10世紀はじめに唐がほろぶと、中国は分裂の時代へ。その間に北方民族が勢力を広げました。世界を席巻したモンゴル帝国誕生の前夜、遼や西夏、金といった諸国家の興亡をみていきます。

インフォグラフィックで「北方諸民族の活動(前)」〜『新 もういちど読む山川世界史』より〜

遼と西夏10世紀は中国の変革期であったばかりでなく,東アジア全体の形勢の転換期でもあった。



周辺の諸民族は,唐の刺激をうけて文化的に向上し,
民族意識にめざめて独立しはじめたが,
とくにモンゴル高原と中国東北からは
強い勢力があらわれ,
一時期をのぞき,20世紀初めまで,
中国内地の一部,または全部を支配した。


モンゴル高原では9世紀なかごろウイグルが分散し,
トルコ系民族の勢いが弱まると,
遼河の上流で遊牧していた
契丹人が勢力を強め,
10世紀初め遼(916〜1125年)をたてた。



遼はモンゴル高原をおさえて,
渤海をほろぼし(926年),
華北の一部(燕雲十六州,現在の北京周辺)を
領有して大勢力となった。



遼は北方の狩猟・遊牧民には
固有の部族制を,
漢人などの農耕民には
州県制を用い,
二重の体系で統治した。



また独自の契丹文字をつくり,
民族意識を高めた反面,



中国文化をとりいれ,
仏教を尊崇して『大蔵経』の
印刷までおこなった。



しかし11世紀末にはおとろえ,
宋と結んだ金にほろぼされた
(1125年)。

11世紀前半には,
中国西北の寧夏地方に
チベット系のタングートが
独立して西夏
(1038〜1227年)
をたてた。



西夏は小国ながら,
宋と遼の対立を利用して勢力を保ち,
東西陸上貿易の要路をおさえて,
経済的利益をあげた。



また中国の文化・制度を採用し,
西夏文字をつくり,
仏教をさかんにしたが,
13世紀にモンゴル帝国にほろぼされた。
金の盛衰

中国東北に住み,
おもに狩猟をいとなんでいた
ツングース系の女真は,
遼の支配をうけていたが,



12世紀初め
その一部族長が統一して
金(1115〜1234年)をたてた。
金は宋と同盟して遼をほろぼすと,



華北に侵入して宋の首都を占領し,
宋を江南に追いやった。



金は女真文字をつくり,
はじめ原住地に本拠をおいていたが,
やがて華北に進出し,中国化していった。
金の治下の華北では
儒教・仏教・道教の三教を
調和した全真教がおこった。
12世紀末ころから
金は国力がおとろえ,
モンゴル帝国にほろぼされた(1234年)。

関連用語

契丹(きったん)

10世紀初めに遼を建てたモンゴル系民族。8世紀前半のオルホン碑文にはキタイKitai,8世紀中頃のウイグル碑文では複数形のキタンKitanの名でみえる。4世紀以来,東モンゴルのシラ・ムレン川の流域で遊牧し,突厥(とっけつ)・ウイグル・高句麗・中国に隷属していたが,10世紀初めに隣接諸部族を征服し,中国北辺を領有して大契丹国を建て,のち遼と改めて2世紀にわたって君臨した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

西夏(せいか)

Xixia 1038〜1227 チベット系タングートが中国西北部に建てた国の宋での呼び名。タングートは9世紀の初めオルドスの夏州を中心に強力となり,黄巣(こうそう)の乱を討った功績で唐から李姓を与えられた。その子孫の李継遷(りけいせん)は霊州を宋から奪って(1002年),西方に拡大した。さらに李元昊(りげんこう)は河西方面を攻略して内陸東西交易路を抑え,皇帝となって(1038年)国号を大夏(たいか)とし,都を興慶府(こうけいふ)(銀川)とした。宋と戦ったあとに和議を結び,宋に臣下の礼をとる一方,宋から毎年絹,銀,茶を贈られることになった(1044年)。契丹(きったん)に代わって金が華北に進出すると,これに服属しながらも貿易実利を優先させた。しかしチンギス・カンのたび重なる攻撃を受け,1227年に滅亡した。中国文化の影響を受けたが,仏教文化を基調とする独自の文化を発達させ,西夏文字をつくった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

女真(じょしん)

女直(じょちょく)とも。10世紀後半から17世紀初期まで中国東北部からアムール川流域,沿海州にかけての地域に現れた集団。女真・女直は自称の一つJurchinの宛字ともいわれる。言語は残された文字資料(女真文字)の研究から満州・ツングース諸語の一つで,満州語の祖語的な存在であることが知られている。12世紀には彼らが建てた金王朝が中国の北半分を支配し,17世紀から20世紀初めまで清王朝が中国全土を支配した。清朝の成立とともに,女真にかわってマンジュ(満州,あるいは満珠)という呼称が採用され,女真・女直の名は歴史から姿を消した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

金(きん)

Jin 1115〜1234 トゥングース系の女真(じょしん)人が,1115年東北アジアに統一政権を立て,やがて南下して中国華北を支配した征服王朝。太祖阿骨打(アグダ)は反遼の民族意識を巧みに用いて統一し,対内的には女真的な勃極烈(ボギレ)制(最高機関),猛安(もうあん)・謀克(ぼうこく)制(軍事・行政制)を定め,対外的には遼を滅ぼした。その後,金は華北に侵入して北宋を滅ぼし,秦嶺(しんれい)‐淮水(わいすい)の線で南宋と対峙したが,華北の領有によって二重支配の必要に迫られた。海陵王時代に急進的な中国化が行われ,燕京(えんけい)に遷都し,尚書省のもとに六部(りくぶ)を置いて支配する中央集権制を樹立した。また地方統治には,19の路のもとに州県を置く州県制を採用した。これにより,華北では猛安・謀克制に組織された女真人と,州県制により統治される漢人が雑居するようになった。やがて中国化に伴う女真人の弱体化,戦争による財政危機は衰亡をもたらし,モンゴル帝国,南宋の攻撃で1234年滅亡した。金は国粋化を図って女真文字をつくったが,むしろ中国文化の影響を強く受け,漢文学が流行した。また『大蔵経』(だいぞうきょう)『道蔵』(どうぞう)が刊行され,新道教教団の全真教が興起した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)