日本サッカー史研究会7月例会
(7月23日 東中野テラハウス)

★中野登美雄さんに聞く
 日本サッカー史研究会の7月例会で、元日本サッカー協会事務局長の中野登美雄さんのお話を聞いた。
 中野さんは大学を出たあと5年間、会社に勤めたが、日本サッカーリーグ(Jリーグの前身)の運営に協力したのが縁で1969年に日本サッカー協会の職員になり、1991年に退職するまで23年にわたって協会事務局の仕事を続けた。
だから、1970年〜1980年代の日本のサッカーの動きを日本のサッカーの中枢で体験している。
 そのころ、ぼくは読売新聞のスポーツ記者として、サッカー協会を外側から見続けていた。
 外から見ていては、よく分からなかった事情を、内部で体験していた人の思い出話と重ね合わせれば、本当のことが分かるかもしれない。
 そんな思いもあって、中野さんの「今だから話せる」ことに期待した。

★改革を実行し大改革を準備
 日本代表チームの活躍が日本のサッカーの主要な課題だと思っている人がいる。そういう人にとっては1970〜80年代は「暗黒の時代」だろう。1968年のメキシコ・オリンピック銅メダルのあと、日本代表チームは低迷を続けた。オリンピックでもワールドカップでもアジア予選で敗れて、決勝大会に出場できなった。
 しかし、日本のサッカー全体を見れば、この20年は、さまざまな改革が行われ、さらに大改革への準備をした「改革の時代」なのである。たとえば次のようなことがあった。
 学校単位だったチーム登録が年齢別の種別に改革された。
 天皇杯にすべてのチームが参加できるようになった。
 少年大会が創設され小学生年代にサッカーが普及した。
 1976年にサッカー協会の役員が大幅に入れ替わった。
 偏狭なアマチュアリズムが支配していた日本のスポーツを変える動きをサッカーが先導し、プロ導入へ踏み切った。
 女子のサッカーがはじまった。

★1990年代以降の発展の基礎
 こういう、さまざまな改革と大改革への準備があったからこそ、1990年代以降のJリーグ創設、ワールドカップ開催、日本代表チームの国際レベルへの上昇が実現したのである。
 中野さんは、その時代の出来事の「生き字引」である。
 しかし、1時間半あまりのサッカー史研究会で、そのすべてを語ってもらうことはできないから、主として次の4つのテーマを取り上げていただいた。
1.FIFA Coaching Schoolの開催(1969年)
2.日本サッカー協会の政権交代(1976年)
3.トヨタカップの日本開催(1981年)
4.ワールドカップ招致の決定(1986年)
 いずれも同時代にぼくが外側から取材していたテーマ、あるいは内側に踏み込んで関係していたテーマである。
 中野さんのお話は、その裏側を解明する興味深いものだった。記録を整理して点検し、歴史に残すべきだと思った。