日本人の家事の「当たり前」は海外の非常識だ(写真:tomos / PIXTA)

多くの日本人が、丁寧な暮らしや、家事をきちんとこなすこと、配慮の行き届いた子育てをすることを理想としている。しかし、日本人の「完璧に家事をこなそうとする姿勢」や、「手づくりなもの」への礼賛、断捨離やミニマリズムの流行は、世の母親たちへの見えない圧力になっている。
日本人の「家事の当たり前」は、海外の人には異様に映る。なぜ日本では男性の家事参加が進まないのか。『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』の著者、佐光紀子氏が、気楽で苦しくない家事との付き合い方を解説する。

海外は男がもっとやっている

2016年3月の『ニューズウィーク日本版』にこんな記事があった。

「日本は世界一『夫が家事をしない』国」(著者は教育社会学者の舞田敏彦氏)

同記事によれば国際社会調査プログラム(ISSP)の2012年の調査に参加した33カ国中、18歳未満の子どもがいる男性の家事・家族ケア分担率の割合で、日本は最下位だった。分担率は18.3%、ブービーメーカーのチリに劣ること6.2%で、断トツのビリだ。


(出典:OECD Gender data portal〔2016〕”Time use across the world”)

【2017年12月23日16時追記】初出時、「国際社会調査プログラム(ISSP)の2012年の調査に参加した33カ国中、18歳未満の子どもがいる男性の家事・家族ケア分担率」の出典を「OECD Gender data portal〔2016〕”Time use across the world”」としておりましたが、正しい出典はニューズウィーク日本版の記事でしたので、上記のように修正します。

日本の男性の家事時間は、経済大国5カ国の中では、断トツの最下位。OECD(経済協力開発機構)加盟国平均の半分にも満たない。中国、韓国などの東アジア諸国は、女性の家事負担率が高い傾向はあるが、日本は中国に10ポイント以上の差をつけられている。

日本の男性の家事参加率の低さを考えるうえで見過ごせないのが、女性側の家事に対する意識だ。2013年に三菱総合研究所が実施した「少子高齢社会等調査検討事業(若者の意識調査編)」が、男女の意識の差を明らかにしている。

調査では、男女それぞれに「結婚相手の女性に専業主婦になってほしいか」「結婚後は専業主婦になりたいか」と問いかけている。

これに対して、男性で「そう思う」「どちらかといえばそう思う」人は19.3%と2割を切る。そして半数の50.5%は、「どちらともいえない」と答えている。「まぁ、どちらでもいい」「結婚相手の意思に任せる」……ということだろう。

これに対して女性は、34.2%が「専業主婦になりたい」と答えている。一方で、「どちらでもいい」は27.2%、「専業主婦になりたいと思わない」という回答は38.5%である。

「なぜ、専業主婦になりたいと思うか?」という質問(複数回答)については、男性・女性全体の61.4%が「女性には家事や子育てなど、仕事をするよりもやるべきことがあると思うから」と答えている。「夫がしっかり働けるようにサポートするのが妻の役目だから」という人も3割ほどいる。

つまり、夫は夫で残業で忙しい。その一方で、妻は妻で、家事をして夫の稼ぎを支えるのが自分の役割だ、と思っているという現実が、「世界一家事をしない夫」を作り出している日本社会の根底にある。

専業主婦になって「仕事よりもするべきこと」が、具体的にどのようなものかという1つの理想型に「丁寧な暮らし」がある。「毎朝丁寧に掃除する」「完璧な朝食を出す」「靴はしっかり磨く」「部屋はいつもキレイ」……などである。

家事をちゃんとやらなきゃ」信仰とは?

家事をちゃんとやらなきゃ」信仰にとらわれている女性は多く、なかなか手を抜けない。手を抜くことで罪悪感を抱いてしまうという女性は多い。

日本の主婦のほぼ半数(48.4%)が、「トイレ掃除は毎日すべき」と考えている。これに対し、そう思っている夫は2割弱。また、食器を1日3回以上洗う人の割合は、日本では55.5%。イギリスでは27.3%、アメリカでは8.3%、スウェーデンでは7.7%という大きな開きがある。

アメリカ人にとっての家事が「なるべくやりたくないもので、できれば外注したいもの」であるのに対して、ほとんどの日本人にとっては、「家事は家庭でやるのが基本」なのだ。私がインタビューした何組かの日本人夫婦のうち、家事を外注したいと答えた人はひとりもいなかった。

