[中世中国の歴史4]中国の分裂と北方民族の活躍〜インフォグラフィックで、もういちど読む山川世界史 Vol.12〜
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10世紀はじめに唐がほろぶと、中国は分裂の時代へ。その間に北方民族が勢力を広げました。世界を席巻したモンゴル帝国誕生の前夜、遼や西夏、金といった諸国家の興亡をみていきます。
インフォグラフィックで「北方諸民族の活動(前)」〜『新 もういちど読む山川世界史』より〜
遼と西夏10世紀は中国の変革期であったばかりでなく,東アジア全体の形勢の転換期でもあった。![](https://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/d/4/d469c_1723_3077b8478207982fa693a12ad3b26e12.png)
周辺の諸民族は,唐の刺激をうけて文化的に向上し,
民族意識にめざめて独立しはじめたが,
とくにモンゴル高原と中国東北からは
強い勢力があらわれ,
一時期をのぞき,20世紀初めまで,
中国内地の一部,または全部を支配した。
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モンゴル高原では9世紀なかごろウイグルが分散し,
トルコ系民族の勢いが弱まると,
遼河の上流で遊牧していた
契丹人が勢力を強め,
10世紀初め遼(916〜1125年)をたてた。
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遼はモンゴル高原をおさえて,
渤海をほろぼし(926年),
華北の一部(燕雲十六州,現在の北京周辺)を
領有して大勢力となった。
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遼は北方の狩猟・遊牧民には
固有の部族制を,
漢人などの農耕民には
州県制を用い,
二重の体系で統治した。
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また独自の契丹文字をつくり,
民族意識を高めた反面,
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中国文化をとりいれ,
仏教を尊崇して『大蔵経』の
印刷までおこなった。
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しかし11世紀末にはおとろえ,
宋と結んだ金にほろぼされた
(1125年)。
11世紀前半には,
中国西北の寧夏地方に
チベット系のタングートが
独立して西夏
(1038〜1227年)
をたてた。
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西夏は小国ながら,
宋と遼の対立を利用して勢力を保ち,
東西陸上貿易の要路をおさえて,
経済的利益をあげた。
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また中国の文化・制度を採用し,
西夏文字をつくり,
仏教をさかんにしたが,
13世紀にモンゴル帝国にほろぼされた。
金の盛衰
中国東北に住み,
おもに狩猟をいとなんでいた
ツングース系の女真は,
遼の支配をうけていたが,
12世紀初め
その一部族長が統一して
金(1115〜1234年)をたてた。
金は宋と同盟して遼をほろぼすと,
華北に侵入して宋の首都を占領し,
宋を江南に追いやった。
金は女真文字をつくり,
はじめ原住地に本拠をおいていたが,
やがて華北に進出し,中国化していった。
金の治下の華北では
儒教・仏教・道教の三教を
調和した全真教がおこった。
12世紀末ころから
金は国力がおとろえ,
モンゴル帝国にほろぼされた(1234年)。
関連用語
契丹(きったん)
10世紀初めに遼を建てたモンゴル系民族。8世紀前半のオルホン碑文にはキタイKitai,8世紀中頃のウイグル碑文では複数形のキタンKitanの名でみえる。4世紀以来,東モンゴルのシラ・ムレン川の流域で遊牧し,突厥(とっけつ)・ウイグル・高句麗・中国に隷属していたが,10世紀初めに隣接諸部族を征服し,中国北辺を領有して大契丹国を建て,のち遼と改めて2世紀にわたって君臨した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
西夏(せいか)Xixia 1038〜1227 チベット系タングートが中国西北部に建てた国の宋での呼び名。タングートは9世紀の初めオルドスの夏州を中心に強力となり,黄巣(こうそう)の乱を討った功績で唐から李姓を与えられた。その子孫の李継遷(りけいせん)は霊州を宋から奪って(1002年),西方に拡大した。さらに李元昊(りげんこう)は河西方面を攻略して内陸東西交易路を抑え,皇帝となって(1038年)国号を大夏(たいか)とし,都を興慶府(こうけいふ)(銀川)とした。宋と戦ったあとに和議を結び,宋に臣下の礼をとる一方,宋から毎年絹,銀,茶を贈られることになった(1044年)。契丹(きったん)に代わって金が華北に進出すると,これに服属しながらも貿易実利を優先させた。しかしチンギス・カンのたび重なる攻撃を受け,1227年に滅亡した。中国文化の影響を受けたが,仏教文化を基調とする独自の文化を発達させ,西夏文字をつくった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
女真(じょしん)女直(じょちょく)とも。10世紀後半から17世紀初期まで中国東北部からアムール川流域,沿海州にかけての地域に現れた集団。女真・女直は自称の一つJurchinの宛字ともいわれる。言語は残された文字資料(女真文字)の研究から満州・ツングース諸語の一つで,満州語の祖語的な存在であることが知られている。12世紀には彼らが建てた金王朝が中国の北半分を支配し,17世紀から20世紀初めまで清王朝が中国全土を支配した。清朝の成立とともに,女真にかわってマンジュ(満州,あるいは満珠)という呼称が採用され,女真・女直の名は歴史から姿を消した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
金(きん)Jin 1115〜1234 トゥングース系の女真(じょしん)人が,1115年東北アジアに統一政権を立て,やがて南下して中国華北を支配した征服王朝。太祖阿骨打(アグダ)は反遼の民族意識を巧みに用いて統一し,対内的には女真的な勃極烈(ボギレ)制(最高機関),猛安(もうあん)・謀克(ぼうこく)制(軍事・行政制)を定め,対外的には遼を滅ぼした。その後,金は華北に侵入して北宋を滅ぼし,秦嶺(しんれい)‐淮水(わいすい)の線で南宋と対峙したが,華北の領有によって二重支配の必要に迫られた。海陵王時代に急進的な中国化が行われ,燕京(えんけい)に遷都し,尚書省のもとに六部(りくぶ)を置いて支配する中央集権制を樹立した。また地方統治には,19の路のもとに州県を置く州県制を採用した。これにより,華北では猛安・謀克制に組織された女真人と,州県制により統治される漢人が雑居するようになった。やがて中国化に伴う女真人の弱体化,戦争による財政危機は衰亡をもたらし,モンゴル帝国,南宋の攻撃で1234年滅亡した。金は国粋化を図って女真文字をつくったが,むしろ中国文化の影響を強く受け,漢文学が流行した。また『大蔵経』(だいぞうきょう)『道蔵』(どうぞう)が刊行され,新道教教団の全真教が興起した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)