織田信長の残虐性を表す逸話「比叡山焼き討ち」実はそんなに酷い被害を被ったわけではなかった?

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織田信長の残虐性を表す逸話の一つとして伝えられているのが、比叡山焼き討ち。堂塔坊舎が燃やされ、3000人ほどが虐殺されたといわれていますが、近年の発掘調査などによって、そんなに大規模な焼き討ちではなかったと考えられてきました。

延暦寺 根本中堂 (Wikipediaより)

1981年に滋賀県教育委員会が行った調査によると、大規模な火事があったのにも関わらず、焦土の跡や人骨など物的証拠が見つからなかったとされています。さらに焼き討ちされる前年に残された記録によれば、当時の僧侶たちは堕落しており、堂塔も坊舎も信長が焼き討ちにかける頃までにはすでに荒れ果てていたといいます。

1571年、浅井・朝倉両氏を匿っていた比叡山延暦寺に対し、業を煮やした信長は焼き討ちを開始。ところがそのとき、比叡山にはまともな僧侶がおらず、権威だけが残っていました。

そんな有様を見た信長は、比叡山の麓にある坂本という町の襲撃を決断。坂本は比叡山を降りた僧侶たちが仏教の教えを盾に住民たちを支配しており、信長はそんな僧侶たちを虐殺し、建物に火をつけたのでしょう。

信長としては、反逆者を成敗するという見せしめの行為だったのが、話が広まるにつれ尾ひれがつき、大げさになっていたのだと考えられます。つまり、比叡山の焼き討ちは確かに存在しましたが、従来言われていたものよりずっと小規模なものだったのです。

さらに、比叡山延暦寺にとって武士との抗争は信長が初めてではなく、信長の前に過去に2回も武士の攻撃にあい、主要な建物が焼失する事件が発生しています。

延暦寺を最初に攻略し、支配しようとしたのが室町幕府の6代将軍・足利義教(よしのり)。また、1499年になると、今度は室町幕府の管領(将軍の補佐役)・細川政元によって焼き討ちされる事件が発生します。

かつて比叡山は多くの僧兵を抱える武装勢力でもあり、桓武天皇から信奉された開祖・最澄(さいちょう)や、その後に続いた名僧たちの威光をもって、朝廷や幕府の政治に影響を与えられるだけの力を持った世俗権力を誇っていたのです。

根本中堂と回廊(Wikipediaより)

信長によって焼き討ちがなされた延暦寺ですが、信長は焼き討ちの後、再建も許さなかったため、その後しばらくの間は延暦寺は荒廃した状態で放置されることになりました。

その後、延暦寺の僧たちは、信長に代わって天下人となった豊臣秀吉や、徳川家康に接近しながら、武士との関係を改善していくことになります。そうしてようやく徳川幕府の3代将軍・家光によって根本中堂の再建が許されました。江戸幕府はでは寺院を全て幕府の統制下に置き、好き勝手できないよう制御したため、以後の延暦寺は次第に影響力を弱めていきました。

参考:

兼康保明「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」(1981 『滋賀考古学論叢』第1集)比叡山延暦寺/公式ホームページ