美食家にもほどがある!奈良時代の最高権力者「長屋王(ながやおう)」は超絶グルメ

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長屋王は奈良時代の「美食王」!?

奈良時代初頭の最高権力者であった「長屋王(ながやおう/ながやのおおきみ)」。彼は、中央集権国家としての律令制を維持するために、教科書にも登場する三世一身(さんぜいっしん)法などの思い切った政策を実施したやり手の政治家でもありました。

天武天皇の孫にして、藤原不比等の死後に就いた役職は最高位の左大臣。皇親勢力の巨頭として政権を担当し、政界の重鎮と言ってもいい存在だったのです。

で、その長屋王は、実は日本史上まれに見るほどの美食家でした。

そのことが判明したのは、1988年のことでした。発掘調査が行われていたデパート建設予定地で、長屋王の邸宅跡が発見されたのです。

その邸宅の面積は六万平方メートルにもおよび、正殿が内裏正殿に匹敵する構造を持つなど、かなり広大なものでした。

そして、その跡地からは大量の木簡(字句などを書き記した木の札)が見つかりました。その数たるや約10万点。そこには、長屋王邸の調理場に各地から届けられた、さまざまな食材が記されていたのです。

そこから窺い知れる産地は三十か所以上にのぼり、全国の名産品・特産品が、王家のゴージャスかつグルメな食生活をまかなっていたことが分かります。

その一部をご紹介しますと、アワビ、タイの塩辛、ナマコ、ホヤ、カツオ、アユの煮干し、酢でしめた早鮨のアユ、シカやイノシシの肉(今で言う「ジビエ」ですね)、クリ、カキ、ウリ類、ナシ、ナス、モモ……。食材だけを見ても、現代の豊かな食生活に決して引けを取らないラインナップです。

また、鴨肉を塩と米飯に漬け込んで、乳酸発酵させた珍味もあったようです。

さらにお酒の飲み方も凝っています。当時の酒は、「須弥酒」と呼ばれる澄んだ酒が多かったようですが、夏には氷を浮かべてオンザロック。甘酒は氷片を用いる場合もありました。長屋王の邸宅では専用の氷室を持っており、夏でも氷を使えたのです。

「牛乳持参人米七合 五勺」と記された木簡もあり、これは「牛乳を持参してきた者に米を七合五勺与えるように」という意味です。長屋王は生の牛乳を飲みつつ、人々に米を分け与えていました。

また牛乳については「牛乳煎人」という木簡も見つかっており、牛乳は煮沸殺菌してから飲用していたか、または煮つめて、古代の日本で加熱濃縮系列の乳加工食品として作られていたとされる「蘇」を作っていた可能性も考えられます。

木簡の中には、「長屋親王宮鮑大贄十編」と記されたものもありました。ここにある「鮑」はアワビのことで、「大贄」は朝廷への献上品を意味しています。おそらく、邸宅に届けられたアワビの荷につけられていた荷札だったのでしょう。ここからも、長屋王の権勢の強さがよく分かります。

現代にも通じる古代のグルメ、そして…

長屋王の贅沢ぶりは、もしかしたら突出した例なのかも知れません。しかしそれにしても、これが当時の豪奢さの一例だと考えると、天平貴族たちの食生活についてもイメージが拡がりますね。

古代日本の食生活……などと聞くと、私たちはどうしても「貧しい」食生活を思い浮かべてしまうのではないでしょうか。

確かに当時は、現代に比べれば食材の物流方法や保存方法も頼りないものだったでしょうし、調理法も限られていたでしょう。食べ方の選択肢は、今よりもずっと少なかったに違いありません。

その意味では、当時の食生活は今から見れば貧しかったと言えます。

しかし、長屋王の好んで食べていた上記の食材を見ると、令和の時代に生きる私たちも「チャンスがあれば通販で取り寄せて食べたい!」と思うものばかりです。

しかも当時のこういった食材は、保存方法に限界があった以上、すべて「旬のもの」だったはずで、これは羨ましい限りです。

その点を考えてみると、日本人がどんな食材を「美味しい」と感じるかは、古代も現代も大きな差はないように思われます。

現代に生きる私たちは、古代の人に比べればたくさんの美味しい食材やレシピを知っていますが、少なくとも長屋王や当時の貴族たちは、そのうちの大部分を既に知識として知っていたのですから。

ところで長屋王は、周知のように、国家反逆の罪に問われて天平元(729)年の「長屋王の変」で一族ともども自殺に追い込まれます。これは、当時最高の対抗勢力だった藤原氏による陰謀と見られています。

長屋王の生前の豪奢な暮らしぶりとその最期を比べると、『平家物語』の時代はまだまだ先だというのに「諸行無常」という言葉について考えずにはいられません。

参考資料
永山久夫『イラスト版たべもの日本史』(1998年・河出書房新社)
県民だより奈良 2013年2月号掲載『第15回奈良の歴史散歩』