「優秀なインド人が日本から流出している」江戸川区議に初当選したよぎさんが語る在日インド人のリアル - 石川奈津美

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※この記事は2019年09月24日にBLOGOSで公開されたものです

みなさんは「インド」と聞いた時にどのようなイメージを思い浮かべるでしょうか?「カレー」「IT立国」「ガンジス川」。人によって様々なイメージを持つかもしれません。

インドの人口はいま約13億人。人口減少が深刻な問題になっている日本とは対照的に爆発的に増え続けています。2019年に国連が出した推計では、10年以内にインドの人口が中国の人口を抜きトップになると予想され、今世界で最も勢いのある国のひとつになりました。

インド人の人口は、日本国内でも増えています。在日のインド人は約3万5000人。その中でも東京都・江戸川区には全体の1割以上にあたる約4600人が住んでいます。

そんな江戸川区で今年4月に誕生したのが史上初のインド出身区議、プラニク・ヨゲンドラさん(42)です。7年前に日本国籍を取得し、今回の選挙では愛称「よぎ」で出馬。58人中5位という上位当選を果たしました。

今後も拡大が見込まれる日本におけるインド人コミュニティですが、よぎさんは「優秀なインド人の日本離れが進んでいる」と危機感を抱いています。在日インド人のリアルについて話を聞きました。

東京都内に住むインド人の数は2019年7月現在で1万2978人。その中で最も多い自治体が江戸川区です。2000年1月に221人だったその数は19年には4609人と、約20年間で20倍と激増しています。

インド人が江戸川に集まり始めてからは、インド料理などを提供する店舗も増えたほか、区内にはインド式インターナショナルスクールもできました。このスクールは「我が子をインターナショナルに育てたい」と望む日本人の親たちにも人気で、入学希望者が相次いでいるといいます。

「江戸川にリトルインディアはいらない」

メガバンクの銀行員としてもバリバリと仕事をこなしていたよぎさんが出馬を決めたのは、2016年に起きたある「事件」がきっかけでした。

それは区議会に提出されたまちづくりの案です。

その案は、リトルインディアを作るというものです。具体的には①インドの店舗が40~50くらい集まった商店街を作ること、②インドの寺院を作る、③インドの病院を作ることーーでした

西葛西をインド人が集う街としてアピールするという、一見とても理想的に見えるこのプランです。しかし、よぎさんは断固反対しました。

よぎさんはその理由をこう説明します。

「リトルインディアは、世界中どこを見わたしても成功しているところはないんですね。それに日本に来ている外国人の中でも、中国人は中華料理店などを始めるために来ている人も多いけれど、インド人はエンジニアなどIT関連で来ている人も多い。チャイナタウンを作るような意識でリトルインディアを作ろうとしても、うまくいくはずがありません。

実際に江戸川区でも、3年前に10店舗あったインド料理店は、現在7店舗に減っています。そして現在営業しているお店も、経営がうまくいっているのかというと、そうではありません。ハコだけ作っても意味がない。リトルインディアの計画は、インド人の生の声を何も聞いていないと思ったんです」。

関係者にも計画反対の意思を伝えるも、計画は変わらないとの回答。また、区長にも手紙を書きましたが返事はなかったそうです。

「署名活動など、反対運動を始めることにしました。その時、一か八かの話で『私も政治に参加できる立場、議員になってみせます、そちら側に立ってもっとうまくやってみせますよ』と伝えたのが、今回の選挙に立候補した大きなきっかけになりました」。

日本のイメージは「おしん」

よぎさんはムンバイ近くのアンバーナス出身。工場勤務の父と縫製士の母のもと、3きょうだいの2番目として育ちました。

「典型的な田舎の村で、家を出ると、牛の糞ばかり。海外についても、父はスポーツ好きだったので、テニスのウィンブルドンなどはテレビで見ていましたが、インドの外に何があるかなんて考えたこともなかったですね。日本について知っていたのは『おしん』ぐらい」と話します。

『おしん』は、1983~84年に放映されたNHK連続テレビ小説(朝ドラ)です。世界各地で人気を博し、インドでもテレビドラマとして放映され、国民的人気を集めています。

