■事の発端は『週刊新潮』の「裏口入学報道」

爆笑問題太田光はバカかリコウか」

なぜかテレビのワイドショーやニュースは扱わないが、これは日本の学校関係者や教育者が口角泡を飛ばして議論をしている「大問題」である。

事の発端は『週刊新潮』(8/16・23号、以下『新潮』)の「『爆笑問題太田光』を日大に裏口入学させた父の溺愛」である。

何しろ、太田は『違和感』『文明の子』『今日も猫背で考え中』『パラレルな世紀への跳躍』『憲法九条を世界遺産に』『向田邦子の陽射し』『爆笑問題と考えるいじめという怪物』『人間失格ではない太宰治』『生物が生物である理由 分子生物学』などを次々に上梓し、今では養老孟子や姜尚中、佐藤優などと肩を並べるインテリゲンチャで、お笑い芸人などという範疇を越え、小学生からも崇め奉られている日本の知のリーダーの一人なのである。

その太田に対して、畏れ多いことに「こいつは割り算もできず、父親が困って日大芸術学部に裏口入学させた過去があった」と報じたのだから笑える、ではない、そのインパクトたるや筆舌に尽くしがたいものがあった。

婦女子は涙を流し、若者たちは「ウソだ!」と怒りの声をあげ、年寄りたちは「末世」だと地に崩れ落ちた。

応仁の乱以来のディープインパクトだという者まで出た『新潮』の内容を、かいつまんで紹介しよう。

2010年10月29日、漫才コンビ「爆笑問題」の太田光さんが、初の小説集「マボロシの鳥」の刊行で記者会見を開いた。本格作家デビューに「文学少年だったので夢がかなった気持ちです」と話した。(写真=時事通信)

■高校の3年間、「誰とも口をきくことはなかった」

立川談志師匠が爆笑問題の芸を買っていたのはよく知られている。その談志師匠の「落語は業の肯定」をマクラに、太田の高校時代の話へと入って行く。

東京・板橋にある大東文化大第一高校にいた3年間、太田は「誰とも口をきくことはなかった」(『新潮』)という。

同級生が太田の印象を「休み時間になると、なぜか廊下で立っていたことぐらい」だと話している。

朝日新聞の「仕事術」の中で太田も、「高校の入学式の日です。見知らぬ誰かに自分から声を掛けるなんて恥ずかしいし、ずっと黙っていたら、そのまま高校の3年間が過ぎていってしまった気がします」と語っている。

ちなみにこの高校の偏差値は52〜59。学校紹介のページに誇らしげに、「太田光の出た学校です」と書いてある。

だが在校生のコメントには「おすすめしません」というのが多く、「可もなく不可もない」学校というところのようである。

■日大の芸術学部へ入って映画を撮ろうと考えていた

入学に際して、太田は「勉強はまったくしなかった」と、『爆笑問題 太田光自伝』(小学館文庫)でいっている。

「(日大豊山高校が第一志望だったが=筆者注)すべり止めには大東文化大付属高校と福岡高校を受けようと思っていたんだけど、先に大東が受かったから、“福岡はいっか”ってことになって。今考えると、あの時、福岡高校に行っていれば、あそこまで暗い高校生活にはならなかったかなと思うんです。(中略)でも、自分としてはちょっと地元に飽きてた時期でもあったんですよね。(中略)ま、今となっては大東に行ったから今の自分があるかもしれないし、何がよかったなんて、よくわからないんだけど」

だが太田は、大学で弾けてやる、日大の芸術学部へ入って映画を撮ろうと考えていたのだと「仕事術」の中で語っているから、胸の中では「野心」の炎がメラメラと燃えていたようだ。

日芸は医学部を除いた日大の中の花形学部で、OBには深作欣二、森田芳光、三谷幸喜、林真理子など錚々たる人たちがいる。

だが驚くではないか。先の同級生にいわせると、「太田は割り算ができなかった」というのである。

■「裏口ネットワークを使って日芸へ入れようとした」

太田本人も算数に弱かったことは認めている。ダンゴ屋でバイトをしていたとき、釣り銭の勘定ができず、客に怒られないように「なるべく多く渡していた」という。

そんな一人息子を溺愛し、心配した父親・三郎は、『新潮』によれば、「裏口ネットワーク」を使って日芸へ入れようとしたというのである。

太田は自伝の中で、父親のことをこういっている。

「親父は建築関係の仕事をしてました。でも、昔は春風亭柳好さんの弟子になろうとしたり、小説家の太宰治に自分の作品を読んでもらったりしてたらしい」

母親は"女優になり損ねた人"だという。

当時、父親は南青山にある内装会社「三光社」の社長だった。

『新潮』によれば、「日本を代表する指定暴力団の、有力親分の愛人芸者が産んだ娘がいて、そんなちょっとややこしい事情を抱えた人物と三郎氏はひょんなところから知遇を得た。そのコネを通じこのネットワークの元締めに辿り着いている。組織の力は極めて強く、『最も確実に入学できる道』」だったという。

