東京キララ社代表の中村保夫さん(写真:筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第11回。

東京キララ社という出版社がある。

アーカイブをのぞいてみると、死体カメラマン釣崎清隆氏が福島第一原発で実際に働いて書いた『原子力戦争の犬たち』、特殊漫画家根本敬氏が独自の解釈で名盤レコードジャケットを描いた画集『ブラック アンド ブルー』、米刑務所・拘置所に10年以上投獄された日本人KEI氏が書く『プリズン・カウンセラー』などなど。

最新刊は、築地魚河岸で働く男たちの写真集『築地魚河岸ブルース』。ちなみに魚河岸の写真集なのに、魚の写真は1枚も写っていない。

どの書籍もキンキンに尖っている。時代や流行に合わせる気など毛頭ない。

「マーケティングなんか糞くらえ!」をスローガンに邁進する東京キララ社はどのようにして誕生したのだろうか?

東京キララ社はどのようにして誕生したのか


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東京都千代田区神田神保町にある東京キララ社で、代表の中村保夫さん(50)を直撃した。

「僕は神保町1丁目生まれです。祖父は戦前から製本をやっている人で、戦後焼け野原だった土地を買って製本工場を作りました」

200坪ある大きい製本工場だった。中村さんは小さい頃から工場内を遊び場にしていた。断裁紙クズを入れるプールにダイブしたり、本を流すローラーで滑って遊んだりした。インクや紙の匂いに親しんでいた。両親は2人ともその工場で働いていたが、中村さんとの交流は少なかった。母親は食事などの世話はしてくれたが、会話はほとんどなかった。仕事後、部屋にいる母親を見かけたので、声をかけると、

「これからは私の時間なんだ!! あっちへ行け!!」

と怒鳴られた。父親は2代目社長らしいボンボン気質で、毎日のように飲み歩いていた。生活する時間が違いすぎて、ほとんど会うことはなかった。

「母親は正直大嫌いでした。父親は、たまに会って話すと、面白い人間でしたね」

クラスでは少し浮いている子だった。図画工作の授業で先生に絵を描けと言われても描かない。「なぜ描かないのか?」と聞かれて、


どの書籍もキンキンに尖っている(写真:筆者撮影)

「今は描きたくない」

と答えたという。そんな先生の手を煩わせるタイプの生徒だった。

高学年になって塾に行き始めると、勉強が面白くなってきた。学校で受けたIQ(知能指数)テストは140、偏差値は80超えだった。通っていた進学塾でトップの成績になった。

中学時代は歌舞伎町に出入りしていた

中学受験を受けて、早稲田実業に入学した。中学生の同級生に、歌舞伎町に住んでいる男子がいて友達になった。スナックビルのオーナーの息子で、ビルのペントハウスに住んでいた。

「中1から歌舞伎町に遊びに行ってました。親には『友達の家に行ってくる』と言ってあったからウソはついてないですね(笑)。ゲームセンターやバッティングセンターで遊んだりしていました。街を歩いてると、客引きに『いい子いるよ!!』なんてからかわれたりしてましたね」

時代はバブル景気に向かう頃だ。当時は中学生がお酒を飲んでいても、何も言われない風潮だった。

中学3年生になると、私立の女子中学生たちと100人規模のコンパをやるなど、大人びた遊びをした。

「小学校の同窓会の帰りに数人でディスコに行ったんですよ。500円でフリードリンクでした。それなら中学生でも払える。お酒も飲めて、ご飯も食べられて、こりゃいいやって。そこからディスコに狂って、高校では自分でイベントを組んでパーティをやったりしてました。20歳過ぎぐらいまではディスコにはまってましたね」

おおむね楽しい中学時代だったが、喘息を患って、学校に行けない時期もあった。喘息の発作が起きても当時の薬は吸引してから1時間くらい経たないと効果が表れなかった。母親はそんな時も仕事優先で、一切付き添ってはくれなかった。いつも独りでうずくまって、「こんなに苦しいならいっそ死にたい」と思っていた。

そうして家にいると、会社の社員が社長である自分の父親の悪口を言っているのを耳にすることが何度かあった。普段はペコペコと頭を下げているのに、陰ではボロクソに言っている。そんな姿を見て、「勤め人にはなりたくないな」と思った。

「そんな折、学校で将来なりたい職業を聞かれました。正直なりたい職業はなかったんだけど、『サラリーマンと家業を継ぐことだけは絶対にしたくない』と答えました」

高校時代、「このままエスカレーター式に早稲田大学に入学してもいいのか?」と疑問に思った。

「早稲田大学を卒業して、それなりの一流企業に就職する。結婚して、子ども作って、犬でも飼って……という未来を想像したら気が狂いそうになりました。もう完全に一生が見えてしまっている。たまらなく嫌でした。両親に相談もせず『推薦を希望しない』にマルをつけました。ずいぶん怒られました」

