各世論調査によれば、9割近い国民が中止、あるいは再延期を望んでいるとされる東京五輪。英国ではこのように報じられていますーー等々、開催について、自分たちの意見をなかなか口にしようとしなかった日本の大手メディアも、ここに来て舵を否定的な方向に切り始めている。

 前回のこの欄でも述べたが、筆者はスポーツライターを名乗るにもかかわらず、当初から東京開催に前向きでなかった。

 五輪好きを自負するものの、日本人は必ずしもスポーツ好きではない。普段から五輪競技に特別、高い関心を示しているわけではない。陸上、水泳、体操という五輪本大会を支える3本柱と言いたくなる人気種目でさえ、日本選手権が行われるそれぞれのスタンドは空席が目立つ。目に付くのは関係者や家族。純粋な陸上ファン、水泳ファン、体操ファンは、こう言ってはなんだが、数えるほどだ。国技と言われる柔道も例外ではない。

 日本は、スポーツへの関心の幅が狭い国なのだ。そうではない国は、世界には実際いくらでもある。五輪はそうしたスポーツ熱が高い国で開催されるべき。東京開催が決まった瞬間、世界のスポーツ好きに対して申し訳ない気持ちになった。

 開催するからには、これを機にスポーツ好きの絶対数を増やし、五輪競技をマイナースポーツでなくす必要がある。毎年行われる陸上なら陸上の日本選手権のスタンドを満員にすることが、日本国民に課せられた使命ではないかと勝手に思っていた。

 五輪が自国で開催される利点は何かといえば、試合現場に直接に足を運び、生観戦する可能性が膨らむことだ。国立競技場のスタンドで、陸上競技を観戦したとする。着席する座席シートからの眺望は、その人だけのものだ。同じ眺めの人はいない。独り占めしている状態だ。唯一無二のまさしくオリジナルな視角であり視界。これほど貴重なものはない。そこで世界記録が誕生したり、名勝負を拝むことになれば、人生の宝物になる。

 バックスタンドで見たのか、正面スタンドで見たのか、ゴール裏で見たのか、スタンドの上の階で見たのか、下の階で見たのか。見え方は、見た場所によって全然違うので、そこで抱く印象はその人の固有のモノになる。

 映画館で見る映画とは違う。映画館でも見る場所によって、多少スクリーンの見え方は異なるが、言ってみれば観戦者全員が、正面スタンドから眺めているようなものだ。眺める方向はだいたい決まっている。

 スポーツのお茶の間観戦にも同じことが言える。その時、五輪を観戦していた地球上のたとえば5億人は、同じ映像を見させられているわけだ。感激、感動はするかもしれないが映画的。独自の視界が広がっているわけではない。

 サッカーのW杯は、多い日で1日4試合行われる。しかし、現場で観戦可能なのは1試合のみ。どの会場に出かけていくべきか、選択を強いられることになる。毎日、「当たり」の試合に遭遇するわけではない。生観戦した試合が大外れの凡戦で、一方、他会場で行われた試合が大当たりの名勝負になることはありがちな話だ。その時は、地団駄を踏んで悔しがりたくなる。

 お茶の間観戦には、そうした意味での見逃しがない。

 五輪観戦しかり。筆者は現地観戦した際に、1日最大4会場を訪れたことがある。朝、昼、夕方、夜と会場を転々とながら観戦したのだが、それでも見逃しはいくらでもした。日本人選手が金メダルを獲得しても、その場にいないことはザラだった。

 テレビ画面に一日中かじり付いていれば、それはない。日本人の金メダル獲得シーンを見逃すことは、ほぼゼロだ。画面は次々に、他の会場へと切り替わっていく。現場に出向き、生観戦するより、お茶の間観戦の方が五輪を楽しめそうな気にさえなる。