■「父親は日大サイドに800万円を払った」

だが、裏口もすんなりいったわけではなかった。日大関係者がこう話す。

「この成績では無理だろうというレベルでしたね。太田の父親とも何度か打ち合わせの席を持ちましたが、“息子、バカなんです”と繰り返していてね」

すこしゲタを履かせる程度では入学できない。そこで、日大の現役教員が太田を缶詰にして直接指導する臨戦体勢をとったという。

それも1次試験の前日にやったというのだ。当然、当日の試験問題と同じものをやらせたに違いない。それでも2次試験の後、不合格の判定が下されてしまう。

「ゲタの履かせようがなかったんです。(中略)学科試験は太田の場合、英語と国語なんですが、英語は限りなくゼロ点に近くって。答案用紙を逆に書いたのかぁと疑うほどでして」

当時の日大総長も参加して「これは却下しよう」となった。だが、入学式の前日か数日前に状況は大逆転する。ネットワークからの圧力があったのだろうか。

結局、太田一人を合格させると露骨だからという理由で、補欠合格として他にも5〜6人入れることが決まったという。これが事実だとすると、日大は昔からいい加減な大学運営をしていたようだ。

その対価に父親は日大サイドに800万円を払ったという。84年のことだそうだから、大卒の初任給は13万5800円(厚労省の賃金構造基本統計調査より)。年収の約5年分である。

■なぜこのような記事が今頃出てきたのか

だが、太田は、それほど父親が苦労して入れてくれた日芸演劇学科を中退してしまうのである。

自伝の中に父親とのこんなやりとりがある。

「親父に“やめるよ”って言ったんです。そしたら、うちの親父が“お前、授業に出てんのか?”と聞くワケ。“いや出てない。でも、出てもまったく意味がないから”と答えたら、“わかった。それでも本当に意味がないか、もう1年通って確かめてみろ”と。それで“そうする”って答えて、もう1年確かめたけど、やっぱり意味がなかったからやめた(笑)」

こうしてみると、父親には逆らえない雰囲気があったようである。

とにかく、これほど腹を抱えて笑った、否、怒りを覚えながら読んだ記事は珍しい。

『新潮』の記事は30年以上前のこととは思えないほどディテールがしっかり書き込んである。だが、私も、なぜこのような記事が今頃出てきたのか疑問に思う。東京医科大の裏口入学が問題になっているからと、突然思いついたわけではあるまい。

当然ながら、この報道に太田が怒り狂った。

■新聞やテレビは"大誤報"をほとんど扱わなかった

自分が出ている番組で、「週刊新潮、バカヤロー、この野郎。裏口入学するわけねーだろう」と全否定。

日大関係者には「このクソガキが」といい、「そいつに合わせろよ。俺は逃げも隠れもしない。テレビで公開討論でもやるよ、ウソだって分かってんだから」とまくしたてた。

太田の父はすでに亡くなっている。

父親が、「息子、バカなんです」と話したと関係者の証言が出てくるが、太田は「うちの親父はこんなしゃべり方を他人にするようなことは絶対になかったし、へりくだるような人ではなかった」と反論している。

「俺が有名だってことで、死んだ後まで親父をこんなふうに……情けない」と話し、事務所の社長で妻の光代も「法的措置も辞さない」と息巻いている。

『新潮』は合併号だったから、2週間の沈黙。その間、太田は自分の出ている番組で吠え続けたようだ。

新聞はもちろんのこと、テレビのワイドショーもニュースも、この重大な、太田にいわせると“大誤報”をほとんど扱わなかった。合併明けの号で『新潮』が何をやってくるのかが注目された。

■証言以外に物証はほとんどないのではないか

太田は新潮社から何冊ものベストセラーを出している有力な著者である。会社が間に入って太田側と取引し、編集長名で「わび状」を太田宛に書き、穏便にことを納めるというのは、週刊誌がよくやる手法である。

私が聞くところによると、『新潮』は、日大のアメフト傷害事件を取材する中で、この話が日大関係者から出てきたそうだ。

興味を持った『新潮』編集長は、その頃の当事者から話を聞けと指示し、詳細を聞けたことから掲載に踏み切ったということのようである。

何せ、30年以上も前の話だから、証言以外に物証はほとんどないのではないだろうか。

そのせいか、8月22日に発売された『新潮』(8/30号)は「笑い飛ばせばそれで良かった『爆笑問題 太田光』の日大問題」と、新たな裏付けは示さず、リードでこう書いた。