映画が好きだったので日本大学芸術学部を受けたが、落ちてしまった。明治学院大学は受かったのだが、結局学校には通わなかった。

地上げ屋に実家が狙われ、両親が離婚したバブル時代

そんな中村さんの個人的な悩みとは別に、中村家には暗雲が立ち込めてきた。1986〜1987年はバブルの時代だ。地価が上がりつづける中、地上げ屋と呼ばれる人たちが強引に土地の売買をした。反社会的勢力がかかわるあらっぽい話も多かった。

神保町は、地上げ発祥の地と言われている。中村さんの実家は、200坪もある広い土地を持っていたため、地上げ屋に狙われた。

「私が高校生の時分から変な人たちが家に出入りするようになりました。あの手この手で僕らを実家から立ち退かせようとしたり、共同事業という建前の詐欺を仕掛けられたりしました。そんな環境に耐えられなくなった母親が家から逃げ出して、とある人物のところに相談に行ったんです」

その人物のおかげで、地上げ屋たちは引き揚げたが、代わりにその人物が入り込んできた。そして自分のことを“先生”と呼ぶように強要し始めた。

母親はその人物の愛人になってしまった。中村さんの父親と創業一族は追い出されて、実質上、会社は乗っ取られてしまった。

「母親には何度も『だまされてるよ』って言ったんですけどね。聞く耳持ってもらえませんでした」

そして両親は離婚した。

中村さんは、父親についていきたかったが、

「妹にとっては、お前が父親代わりだ。母親側につくべきだ」

説得されて、結局母親についた。

「でもそれも長男で実家の後継者である僕をキープしておくためのウソだったんじゃないかと思ってます。そんなこんなで20歳前後で、世の中の汚い部分が全部わかってしまった。でも当時の僕は力がないので戦えなかったんです。従うしかなかった」

実家は工場を閉鎖し貸しビル業に移行した。つまり不動産業である。中村さんは、

「九州に知り合いの不動産屋がいるから入社して修業してこい」

と言われ、1人九州に居を移して働き始めた。仕事をしていると、

「東京から生意気なボンボンがやってきた」

と言われ、すごい迫害を受けた。悔しかったが、負けるわけにはいかなかった。仕事で見返すしかない。聞き慣れない方言が飛び交う中で、とにかく会社にかかってきた電話を取りまくって、話を聞いて、客をつかまえて、成約させた。入社してすぐ売り上げ1位になり、退社するまでずっと守り続けた。

九州では31歳まで、実に9年間働いた。

東京生まれの弱さを克服

「東京生まれの人って弱いんですよね。地方から東京に来た人って、早く何かをなしとげないと、故郷に帰らなければならないじゃないですか。たとえばミュージシャンにしろ、ファッションデザイナーにしろ、やることがクリアに見えていて、そこに向かってガツガツと頑張る。でも東京生まれは、何もなしとげなくても、死ぬまで東京で暮らします。やりたいことがあっても今日じゃなくていいやって思ってしまう。自分をガンガン売り込んだりするのは、野暮に思えてしまう。ガッツやハングリーさに欠けると思います。それが、東京生まれのハンディキャップですね」

九州の9年間の生活で、東京生まれの弱さを克服できた気がした。強くなったと実感できた。

「九州に行かず、ずっと東京にいたらきっと嫌な人間だったと思いますね。小さい頃から勉強ができて『神童』って呼ばれて、周りを見下していたし、つまらないヤツとは一言だって口をききたくないと思ってました」

不動産の営業では、どんなつまらない人とも話をしなければならない。嫌だったが、しかし実際に話をしてみると、どんなつまらなそうな人でも面白い側面が1つはあるんだな、と知ることができた。

九州にいる間に結婚して子どもも作ったが、離婚した。そして東京に戻ってきた。そもそもは、家の跡を継ぐために、九州で修業をするという話だったが、東京に帰るとそんな話はなかったことになっていた。

家の仕事の代わりに、ある出版社で働くよう勧められた。そもそも出版業には興味があったので行くことにした。しばらくは編集業務以外の仕事を与えられたが、入社後半年経った頃、編集業務をすることになった。

与えられた仕事はそつなくこなしていたし、重版がかかる本も製作したが、自分の企画が通らなくてイライラすることもあった。

「『ブルーノート・レコード』(アメリカのジャズのレコードレーベル)の本の企画が通らなくて、だったら自分で出版社を起こすことにしました」

東京キララ社という名前の由来

東京キララ社というのは、響きのよさでつけた名前だった。キララというのは、そもそも娘につけようと思っていた名前だったという。

「義理の母親にキララなんて名前の子どもはかわいがらないって言われてつけるのをやめた名前でした。東京キララ社という名前は好評で、みんなに『いい名前ですね』って言われますね」

2001年12月19日に設立し、翌2002年に書籍を出した。初期はジャズとカメラ関連の本が中心だった。以前からまとめたかった、オウム真理教の辞書『オウム真理教大辞典』を2003年に出版して高評価を得た。

