“ミスター神戸”の永島氏が引退試合についてのエピソードを語ってくれた。写真:金子拓弥(サッカーダイジェスト写真部)

写真拡大 (全4枚)

 コロナ禍の影響でJリーグは依然として中断が続き、まだ再開の目途は立っていない。そんななか、試合が見られずに退屈しているファンのために、「DAZN」では「Re-Live」と称して過去の名勝負を放送中だ。現在配信中の自身の引退試合(2000年のJ1セカンドステージ最終節:神戸vs京都)で解説を務めた“ミスター神戸”こと永島昭浩氏に、ヴィッセル移籍の経緯、引退を決断した理由、そしてラストマッチのエピソードなどを伺った。

―――◆――◆―――

――Jリーグ開幕して1年でガンバ大阪から清水エスパルスへ移籍した理由は?

「まだノンプロ時代の昭和58年に松下電器に入社して、『いつかこのチームを世界一のプロチームに』という思いでやっていました。Jリーグが開幕した時には、その後まさか自分がガンバから移籍するなんて、思ってもみませんでした。ただ、エスパルスが熱心に誘ってくれて、自分もまだ若かったので、新たな挑戦のほうに魅力を感じました。いま振り返ると、カズ(三浦知良)と一緒に露出をして、Jリーグを盛り上げていく立場だったので、リーグ全体のことを考えていれば、移籍はしなかったかもしれません。自分の事だけを考えて決断してしまい、若気の至りでした」

――清水で2年目の1995年シーズン途中に当時JFL(2部相当)の神戸へ。スター選手が下部リーグへ移籍することに、驚く声も少なくありませんでした。

「ヴィッセルは95年の1月に発足したんですが、実はそれに合わせてオファーをいただいていたんです。新しいチームを作りたいので力を貸してほしいと。故郷の神戸のチームだったので、個人的には前向きだったのですが、エスパルスはJFLのチームに出すわけにはいかないということで、一度お断りしたんです。ただその後、ヴィッセルの始動日でもあった1月17日に阪神大震災が起きた。僕の実家も全壊しました。幸い両親は無事だったんですが、ボランティアなどを経験する中で、自分は他に何が出来るんだろうとずっと考えていました」
 
――それで移籍を決断したわけですね。

「エスパルスでの2年目がスタートしていたんですが、ヴィッセルはスポンサーのダイエーが撤退し、どうなるのだろうと気になっていました。それでも、Jリーグ入りを目指して頑張るという話を聞いて、ヴィッセル関係者の覚悟を感じました。そして、再度オファーをいただき、エスパルスも『永島の意志に任せる』と言ってくれたので、移籍を決断しました。周りが言うほど、下のカテゴリーでプレーすることに抵抗はなかったですね」

――年俸も大幅に下がったのでは?

「まずガンバからエスパルスに移籍する時、実は当時のエスパルスの社長が大阪まで来ていただき、『いまの年俸の2倍を出す』と言ってくれたんです。ただ、『お金で移籍した』と言われるには嫌でしたし、自分の生き方としも違うと思ったので、『ガンバと同じで構わない』とお断りしました。なので、ヴィッセルに行く時も条件面は二の次でした」
 
――実際に移籍してみて、神戸はどんなチームでしたか?

「当時はまだ練習場がなかったんです。練習が終わった時に『明日はここでやります』というのが日常茶飯事で、公園や学校の校庭を借りてやっていました。もちろん、ロッカールームもシャワーもないし、階段などで着替えてましたね。でも、全く苦じゃなかった」

――それはなぜですか?

「エスパルス時代も、マイクロバスで1時間ぐらいかけて河川敷に行って、練習する時があったんです。雨の日なんてドロドロになるんですが、シャワーはないので、そのままバスに乗って。エスパルスも新しいチームだったんで、そういう事情の中で、スタッフの方が本当に一生懸命やってくれていた。それを経験していましたし、ましてや震災でもっと大変な思いをしている人のことを考えれば、全く問題なかったですね」