家庭での家事の担い手は、一部を除いてほとんどが家庭の主婦。その結果、「よい主婦=家事をちゃんとする」という公式は、誰も疑問に持たないほど浸透するまでになっている。

家事のやり方について、「きちんと」しているのはどんな家事かと尋ねると、自分の母親のやり方を基準にあげる人は多い。「母が育ててくれたように子どもを育てたい」「働いているせいで、専業主婦の母がしてくれたのと同じことを家族にしてあげられないのは申し訳ない」という発言は、30代の女性からも繰り返し聞いてきた。

「お手伝いさんのいる家」が原点

そもそも「きちんと家事」を始めたのは誰だろう? 歴史をひもとくと、「お手伝いさんのいる家」が原点だったことがわかる。

「献立は常に変化あるをよしとす。同じ食品を連用するは食欲を喚起する所以にあらず。故に日々の食事は成るべく其の献立を異にすべし。而して一日中に於ては其の中の一度の献立を以て主饌とし其の時は必ず家族皆集まりて愉快に飲食談話するをよしとす」

飽きると食欲が落ちるから、同じ食品を続けて使わず、なるべく献立を変えなさい……今と変わらないこの教えは、1908(明治41)年に文部省検定を受けた『修訂三版家事教科書』に出てくる献立についての考え方だ。まえがきには、高等女学校の教科書として書かれたとある。上下2巻に分かれたこの本は、衣食住に始まり、育児、養老、看病、一家の管理、家計の管理など、家事全般についての情報が詰まっている。

高等女学校で、これから主婦になる女学生たちに、家事全般を教え、主婦の心得を教えるのが、家事教科書の目的だったのだろう。献立の例一つとってもそうだが、当時の家事のやり方や考え方は、今とそれほど大きく変わらなかったのだな、と思わせられる内容が目立つ。

ただし、気をつけなければならないのは、ここに書かれているような家事や、毎日献立が変わる食事のありようは、女中さんを置くような家庭向けの家事だったということだ。

当時、高等女学校へ進学する人は非常に少なく、特別な家庭の子女の行く学校だったのだ。広い家と土地を抱え、使用人を使って暮らす、とても特殊な家庭の子女のための教科書だったといえる。見方を変えれば、使用人がいなければ、そんな家事は成立しない。

戦後、使用人を抱えるような家庭は減り、核家族の進行と団地の普及で、人々の暮らしは大きく変わった。流通システムと冷蔵庫に支えられて、食生活は豊かになり、それまで特殊な人たちの特権だった「毎日違う献立」が庶民の台所に入ってきた。掃除機と洗濯機に支えられて、お手伝いさんなしでも家事が進められるようになった。とはいえ、お手伝いさんなしの家事が成り立ったのはなぜかといえば、お手伝いさんの役割を専業主婦が引き受けたからだろう。

「お茶漬け」や「生卵にしょうゆをかけた卵かけご飯」が朝ご飯の定番だったのは、朝ご飯に食べるのは前の晩に炊いた冷やご飯だったからだ。食文化研究家の森枝卓士さんは、「朝ご飯が温かいというのはごく最近の日本で起きたことだ」と言う。

朝食は温かいご飯にみそ汁、主菜に漬け物に……というのは、旅館など特殊なところならいざ知らず、庶民の食卓事情としては、あったとしてもかなり最近の傾向だ。忙しい朝、何も温かいご飯を用意する必要もなさそうだが、「早寝早起き朝ごはん」を提唱する国民運動のウェブサイトでは、ハードルの高い「主菜、副菜を取り入れたバランスのとれた食事」を推奨している。

以前、日本企業のシンガポール支社の女性に食生活についてインタビューをしたときに、夕飯はホーカー(屋台)で買って帰ることが多い、共働きは忙しいから、家で作ることはない、と言っていた。東南アジアでは女性の管理職なども多く、女性はよく働く。食事は女性が作らなければならないという認識も、日本ほどではないようだ。

世界各国の様子は

世界各国の様子を見てみよう。フランスの「カフェオレとクロワッサン」は有名だが、海外では朝は、簡単な食事で済ませる例は多い。共働き家庭ではなおさらだ。スウェーデンの朝食は、ヨーグルト、複数のジャム、チーズ、ハム、そしてクラッカー。あとはせいぜい、シリアルと牛乳だ。

