ヤクルトの誇る、輝かしき「背番号《1》の系譜」

 東京ヤクルトスワローズには、「準永久欠番」と呼ばれる特殊な背番号がある。巨人・長嶋茂雄の《3》や、王貞治の《1》のような永久欠番と違って、「もしも、その番号に相応しい選手が現れればつけることが許される」という準永久欠番。それが、ヤクルトの背番号《1》。つまりは「ミスタースワローズの系譜」なのだ。

 ヤクルトにおいて、背番号《1》の価値を飛躍的に高めたのが、「小さな大打者」こと若松勉だった。ミスタースワローズと称された若松は生涯通算打率・319を記録。日本人打者としては最高成績を誇っている。後に監督に就任し、球団史上初となる4年連続Aクラスを達成。2001年には日本一監督として、正力松太郎賞にも輝いた。


小さな体で日米2000本の偉業を達成した青木宣親

 この若松(1972〜1989年)以降の背番号《1》は、池山隆寛(92〜99年)、岩村明憲(01〜06年)、青木宣親(10〜11年)に受け継がれ、現在では「トリプルスリー」山田哲人(16年〜)がこの番号を背負って、プレーを続けている。

「背番号《1》の系譜」を振り返ってみると、この5名の中で、通算2000安打を達成し、名球会メンバーであるのは若松勉だけだった。しかし、このたび、ついに2人目となる2000安打達成者が現れた。4代目ミスタースワローズの青木宣親(現ヒューストン・アストロズ)が、ついに日米通算2000安打を達成した。まさに、ヤクルトの誇る背番号《1》の系譜に新しい未来が訪れようとしているのだ。

 03年秋のドラフト4巡目でヤクルトに入団した青木宣親は、宮崎・日向高校時代に甲子園出場経験はなく、早稲田大学時代も、同期の鳥谷敬(阪神)、比嘉嘉光(元広島)、由田慎太郎(元オリックス)の陰に隠れる形で、特に目立った存在ではなかった。

 アマチュア時代の思い出についてインタビューした際に、青木はこんなことを言っていた。

「中学時代は野球が楽しくなかったし、高校に入ったら野球を続けるつもりもなかったから、一般入試で高校に入りました。指定校枠推薦で憧れの早稲田大学に入学して野球部に入ったけれど、周りは甲子園出場経験者ばかりで、技術以前に、そもそも体力的についていけなかった。体力がないから、すぐにケガをする。ケガをするからさらに練習量が落ちる。その悪循環でした」

 青木がヤクルトに入団した当時、チームを率いていたのは「小さな大打者」若松勉だった。若松が、当時を振り返る。

「プロ1年目のキャンプで青木を見たとき、いいものは持っているんだけど、レフト方向にしか打てないことが気になりました。それで、1年目は二軍に預けて徹底的に鍛える。そして、その年の秋に下半身の使い方を教えて、育てることにしたんです」

 この言葉通り、04年の秋季キャンプでは青木のそばにつきっきりで打撃指導に勤(いそ)しむ若松の姿があった。そして翌05年、青木はシーズン202安打のセ・リーグ最多安打(当時)を記録。一躍、セ・リーグを代表するスターとなった。

 この年の正月、青木は若松の自宅に自らの決意をしたためた年賀状を送った。そこには、 「必ずチームに貢献します。今年も宜しくお願い致します」と力強く書かれていた。

 若松は、自著『背番号1の打撃論』(ベースボール・マガジン社)で次のように述べる。

その年の秋季キャンプで一番頑張ったのが彼だった。キャンプが終わっても相当バットを振り込んだに違いない。年明けに彼の年賀状が届いた。 「今年はチームに貢献します」 力強い筆文字から「自分を使って下さい」という強い自己主張と、「必ず打ちますから」という自信がヒシヒシと伝わってきた。 こんな年賀状をくれる選手は今までのヤクルトにはいなかった。その勇気に感心した私は、そのシーズンはずっと彼の年賀状をバッグに入れていた。

 驚いたことに、ここで述べられている「青木からの年賀状」を若松は、その後十数年にわたってカバンに忍ばせ持ち歩いていたという。愛弟子・青木に対する若松の親愛の情はかくも深いのだ。

 歴代背番号《1》について、若松に話を聞いていると、特に青木に対する思い入れが強いような気がした。そこで、その理由を尋ねると若松はこう言った。

「池山や岩村はけっこうしっかりした身体をしていた。でも、青木は身体つきがオレにそっくりだった。池山、岩村と比べると、いちばんか弱かったし、ひ弱だったし。あの小さい身体であそこまで頑張ったというのは本当にすごいことだと思うよね」(『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』長谷川晶一・著 集英社刊より)

 公称168センチメートル、「小さな大打者」と称される若松が、身長175センチメートルの青木を「あの小さな身体でよく頑張った」と評価している。歴代の背番号《1》の中でも、若松にとって青木は格別な思いを抱かせる選手なのだということがよく伝わってくる。

 改めて、先に述べた「年賀状」について尋ねてみると、若松はこう言って笑う。 「これね、オレのお守りのような気がするんだよね。この年賀状の後、青木は高打率を残して一流選手になって、さらにアメリカで活躍して……。このハガキを持ち歩いて野球観戦をしながら、”青木のような選手が出てこないかな?”っていつも思っているんです」

 ヤクルトの誇る「背番号《1》の系譜」。その絆の固さが垣間見えるエピソードだった。そして現在、ヤクルトでは若きスター・山田哲人がこの番号を背負って奮闘を続けている。


若松がお守りのように持ち歩いていた青木からの年賀状

 15年オフ、山田が背番号《1》を背負うことが決まった。このときの記者会見にはサプライズゲストとしてメジャーリーガーとなった青木宣親が登場。新旧1番コンビのそろい踏みとなった。これは衣笠剛球団社長から、「直接、山田に手渡してほしい」と頼まれた青木が快諾し、このサプライズが実現したのだという。アメリカに渡った後も、青木とヤクルトの良好な関係、絆の強さが証明され、ファンは歓喜した。青木は言う。

「ヤクルトの《1》は特別な番号。プレーだけではなく、山田には人間的にもチームを引っ張っていってもらいたい」

 それはまさに、若松勉から始まり、青木宣親を経て、山田哲人へと続く、ヤクルトならではの「歴史」を感じさせる名場面だった。

 現在、ヤクルトの背番号《1》の系譜に連なる山田哲人が日本で奮闘を続けている。一方、アメリカでは彼の大先輩が節目の記録を達成した。山田哲人と青木宣親による日米で活躍するヤクルトの背番号《1》の系譜。ファンとしては、実にたまらないぜいたくな現実なのだ。


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