現代に伝わる西郷隆盛の肖像画の一つ(画像=『近世名士写真其1』国立国会図書館蔵)

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今年1月、西郷隆盛の新たな肖像画が鹿児島県枕崎市で見つかった。今年の大河ドラマの主役である「西郷どん」。しかし、いまだにその顔は謎とされ、あの「太眉でギョロ目」の人相は、実はまったくの別人ともいわれる。ではいったい、「本当の顔」はどんなものなのか。そして西郷隆盛とはどんな人物だったのか――。

※本稿は、『誰も書かなかった 日本史「その後」の謎大全』(KADOKAWA)の内容をもとに再編集したものです。

■いまだ謎。西郷の肖像画はどれが本物?

2018年は、明治維新から150年という節目にあたる。「明治維新」とは、簡単にいえば「日本を近代国家にすべく、明治のはじめに行われた一連の改革」のこと。そして、1877年の西南戦争の平定により、一応の完成を見たとされる。

西南戦争において、鹿児島の不平士族らが盛り立てたのが「西郷隆盛」だった。優れた指導力で明治維新を成功させたこの人物こそ「西郷どん」なのだが、その一方で、明治維新を「終わらせた人物」もまた、彼であったといえる。

さて、西郷隆盛といえば、いまだ謎なのがその「顔」である。西郷は肖像画や写真を世に遺すことを好まなかったため、彼の容貌がどんなだったのか、今もわからずじまいなのだ。

東京の上野恩賜公園に建つ銅像の除幕式の際(1898年12月)、臨席した西郷の未亡人・イトが、幕が下ろされた刹那に「うちの旦那さんは、こげな人じゃなか」とつぶやいたというエピソードは有名だ。これは作り話ではないようで、イトの隣に居合わせた西郷の弟・従道がそんな突拍子もないことを口にする彼女をたしなめたとの話も伝わるが、これも「西郷の顔」ミステリーが流布するきっかけの一端となり、それが、今もなお新たな肖像画が発見されるという動きにつながっているのである。

近年では、2003年に大分県日田市で発見された肖像画がある。これは、幕末・明治期に同市で活躍した文人画家・平野五岳が掛け軸に描いた水墨淡水画だ。この肖像画の西郷は、これまでわれわれが見てきた恰幅のいい容姿ではなく、優しくて気立てのいい老人のよう。福耳で柔和な顔立ちなのも、ほかの肖像画とは一線を画している。

描かれた人物が本当に西郷なのどうかについては、平野が西郷に面会を申し込んだ際に書かれたものとされる漢詩が遺っており、また、この肖像画の人物が着ている羽織が西郷南洲顕彰館に遺されているものと同一であることからも確認できる。

ただ、これが西郷の肖像画の“決定版”かというとそうではなく、2017年には鹿児島市在住の古美術収集家が所蔵していた、それまで未公開の肖像画の所在も明らかとなった。柔らかい表情の描き方は、日本画家・服部英龍のタッチにも似ているものの、画中の印から、英龍の弟子・雲龍のものとされている。

さらに今年1月には、鹿児島県枕崎市で、西郷を描いたものだという新たな肖像画も見つかった。この肖像画に署名はなく、いつ、誰の手によって描かれたのかは不明だが、西郷ゆかりの縁者の印象では、祖先から伝え聞いた西郷の特徴が見て取れるというから驚く。

西郷隆盛の「本当の顔」をめぐる謎は、まさに現在進行形なのである。

■西郷を死に追いやったのは誰? 西南戦争終焉の真相

西郷と共に西南戦争を指揮した人物に、桐野利秋という人物がいる。私学校において桐野はもっとも過激な人物だったことから、のちに「西南戦争は桐野の戦争」ともいわれたが、「人斬り半次郎」の異名も持つ彼の面目躍如といったところだろうか。だが、西南戦争における桐野には、まさに不運しかもたらされなかった。

そもそもこの戦争のきっかけは、私学校の生徒が陸軍の火薬庫を襲撃したことにあったようだが、このとき西郷は「しまった!」と叫び、桐野も「早まった!」と口走ったと伝わる。つまり、西南戦争は「暴発」して開始されたようなものともいえるのだ。