そんな中、2004年に漫画家の根本敬さんと出会い、意気投合した。根本さんとの出会いは、中村さん的にも、東京キララ社的にも、とても大きい出来事だったという。

「これは根本さんに出会う前の話ですが、僕のやりたいことが周りの人に理解されなかったり、不謹慎だよって怒られたりすることがよくあって『自分はオカシイのかな?』って悩んでいたことがあったんだけど、根本さんの作品を知った時『ああ、こんな昔からこういうことやってる人がいたんだ!! やっていいんだ!!』ってすごく感銘を受けました」

現在では、理解し合う仲間、本音で話し合える仲間と認識しているという。根本敬さんは、東京キララ社の特別顧問に就いている。東京キララ社からは根本さんの本が発売されているし、東京キララ社の公式ホームページでは根本さんのコラムも不定期に掲載している。

そんなサブカルチャー、アンダーグラウンドに特化した本を出版している東京キララ社だが、初期の頃には大手企業から完パケの仕事を受けたりもしていた。

「社員を食わせていかなければならないから、そういう“普通の”仕事も受けていたんだけど、ある時に大手企業からだまされて1000万円ほど赤字をかぶらされたことがありました。作りたくないものを作って、赤字を背負うってなんてバカバカしいんだって思いましたね。それ以来『作りたいものしか作らない』と決めました。それならたとえ赤字になっても納得ができますしね」

以降、よりディープで過激な路線に変更していった。もちろん大儲けをしているわけではないが、赤字にはなっていない。ここ1〜2年は刊行ペースも上げて、年10冊以上の本を発刊している。

「初期の頃はよそで稼いだおカネを、東京キララ社に突っ込んでました。正直サブカルチャーの本は儲かるものではないですし、大変な茨の道を歩んでいるんですが、本を出し続けたおかげで会社を存続させることはなんとかできるようになってきました。従業員もここ数年で増えてきましたね。東京キララ社という名前も10年前は、ごく一部の関係者、表現者しか知らなかったですが、最近はある程度知られてきたと認識しています。それでも『商売になっているか?』というと、『どうだろう?』って感じですが。

ただ、そもそも出版を商売とは思ってませんね。むしろギャンブルだと思ってます。当たればビルが建つ世界ですからね。商売を目指して本を作ったら、つまらない本になるのは目に見えているんですよ。本はクオリティが高ければ売れるワケではなくて、売れるためにはわざと品質を落とさなければならないんです。でもそんな本、作りたくないじゃないですか」

中村さんがいちばん嫌いな言葉はマーケティングだ。そこいらの一般の人たちのご機嫌をうかがって、本を作るなんておかしい。マーケティングだのコンサルティングだの言っている人は全員、紳士面した詐欺師だと思っている。

「編集主導ではなくて営業主導で本を作ったら、どんどん面白くなくなっていきます。本はそもそもただの商品ではなくて、文化的なもの、だからこそ再販制度で守られているんですよね? みんな忘れているんじゃないでしょうか? 僕には大した力はありませんが『僕こそが出版界の良心で、出版界を背負っている』って本気で思ってます。うちは作りたい本しか作りません。気の置けない信頼できるメンバーでしか作りません」

出版業界の見通しは決して明るくないし、バブル期から続く実家のごたごたもいまだに終わっていない。

やるべきことが決まっているので不安は感じない

ただ中村さんは、将来に対する不安で押しつぶされそうになったことは一度もないという。

「自分1人ならどうやったって生きていけるというのが前提としてありますね。後は、やらなければならないことが決まっているので、不安に感じているヒマがないんですよね」

編集として裏方の作業をしてきたが、最近では中村保夫として、表に出て仕事をすることが増えてきた。

「出版とは別に活動していた和物DJ(日本の曲をつないでDJをするスタイル)として知られるようになりました。僕が動けば、みんな反応してくれるようになってきました。

これからは裏方として本を作るだけではなく、僕自身も本も書きたいし、映像も作っていきたい。やりたいこと、やらなければならないことを一個一個片付けるだけで忙しくて、遊んでる時間もないんです」

中村さんに、「自分のいちばんの才能は何か?」と聞いたら「放り出さないこと」との答えが返ってきた。

実家でのトラブルや、就職先でイジメにあっても、出版活動がうまくいかない時も、絶対にあきらめずに立ち向かう。戦い続けるのだ。

中村さんは生まれ育った神保町に対し強いアイデンティティを持っている。

九州から帰ってきた後は、神保町には家がなくなっていた。神保町から離れて暮らしていたが4〜5年前にやっと、戻ってくることができた。実に30年ぶりだった。知り合いの多くは、印刷屋、古本屋、出版社と本に携わっていた。バブルの時にみんないなくなってしまったが、それでも神保町が本の街であることには変わりない。

「やっと戻ってこられたって感じですね。自分の生まれた街で一生を過ごすというのは普通のことなんじゃないでしょうか? 僕は神保町で仕事をして、神保町で死にたいと思っています。もう二度と離れる気はないですね」

中村さんは、自分が神保町で生まれたということは特別な意味があると思っている。