどこか都会的な感じがしますが、それはやはり、混じりけのない同じ色、寸分違わず同じ形のものを一度に大量に生産できる豊かな時代を感じるからで、土や水や木、人間のような、ひとつとして同じ形や色をしていないもの、時間とともにゆっくりと形を変えていくものの対局にあるからだろうと思います。

たくさんお金を稼がなければいけない社会では、一度により多く作れること、一度により多く運べることが良いことで、「不揃い」をよしとしない感覚というのも、おそらくこの辺りに起因しているのではないでしょうか。

小学生の頃、運動会が近づくと、入場行進の練習が何時間もかけて行われました。隣の人と列をあわせて。足を上げる高さを、歩幅を揃えて。人間の不揃いが許されないのは、私達の社会が、より多く作れることに、より適切に対応できる人間を良い大人としているからでしょう。だから、働く大人の責任ある態度というのは、いつ何時も同じ気持ち、同じ体調で淡々と仕事と向き合うこと、手を抜いたり、穴を開けたりしないこととされています。

けれども人間は生物なので、これには当然無理があるだろうと私は思います。

反論も同意もしない「話して聞く、もぐら会」

私は数ヶ月前から「もぐら会」という集まりを始めました。この会の主たる活動は、月に1度のお話会です。お話会では、1回につき平均25名ほどの参加者のみなさんが、順番にその日の体調と、自分の話したいこと、その1ヶ月に起きたことを話していくという、基本的にはただそれだけのことをやります。

誰かの話した個人的なことについて、私を含むほかの誰かが言葉を返す、反論する、同意する、励ます、応援する、というようなことはありません。とにかく、ただ聞くだけです。

この会の中で先日ある女性が、以前お子さんを妊娠したときのことを話してくれました。当時、とても忙しい職場で働いていたという彼女。妊娠したことを同僚に告げると、周囲は露骨に嫌な顔をし、身勝手だと非難され、産休に入るまでずっと、辛く当たられていたのだそうです。彼女は、お話会の中で自分の気持ちを話していく中で、あのとき自分の気持ちに蓋をしたけれど、本当はとても悲しかったんだということに、初めて気がついたのだそうです。

毎日たくさんの人と会って、会っていないときにはLINEやSNSで、ひっきりなしに言葉をかわしているのに、それでもたくさんの人が、どこか空虚な気持ちを抱えている。

なぜかと考えてみると、そこで自分と相手の深いところにある思いが、きちんとやりとりされていないせいじゃないか。空気を読んだり、受けを狙ったりもせず、ただ自分の思いを正直に話す。と同時に他人の話を、時間をかけて聞く。ただそれだけのことが、今の世の中ではあまりにもできていないのではないか。もぐら会は、ふとそんな風に思ったことがきっかけで始めました。

この思いに共感し、集まってくれたみなさんのお話を聞いていると、本当は、世の中ではもっと深刻な事態が進行しているのではないかと感じることがあります。ともすれば目の前にいる人が、そして自分自身が、生身の人間であるという前提さえ忘れさせてしまう、そんな空気がはびこっているのではないでしょうか。

本当は、昨日失恋したので今朝は起き上がれない、なんてことがあって当然で、書類にひとつ丸を書き忘れたり、逆にひとつ多く書いてしまったりすることもあって当然。そういう当たり前の人間の不完全さが、世の中ではあまりにも無視され、許容されません。月経があるため日々体調が変わりやすい女性の働きにくさもここに起因していると思います。これって、よく考えたら社会システムの致命的な欠陥ではないでしょうか。

「消えたくなったら消えてもいい」

今の社会で、会社に所属したり、誰かとチームを組んだりするということは多くの場合、少なくともその場では、面接官がOKを出した自分といつも同じ自分でいるということ、その責任を負うことです。しかし私は学生の頃からそれがどうにも苦しくて、2年前に完全に無所属になりましたが、ときに人から名指しで非難されたり、数万人に無知を晒して恥ずかしい思いをしたりするリスクを引き受けても、ひとりで仕事をするという今の形が性に合っていると感じます。

しかしそんな私が先日ひょんなことから、とあるプロジェクトのチームの一員となってしまったのです。それは、私がこれから長い人生の中で時間をかけて返していかねばと思っている、大きな恩義を感じている方からのお誘いで、願ってもないこと。さらには、心から好きな人達と一緒にやれる仕事でした。だからこそ、内心ではとても悩みました。その場ではお引き受けしたものの、好きな人、恩義のある人とやるからこそ、ますます期待に応えなければならない、同じ自分でい続けなければいけないという重い責任を感じて、怯みました。

けれども後日、誘ってくれた人がすべて見透かしたように、こんなことを仰ったのです。

「途中で消えたくなったら消えたっていいよ。そのあと気が変わったらまたいつもの顔して戻ってきたらいい。もしそんなことになっても、私達は何事もなかったように明子さんを迎えられる。そう思ったから一緒にやろうって誘ったんだよ」

この言葉で、機械の私ではなく、人間のままの私に声をかけてもらったのだということがわかって、私は本当に嬉しく、安心し、この人達とならきっと大丈夫だと思ったのです。

今の世の中で、人間が機械になることなく、脆弱性のある人間のままで働くというのは、本当に難しいことです。なぜならそのためには、ともに働く人同士が互いの弱さを認め、受け入れ合い、助け合わなければならないからです。

助け合うことについては、組織の構造を変えていくことで、ある程度までは個々人の負担を少なくしていくことができるでしょう。けれども、資本主義という大きな枠組みをそのままで、生産性第一という前提から形成された価値観を、どれだけ変えられるのかは、ちょっとわかりません。

けれども、だからこそこんな世の中に、人間が弱い人間のままでいられる場所が、できるだけ多く必要だと思うのです。会社や学校、人が多く集まって管理される場所に身を置く人ほど、できるだけ人の少ない、一人ひとりの弱さに耳を傾けてくれる場所を持って、自分の感受性を生かしておかなければならないと思うのです。