西南戦争最大の激戦となった田原坂の戦い(1877年2月)を経て、西郷軍の総指揮者となった桐野は、同年9月、鹿児島へ入って城山に拠(よ)ったが、同月24日、新政府軍による総攻撃がはじまる。身を隠していた洞窟から出た西郷は被弾し、別府晋介の介錯により死亡した。この直前、西郷だけでも投降させてはという意見も内部から出たものの、桐野は決してそれを認めず、「潔く散華されてこそ西郷先生」と言ってはばからなったという。

師である西郷が没したあとも、自ら銃を構えて新政府軍に戦いを挑んだ桐野だったが、最後は眉間を撃ち抜かれて戦死(享年40)。西南戦争は西郷がはじめた戦争といわれるが、こうみると、実は桐野の「思惑」も作用していたことが読み取れるのである。

■ロシア皇太子と共に帰国!? 根強く残った生存説

1877年9月24日午前7時。西郷隆盛がついにこの世を去ろうとしていた。彼の最期について、田中万逸『大西郷終焉悲史』にはこのようにある。

「大西郷は、依然従容自若として、『晋殿、晋殿』と別府を差し招き、『晋殿、殺ッ呉いやい。もうこの辺で可かろ!』と首さし延べて凛りんとして言った」

西郷は別府晋介に介錯され、果てた。これが世に伝わる西郷の最期だが、遺体に首がなかったことで、やがて「西郷生存説」が唱えられはじめる。実際、10月27日付読売新聞には「尾張名古屋周辺では、西郷が死んだと云ふ新聞は虚だ、今にまた土州へ首を出すの、船で四国へ逃げたのだとか、中には再び出る出ないの賭をする者も有る様子」と書かれていた。

さらに、西郷の死から14年後の1891年にはまたも生存説が再燃。今度はなんと、西郷はシベリアでロシア兵と訓練に明け暮れていて、後日、ロシア皇太子と共に日本へ戻ってくるという話だった。実はこの時代、ロシアはシベリアや朝鮮半島に触手を伸ばしており、当然ながら、日本も仮想敵国としてロシアを重要視していた。このような情勢下、日本とロシアが手を結ぶ際のキーパーソンとして西郷が選ばれたのかもしれない。

■西郷死後、残された家族はどうなったか?

これまで述べてきたように、謎めいた部分を多く残して世を去った西郷隆盛だが、彼の妻や子どもはその後、どうなったのだろうか?

西郷はその人生において、なんと3度も結婚している。最初の結婚は、同郷である伊集院兼寛の妹・俊子が相手だったが、結婚生活は1年ほどで破たん、子どももいなかった。

2度目の結婚は西郷が奄美大島へ流されたとき。島の娘・愛加那(愛子)と結ばれ、菊次郎と菊子(菊草)の一男一女が生まれた。西郷が島に潜伏していたのは32歳の頃とされるが、当時西郷は「菊池源吾」と名乗っていたため、子の名前に「菊」という字を付けたのだろう。

そして3度目の結婚相手は、薩摩藩家老・岩山八郎太の娘・イトで、彼女とのあいだに寅太郎、午次郎、酉三という3人の子をもうけている。

以上、西郷の実子5人のうちもっとも出世したのは長男・菊次郎であった。米国留学ののち、宮内省、台湾総督府を経て、1904年より6年間、第2代の京都市長として辣腕を振るい、琵琶湖第2疏水の開削、発電・水道事業、京都市立絵画専門学校の開設などにも尽力している。

ちなみに、その後の西郷家を継いだのは寅太郎の三男・吉之助で、彼は1936年に貴族院議員となり、後年、参議院議員にも当選している。吉之助は祖父である西郷隆盛によく似た風貌と堂々とした体躯の持ち主だったことから、地元では非常に高い人気を誇っていたという。

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雑学総研
珍談奇談の類から、学術的に検証された知識まで、種々雑多な話題をわかりやすい形で世に発表する集団。江戸時代に編まれた『耳袋』のごとく、はたまた松浦静山の『甲子夜話』のごとく、あらゆるジャンルを網羅すべく日々情報収集に取り組む傍ら、最近ではテレビ番組とのコラボレーションも行った。

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