上原 忠(沖縄水産)という野球人の生き方【前編】〜具体的な目標を立て行動した学生時代〜

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栽弘義との出会い練習中の様子

 上原 忠(沖縄水産監督)と故・栽 弘義の出会いは運命的だった。

 1975年当時栽は指導者として、豊見城を率いて甲子園出場を果たした。チームはベスト8まで勝ち上がり、準々決勝で原 辰徳擁する東海大相模にサヨナラ負けを喫した。その様子を憧れの眼差しで見ていたのが、当時小学生だった上原だ。

 「当時ベスト8なんと言うと沖縄中がひっくり返るような事態でした。本当に裁先生の豊見城高校の野球を見て感動して、高校まで野球を見に行きました。選手でなく監督がかっこよかったんですよ。スパルタで厳しい中にも愛情を持っていて、この人怖いけど選手のことが大事なんだと感じました」

 当時の感動は、56歳となった上原の心に今なお熱い想いとして残っていると言う。

 この出会いによって、上原の目標は明確になった。

 “高校野球の監督になる”

夢からゴールするまでの過程を逆算するインタビューに答える上原 忠監督

 目標が明確になった上原は、中学に入ると早速行動に移す。

 「高校野球の監督になるにはどうしたらいいのだろうと逆算して。そうすると教員資格を取らないといけない、そのためには大学に行かないといけない、そのためには勉強して学力を付けないといけない。中学校でもう頑張っていかないと、監督になれないと思って」

 この考え方は、数々の一流選手とも共通するポイントだ。大谷 翔平は、高校時代に目標達成シートを作成した。目標は「ドラフト1位で8球団に指名される」。大谷は、目標を8つの要素に落とし込み、さらに各要素での具体的な行動を書いたシートを作成した。

 イチローも小学校の文集で 「ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校でも全国大会へ出て、活躍しなければなりません…」 とプロになるという目標と、更に何をすべきかの行動目標も残している。

 上原もまた、中学にして指導者になるための具体的な行動目標をたて、実行していったのが分かる。

 「中学1年生の頃から、勉強にスポーツに野球をやりながら、糸満高校へ入学。糸満高校に入学した後も勉強を続けましたが、貧乏だったので国立しか入れなかった。なので、当時国立大学で体育の資格がとれるのが琉球大学だったということもあり、琉球大学に進学しました。」

 こうして上原は、中学時代の行動目標の一つ、教員免許取得をまず達成したのである。

 前編はここまで。後編では、上原監督が教員免許を取得してから沖縄水産の監督に就任されるまでの経緯を振り返ってもらいました。後編もお楽しみに!

文=田中 実