被災者の本音"アリバイ復興に意味はない"

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1000億円超。これは東日本大震災後、日本赤十字社が各国の赤十字社から救援金として受け取った額だ。日赤は「この規模の寄付を受け取ったのは初めてだった」という。震災から7年がたち、救援金の94%はすでに使われている。一体なにに使われたのか。ジャーナリストの伊藤詩織氏がリポートする――。

■世界で初めて「原子力災害の対応ガイドライン」を策定

震災翌日の2011年3月12日、日本赤十字社(日赤)は福島県の浜通りを中心に12の救護班を送ったが、放射線の基礎知識や防護装置などを持っておらず、一時撤退せざるをえなかった。日赤の職員・藤巻三洋さんは当時を「苦い経験だった」と振り返る。

日赤にとって東日本大震災は復興支援と原子力災害対応を初めて経験した災害だった。これまでの大規模災害では医療救護活動に終始していたため、東日本大震災ではなにもかも手探りで進めた。苦い経験を克服すべく原子力災害対応の中心になったのは、13年に日赤社内に設立された原子力災害対応のための人材育成や、原子力災害に関する情報収集と発信などに取り組む「赤十字原子力災害情報センター」。藤巻さんは同センターに所属している。

日赤の災害支援は初めこそ思うようにいかなかった。だがしばらくすると、世界の赤十字社から集まった1000億円以上という莫大な救援金をもとに、被災地東北で医療活動だけでなく、スクールバスの寄付や、本来は行政が担うような学校の再建などに乗り出した。仮設住宅では被災者と健康体操教室を開いたり、カウンセリングを個別に行うなど、心のケアに努めた。

最大の功績が、15年に策定した「原子力災害における救護活動ガイドライン」だ。災害直後の対応の反省を活かそうという声が、組織の内外から上がっていた。原子力災害における救護活動の行動指針は、日赤以外の団体も含め、これまで体系立てて制定されたものはなかった。

ガイドラインの策定には、日赤の医師のほか大学や国立病院機構災害医療センターの医師、国会原発事故調査委員会の元関係者も関わった。構想から実現まで4年をかけ、知見のすべてを詰め込み、オンラインでも発表した。注目が集まり、世界の赤十字を統括する国際赤十字・赤新月社連盟も日赤の指針をなぞるように連盟版の原子力災害対応ガイドラインを策定した。

■日本への渡航費や宿泊代は自腹 23の国と地域の赤十字が結集

日赤ガイドラインには活動地域や個人の放射線被ばく限度などが具体的に示されており、活動従事者の安全を確保しながら、活動を展開する方法が記されている。担当者は「将来の災害時に、日赤が円滑に救護活動を実施することが可能になりました」と説明する。他組織での活用も期待されている。

日赤は18年2月末には、受け取った1000億円以上の救援金の使途を説明する目的で、世界の赤十字社を日本に招待し、福島・岩手・宮城の各県を案内した。日本への渡航費や宿泊代は参加者負担だったなか、23の国と地域の赤十字から約50名が参加した。

韓国から訪れた金宰律さんは隣の北朝鮮で核実験が繰り返されていることに触れ「自然災害だけではなく、どんな危機であろうとわれわれの使命は助けを求める人のもとへ駆けつけることだ」と力を込めた。ラトビアの赤十字職員は「チェルノブイリの教訓もあり、真剣に考えたい。対策や知識を身につけたい」と話した。

被災地支援を続けている日赤スタッフは7年がたち、周囲が変化していく様子を見ている。「海外から来たNPOやNGOには、支援を終え、日本の事務所を畳んだり、撤退したりした団体も多い」(藤巻さん)。多くの支援団体が去ったあとも、福島には生活している人がいる。彼らの生活はどうなっているのだろうか。「福島の復興は岩手、宮城と同列には語れない」。関係者はそう口を揃える。避難指示が解除された地域で暮らす人々は福島の今や、復興をどう捉えているのだろうか。

■「避難指示が解除されても、浪江町はもう町ではない」

原発事故後、避難指示区域に指定され、住民がいなくなった浪江町で約300頭の牛を飼い続けた男性がいる。吉沢正巳さん(64歳)。政府が人間と一緒に犬や猫の避難を認めたのに対し、牛や豚といった家畜は殺処分を命じたことが許せなかったという。「国は命の選別をした。牛を餓死させてしまった農家は自責の念に駆られて『2度と牛は飼えない』と心に傷を負った」。

17年3月末に浪江町の避難指示は解除された。しかし、事故前の町の人口は約2万1500人だったが、18年2月末までに戻ってきたのは2.5%の約500人のみだ。

その理由について吉沢さんは、牧場にある小屋の壁に張られた地図を指差す。事故直後の福島県周辺における放射線量の分布地図だ。色が黄色から赤に濃くなるほど放射線が強い地域だ。当時の浪江町は真っ赤に塗りつぶされており「これは、『ここはもう駄目なんだ』というレッテルなんだ」と憤る。

「浪江の人はこれを見て全国に散らばった。ここに戻るんじゃなくて、第2の新しい人生を根付かせている。そうするしかないんだ」

避難指示が解除されても、浪江町はもう町ではないと吉沢さんは考える。

「ここに戻ってきた人でも、避難していた場所と行ったり来たりみたいな人が多いんだよな。福島県内でもいわき市や郡山市にいけばパチンコ屋もある。やっぱり便利なところに住むんだよ」