「小さい頃は『おしん』がテレビで放送されていて、姉が大ファンだったのでいつも見ていました。私はそこまでハマらなかったのでストーリーもうろ覚えですが、『日本人は見たことのない形のコップでお茶を飲んでいるな』とか、『家の中では不思議な床の上で生活しているのだな』という印象は残っています。ちなみにその不思議な床は畳だということを後になって知りました。

あとは、パナソニック製電池のCMでテレビにお相撲さんが出ていました。バッテリーの電池の名前がSUMO。『スモーみたいなパワフルなバッテリーだ』と。日本について知っていたのは、それぐらいでした。

もちろん、政治家になるなんて想像したこともありませんでした。子どもの頃の夢は科学者や研究者。1984年にインド初の宇宙飛行士が誕生したことが大きな話題だったので、私と同世代の子の幼少期の夢はみんな同じだったのではないでしょうか」。

初来日、ガラス張りの空港にびっくり

大学進学時には物理学を専攻。IT専門学校に通うかたわら、父親に勧められて副専攻として選択した日本語が、その後の人生を大きく変えることになりました。

「何気なく始めた日本語学習でしたが、自分でも理由がわからないくらい、どんどん夢中になっていきました。1996年にインド国内での日本語試験で1位を獲得。翌年、日本の外務省が主催するプログラムで1ヶ月、日本に滞在することになりました」。

初めての日本。よぎさんが到着したのは大阪・関西国際空港でした。

「出発したインド・ムンバイの空港は、当時まだ整備されていなくて、建物も汚いし設備もかなり古かったんです。ところが、いざ日本に着くことになり飛行機の窓から外を見た時に空港の姿を上空から見てびっくりしました。『海の真ん中に建物が浮かんでいて、さらにそれが全部ガラスでできている…』と。インフラの側面からのインパクトは本当に大きかったです」。

その後、99年にもう一度外務省の研修プログラムで1年間日本に滞在したよぎさん。2001年には日本語の能力を認められ東京駐在が決まり、プライベートでも結婚しましたが、予期せぬ事態が起こりました。

「都内で電車に乗っていたところ1999年に参加した研修プログラムの同級生だった中国人の元妻とばったり再会。結婚しすぐに彼女は妊娠しました。ただ、出産のタイミングで精神的に病んでしまって…。息子を産んでから1週間で『国に帰りたい』と訴え、9日目には私と息子を置いて中国へ帰って行ってしまいました」

突然のシングルファーザー生活が始まったよぎさん。その後、インドに帰国し、一時期働くも、2003年に仕事の都合で再び来日し、2005年からは知人に勧められインド人コミュニティが出来上がりつつあった江戸川区西葛西に住むことを決めました。

しかし、そこでよぎさんが目にしたのはインド人と日本人の対立でした。

外国人が捨てたゴミ袋を分別する日本人

「当時西葛西に住んでいたインド人コミュニティは300~400人程度で現在の2000人と比べるとかなり少ないですが、日本人からかなり嫌われていましたね。最初は西葛西に住むことにためらいもあったし、正直その群れに入りたくないと思っていました。

ただ、それまで住んでいた場所と比べると、子どもが遊べる公園や遊具が充実していたり、公園から出てもすぐに大通りに面していなかったりと、息子を安心して育てられる環境と考えると本当にすばらしい場所ということもあり、引っ越すことにしたんです」。

引っ越しを終えてからしばらく経った頃、地元の夏祭りの手伝いをしていたよぎさんに、日本人から相談が寄せられました。

「地元の方たちとすごく仲良くなったんですね。すると、彼らから『インド人たちにちょっと近づきたいんだよね』と打ち明けられたんです」。

「話を聞くと、ゴミ問題に苦労していて、解決したいということでした。自治会の人たちが朝、ゴミ収集車が来る前に、外国人が出していそうなゴミ袋を開けて、分別してからもう一度捨てている。本当に申し訳ないなと思いました。

ただ、僕らは生まれてから日本に来るまで、ゴミ分別なんてしたことはないんですね。インドではゴミ分別という概念はありません。ゴミはゴミで全部同じですし、捨てる場所も決まっていません」。

