「アニ(田中のこと)は越後の出稼ぎだでなァ。国のために東京に働きに行って、意見をくれてるんでございますだ。しくじったら、いつでも帰って来いや。おらは、それまでの留守番だ」

 昭和47(1972)年7月5日、田中角栄が自民党総裁に選出された日、田中の母・フメはメディア、地元の田中支持者でごった返す新潟県刈羽郡西山町の総ヒノキ造りの実家で、こう呟いたものだ。「今太閤」誕生と湧き上がるのとは裏腹に、「浮かれたところは微塵もなかった」と、筆者はこのときの状況をのちに地元記者から聞いた。豪雪の越後で「辛抱」とともに生きた女の、“人生訓”がうかがえたのであった。

 政治家となった田中に対し、フメは一貫して、こうした姿勢を崩すことがなかった。息子が出世していく姿を母親の感慨で受け止めながらも、一方でその立ち居振る舞いには冷静だったということでもある。

 例えば、昭和32(1957)年7月、田中が岸信介首相の内閣改造で、時に39歳、尾崎行雄(咢堂)以来、30代で郵政大臣に就任したときも、また同様であった。「おらが大臣」の誕生に、新潟の支持者は歓喜の声を上げ、大挙して東京・目白の田中邸へ駆けつけての祝賀会が行われた。やはり上京したフメは、「みなさんのおかげで大臣にしてもらって…」と短いあいさつをしたあとは、人前から姿を隠すように、裏方として台所での料理づくりなどに徹したものだった。

 そしての天下盗り、自民党総裁選で福田赳夫を制しての勝利であった。総裁選の模様は、NHKをはじめ民放テレビで全国に同時放送された。新潟の実家で、結果を見守るフメの姿も映し出された。

 このときの模様を、当時、田中の秘書だった早坂茂三は次のように記している。フメの母親としての高ぶりが伝わってくるのである。

 「西山町の田中邸で、新総理の顔がテレビにクローズアップされる。汗、汗、汗。田中の顔にとめどなく汗が滴り落ちて、精悍な新指導者が目をしばたかせている。

 角栄の母フメさんは、羽織紋付きでテレビの真ん前に正座していた。倅の顔を凝視したが、汗びっしょりである。フメさんは黙って袂から日本手拭いを取り出し、画面に映る息子の汗を拭きはじめた。部屋に溢れた人たちは、初め笑い出した。ところが、女衆を皮切りに無遠慮な笑いは、しのび泣き、すすり泣きに変わっていった」(『男たちの履歴書』クレスト社)

 その直後の『文藝春秋』9月号に掲載された「角栄よ デカいこというでねぇ」と題するインタビュー記事では「総理大臣がなんぼ偉かろうが、あれは出稼ぎでござんしてね」と、冷静な“息子観”を取り戻したものである。

 また、田中内閣ができて、初のお国入りのときも同様だった。田中は田中番記者らと2台のヘリコプターに分乗、出身校である西山町の二田小学校の校庭に降りた。歓迎の小旗を振る黒山の人の前で、小さな木箱に乗った田中のあいさつが始まった。

 「総理大臣になると、なかなか帰って来られません。ばあさんでも、死んだときでないと…」

 「ばあさん」とされたフメは、この田中の声を羽織紋付き姿で、教室のガラス戸のうしろで聴いていたそうである。地元記者が言っていた。

「息子に真っ先に会いたいだろうが、あえて人前には出なかった。子供たちを引率してきた先生たちに、丁寧におじぎをして見送っている姿が印象的だった。いかにも“明治の母”らしく、控え目で凛としていた」

★イワシで弔った母の死

 しかし、田中の天下に陰りが出るのは早かった。金脈・女性問題を引き金の首相退陣、追い討ちをかけるようなロッキード事件の発覚、そして逮捕であった。

 フメの心痛は、相当のようであった。周囲への気配りにたけていたフメだったが、この頃は人目を避けるように外出も控えていた。そして、ついには次のような言葉も口にしたのだった。