浪江町では生鮮食品を揃えているスーパーマーケットはまだ存在しない。医療施設も診療所しかない。

吉沢さんの牧場の敷地内にも除染作業の末に出た汚染土壌の袋の山がシートに覆われ佇んでいる。その光景も「風景に馴染んだもの」だという。「放射能と折り合いを付けるしかない。妥協して、受忍する。帰れる人は高齢者か“復興が仕事”の役場の人。町民はもうよそに根付き、そこで生きようと必死なんだよ。だから役場の復興の話と現実にものすごい乖離がある」。

放射線という目に見えないものだからこそ、吉沢さんにとって彼自身と牛が生きてきた事実が重要なのだろう。

「原発事故後、みんないろいろ考えたと思うが、それもいずれ風化して忘れちゃうんだ。この牧場は、原発時代への逆戻りに対し、原発事故当時の状態をそっくり残して、メモリアルとして伝える場所なんだよ。“邪魔者”の被ばくした牛が生きる場所なんだ」

■「赤字覚悟、誰かが始めないと」浪江町に飲食店がオープン

同じく浪江町で3月1日、新しい飲食店がオープンした。「なみえ肉食堂」。エゴマの種を飼料にまぜた「エゴマ豚」を取り扱う。経営する渡辺貞雄さん(58歳)は開店初日から「商売としては捉えられないです。赤字は言うまでもないでしょう」と話した。

開業日、訪れた客のほとんどが建設や復興関係で浪江町に来ている町外出身者だった。一方、地元の住民はほんの1割程度だったという。

渡辺さんはこの店のほかに福島市で別の飲食店や精肉店を複数経営している。そこで客として来ていた浪江町からの避難民と出会い「町を戻したい」と願う熱い心に動かされたそうだ。

「私に何かできることがあればということで、最初は生鮮品を扱うことを考えましたが、物流が確立できなかった。だから、精肉店を営んでいる強みを活かしてこの食堂にしました」

しかし避難指示解除から1年しかたっていないここで、商売をすることに不安はなかったのだろうか。

「医療関係は非常に心配なところです。うちのスタッフも、万が一けがをした場合とか、緊急体制は整っているのか。不安材料はいっぱいですね」

それでも渡辺さんは「誰かが始めないと」という一心で店を開いた。「多くの人が戻れる環境にしたい、それしかないです」と話す。

松本義道さん(87歳)と良子さん(82歳)夫婦は震災後、避難所を転々とした後、11年9月からいわき市の「高久第9仮設住宅」に住んでいる。部屋は4畳半ほどの居間と同じ大きさの寝室のほかに台所などがある。

この仮設住宅は原発事故後、避難指示区域に指定されていた楢葉町の住民が住む。15年秋に町の避難指示が解除されると、仮設住宅の避難民は「空室」という張り紙とともに減っていった。その後、仮設住宅の提供が打ち切られることが決まった。いまだ残る住民は原則、18年3月末までに退去することを迫られている。

義道さんは「死ぬのはここでなく楢葉がいい」と話す。楢葉町が帰りたい故郷なのには変わりがない。

■震災から7年「アリバイ復興に意味はない」

しかし彼らの楢葉町に残した家の修復が終わっていない。業者には以前から頼んでいたが、町民がこぞって家の修復を頼んだこともあり作業が終わっていない。「避難のときはさっさと出ていけ。今度は早く戻れ。そんなのあんまりだ」。

そんな松本さん夫婦も楢葉町に自動車で定期的に帰っている。「雨戸を開けて風入れねえと、家が壊れていっちゃうべ」。帰る理由はもう1つあった。「残した猫のみいちゃんに餌やらないと」。大切な家族に会いにいっていた。

「車の音が遠くからわかるのか、帰ると門のところで待ってんだよ。近づくと、今度はお腹をごろっとこちらに向けて寝ちまうだ」。良子さんはみいちゃんの話になるととても嬉しそうだ。

仮設住宅の規則で猫とは一緒に住めなかった。「もう少し頑張って待ってなね」。良子さんは帰るたびに話しかけたが猫は17年亡くなった。楢葉町に帰る楽しみが1つ、消えてしまった。

やっと家に帰れることは嬉しい。しかし「楢葉の家からは、病院やスーパーが遠くなる。コンビニ弁当ばかり食べることになるのだろうか」。良子さんの不安は募る。

■復興の意味と7年目の原点

震災から7年。復興とは何なのだろうか。広辞苑には「ふたたびおこること。また、ふたたび盛んになること」とある。吉沢さんは「新しい搾乳場を造った、五輪をやった、そんなアリバイ復興に意味はない」と吐き捨てる。

「7年というのは我々にとっては節目」と日赤担当者。多額の救援金を7年でほぼ使い切った日赤は今後、自前のリソースを使って継続的に健康教室を開くなど生活支援活動を続けていくが、サポートは次のフェーズへ移ろうとしている。これからは災害が起きる前の減災・防災などに注力していくという。藤巻さんは最後に「災害救援に関わる者にとってどこまでが復興なのかは命題だ」と言葉を残した。失われたものは戻ってこない。時間をかけてつくり上げたコミュニティーや町は簡単には戻らない。私たち一人一人に何ができるのか今1度考えたい。

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伊藤 詩織(いとう・しおり)
ジャーナリスト、ドキュメンタリーフィルムメーカー
1989年生まれ。ロイター通信東京支局でのインターンを経て、フリーランスに。中東のテレビ局「アルジャジーラ」や英国の経済誌「エコノミスト」のウェブサイトで、ドキュメンタリー番組や記事を発信。日本では雑誌への寄稿を中心に活動している。著書に『Black Box』(文藝春秋)がある。

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(ジャーナリスト、ドキュメンタリーフィルムメーカー 伊藤 詩織 撮影=伊藤詩織)