また住んでいた団地では、インド人に対する日本人からのクレームが絶えなかったといいます。日本語が堪能なよぎさんが仲裁に入ると、あることがわかってきたそうです。

「両者から話を聞くと、上の階に住むインド人の子どもが走り回る音がうるさいという苦情でした。一方、インド人側としては『子どもが家の中でずっと座っているなんてあり得ない』と主張していました。

日本では防音マットを敷くことが当然のマナーになっていますが、インド人たちは防音マットという商品があることすらわかっていなかったんですね。『知らない』ということが一番大きな問題だと思い、研修プログラムをやらなきゃいけないなと思ったんです」

よぎさんは、英語版のゴミ分別チラシを作りあちこちのゴミ収集所に設置するなど橋渡しとして活躍。自治会の副会長にも就任し、夏祭りでインドの伝統芸能のプログラムを行ったり、インド料理の屋台を増やすなど、日本人とインド人の交流の機会を少しずつ設けていきました。

震災でインド人の半数が帰国、そして帰化を決意

徐々にインド人と日本人の共生が進む中で、コミュニティが崩壊しかねない危機が訪れました。2011年、東日本大震災です。

外国の大使館の中には機能ごと国外に移したり、自国民の渡航用の飛行機を政府が用意したりするなど、外国人の出国が相次ぎました。よぎさんは話します。

「当時『日本は問題が起こっているのにそれを隠している』というのがもっぱらの噂でしたし、原発大国のフランスなどの政府の対応を見ていても本当に危ないんじゃないと、外国人はみんなやっぱり逃げるべきという雰囲気だったんです。インド人も約半数が国外退去し、西葛西で私が住んでいた団地はガラガラでした。それに、出て行ったのは外国人だけではなく日本人も。岡山など、西日本に避難した人たちもたくさんいました。

でも、私は不思議とインドに帰ろうとは思わなかったんです。震災当日の夜から自治会の有志ボランティアで団地を回って、困っていることはないかと聞いたり、東北の被災地支援へボランティアに行ったりしていました。その時、帰化することは自然なことかなと思うようになったんです」。

同年、書類の手続きを始め、2012年によぎさんは日本国籍を取得しました。

「日本生まれの優秀なインド人」は海外に流出している

今年4月の選挙当日、当選確実が伝えられると、よぎさんの元には在日インド大使から直接電話がきたそうです。

「大使からは、おめでとうございます、インドの国のイメージを背負いますから責任感を持って頑張ってくださいと伝えられました。改めて今回の当選は、インドと日本の国レベルにおいても、これまでになかったことなのだと実感しています」。

入管法も改正され、今後も国内に住む多くの在日外国人がよぎさんのように政治に参画することの重要性が増してくるかもしれません。

一方、よぎさんは「優秀なインド人の日本離れが進んでいます」と危機感を抱いているといいます。

「インド人が、『日本で働いて仕送りを送り、老後は母国に帰る』という時代ではなくなってきました。

うちの息子は日本の学校に通わせたのですが、中学の時に先生からいじめを受けました。私は彼をイギリスの学校に転入させて、彼は今もイギリスに住んでいます。

また、いま、日本人から人気を集めている、インド系スクールに通う子どもたちは卒業後どこを目指すと思いますか?彼らは非常に優秀ですが、みんなインドや欧米の大学に進学しています。せっかく日本に来たのに。こうして、もうすでに日本から優秀な頭脳の逆流出が発生しています」。

「20年前、私たちのようなITテクノロジーの知識に長けたインド人がより良い環境を求め、国から流出して来日しました。それはインドが抱える悩みです。ただ、インドは人口が多く、人材もたくさんいるので、そこまで困ることではありません。

でも日本の場合人口は減少傾向にあります。そんな中で、こうして日本に定着した私たちの次の世代のインド人が、次にまた海外に出て行ってしまうということは、日本にとって大損だと思います。

日本人にとっては難なくこなせることも、外国人にとっては大きな課題になることがまだまだたくさんあります。暮らしやすくして良い街にしていくことはそうした人材を引き止めることにもつながりますし、また海外からも優秀な人材が集まってくる要因にもなり得ます。

そうした生の声を、外国出身政治家だからわかる視点で、議会に届けていきたいと思っています」。