高校時代をイタリアのミラノ近郊で1年過ごした私の息子は、朝食をほとんど食べない習慣を身に付けて帰国した。口にするのはエスプレッソといわれる濃いコーヒーと、甘いクッキーのようなものだけだ。朝ご飯に卵のつくイギリスだって、宿泊施設で朝食込みプランとなるB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)だと、初日に「卵はどうやって食べる?」と聞かれて、スクランブルエッグなり目玉焼きなりと答えると、後はチェックアウトの日まで、毎日判で押したように同じ卵料理が出てくる。

文部科学省が2006年から推進している早寝早起き朝ごはん運動のウェブサイトの中では、「朝ごはんの内容と学力に相関関係がある」とある。しかし、実際は、朝も夜も屋台での外食が多いシンガポールがOECDの学力調査ではトップ。こうなると、子どもには栄養価の高いきちんとした朝ごはんを食べさせなくてはならない、というのは、事実というより、メディアのイメージ戦略といってもいい。

このように、世界各国の朝食事情を見れば、朝食は温かくなければ、主菜副菜付きでバランスをとらなければダメだというのは、日本でごく最近出てきた考え方だということがわかる。それができなければ親として恥ずかしいわけでもなければ、後ろ指をさされる筋合いもない。お茶漬けで上等なのである。個々人の家事、特に食事のあり方に正解を求める傾向を、日本はそろそろおしまいにしてもいいのではなかろうか。

日本では、断捨離中だと言うと、「すばらしい」「偉いわ」という反応が多いが、アメリカでは変わり者扱いされるという。正直なところ、かなり驚いた。日本人に比べると、多民族国家・アメリカは、自分たちと違う人に対する許容量がかなり大きい。そうした環境の中で、ミニマリストに「まわりと違う自分でいるには、ちょっと勇気もいる」と言われると、それはかなり変人扱いされているんだ、と思わずにはいられない。

日本のミニマリズムや断捨離は、ある程度の物欲が満たされて初めて行き着くものなのだとすれば、非正規雇用者の拡大する若い層には、厳しい考え方ということになる。

洋服も家具も、自分らしさを探しながらいろいろな物を試し、失敗した先にあるミニマリズムはスタイリッシュかもしれないが、発展途上の若い人たちには、自分を試す機会を奪う、あまりありがたくない考え方なのかもしれない。アメリカのミニマリズムも、日本と同様に豊かさの上に成り立っている。

家事はきちんと」なんて無視していい

そもそも、家父長制の下ですべてを手づくりして、家事がこなせていたのは、嫁が奴隷のように働かされていたからである。核家族化が進行し、舅姑(きゅうこ)にヤイヤイ言われずに、食や家事を簡便化し、その分家族と過ごせれば、家庭機能は低下なんかしないだろう。

ところが、戦後の家父長制崩壊にあらがうように、政府は戦前の「伝統的な家事」のあり方を核家族に求めた。家事は「きちんと」ちゃんとやらないと、家庭機能が低下する、子どもがちゃんと育たない。そのメッセージの裏に「女性の家庭内の無償労働をいくらでも使える資源と位置づけてきた戦前の経済体制を維持」しながら、武力ではなく経済で世界にのし上がろうという政府の意図があったのだろう。

そう考えると、昭和30年代から繰り返し発信される「家事はきちんと」なんていうものは、無視してしまってよいのだ、と思えてくる。そんなことは、個々の家庭で、こなしていける範囲で、核家族内で分業すればよいだけのことなのだから。

日本の女性は家事を「きちんとする」ことで、「きちんとした」女、まともな母としての評価を勝ち得てきた。床を丸く掃くと、男性なら「まぁ男だから」と許されても、女は「だらしがない」と言われてしまう。家事ができて一人前、家事ができて初めて「きちんとした女」という刷り込みが、女を「きちんとした家事」に駆り立てていく。

家事が人として、女としての評価の基準になってしまうと、病気やけが、老化などで家事ができなくなった女はどうなるだろう? もうご用済み? 役立たず?


そんなことはないだろう。家事ができなくても、妻は妻、母は母ではないだろうか? 家事ができるできないと、私の価値は関係ない。そんな関係を育てていくためには、家事を少し手放してみることも必要だ。

できないことはできないと言い、手伝ってもらう。心の負担になることは、こっそりやめて家族の反応を見る。誰も気がつかなければ、そのままやめても問題ない。家族の予定を把握するだけでなく、こちらの予定も共有してもらい、出かける時の食事は家族で対応してもらおう。

そうやって家族が家事を覚え、自立していくことが、結果的には彼らの生活力を培っていく。家事のやり方、予定などを伝えていくことで会話も増えていくだろう。結局のところ、家事と日々の生活はコミュニケーションなのだから。