「本誌が報じた爆笑問題太田光(53)の日大芸術学部への裏口入学事情。えらい剣幕で報道を否定する場面が生出演のラジオやテレビで繰り返された。世間を斜めに斬り笑いにしてきた人物が『そんなに恥ずかしいこと?』と笑い飛ばせなかったところに違和感が募るのだ」

裏口入学事情? 裏口入学したと断定していたではないか。笑い飛ばせ? それはないだろう。親父が暴力団に近い人物を使って裏口入学させたというのでは、この記事の中でも野末陳平がいっているように、「ふざけんなよ。芸人なんだからなんて枠はない。芸人である前に人なんだ」。

これを読む限り、どうやらこの勝負、太田光の威光に逆らった『新潮』にやや分が悪そうではある。

■「周りの人たちが、ちょっと下に見てる感じがするんだよ」

とはいっても、私には太田の裏口入学が事実ではないという反証は持ち合わせていない。まったく火のないところから煙が出たとも思わない。

だが、今回の「騒動」で、談志師匠があれほど才能を買っていた太田の、芸人としての限界が見えてしまったことが、残念である。

『新潮』の中の作家・佐藤優の意見が典型である。

「今回の猛反論ではユーモアのセンスが欠けてしまっていました。(中略)太田さんは毒舌で有名で、政治の話題にも分け入って揶揄してきた。それなのに、自分が裏口入学と報道されるとエキセントリックに反論し、それが図らずも太田さんの入学歴へのこだわりを露呈させ、何とも言えず寂しい思いになりました」

太田の本音はある番組で語った、この言葉に集約されていると思う。

「俺ホントにあの日から、周りの人たちが俺のことを見る目が、すごい何かちょっと下に見てる感じがするんだよ!」

太田は、自分は周りの人間より上だと思っていたようだ。

■怒りのあまり芸人であることを忘れてしまった

無理もない。冒頭書いたように、芸人として上り詰め、テレビや新聞などは、犯罪に手を染めない限り、不都合なことには目をつぶってくれるか全く触れない。驕っていたといってはいい過ぎだろうか。

新潮社、講談社、集英社、小学館……次々に本を出すことで、出版社はオレのスキャンダルはやらない、できないと思っていたはずだ。

あの天をも怖れぬ『週刊文春』でさえ、百田尚樹やビートたけしのスキャンダルには触らないで、同誌に連載している林真理子に叱られたではないか。

一番信頼していた新潮社の週刊誌に書かれたことで、怒りのあまり芸人であることを忘れ、生身の太田光が出てしまったのだろう。

■「東大の入学資格をお金で買えるか?」

『新潮45』(9月号)でジャーナリストの大江舜は「裏口入学、何が悪い?」というテーマで書いているが、その中で、マイケル・サンデル著『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業「上」』(早川書房)を引用している。

「東大の入学資格をお金で買えるか?」とサンデルは東大生に問いかける。合格ラインに届かない志望者がいたが、親が「自分の子供が合格したら図書館や化学実験室をつくるために44億円寄付するといった。さあ諸君ならどうする?」

最初は金で入学させるのはおかしいといっていた。だが、リョウタという学生はこう答えた。

合格にはいろいろな尺度があっていい。学力で入る人もいれば、経済的な形で貢献する人もいる。学力以外のタレントを持っていて入る人もいる。それらの人々が集い合って、自分の持っているものでお互い貢献し合うことが、社会経済、文化の発展につながる大学の役割だと考える。

サンデルはこれを聞いて、「このことを不公正だと思うだろうか?」と再び学生たちに聞くのである。

太田クン、君ならどう答えるだろうか。

私も親しくしてもらった立川談志師匠だったら、粋にこういったのではないだろうか。

「オレは割り算はたしかにできないよ。でもさ、壺算(注を参照)ならできるぜ」

おあとがよろしいようで。(文中敬称略)

▼注:壺算(つぼざん)とは

桂枝雀の名演で有名な壺算はこういう噺だ。

「駆け引きのうまい客が二荷入りの壺を買いに行った。最初は、三円五十銭だった一荷入りの壺を番頭に三円にまけさせ、手に入れる。

一荷入りの壺を一旦持ち帰りかけ、『欲しいのは二荷入りだった』と、再び店へ戻る。

番頭が「二荷入りの水を入れる壺は、一荷入りの倍です」という言葉尻をとらえ、「三円で買ったんだから六円だろ」と、本来七円の壺を六円で売ることをしぶしぶ認めさせる。

そこで、今持っている一荷入りの壺を「下取りしてほしい」といい、番頭がどうぞどうぞというと、先に渡した三円と合わせて「六円になるな」といって、壺を持ち帰ろうとする。

番頭が、それはおかしいといいながら、いいくるめられ、しまいに番頭はベソをかいて、

「すいません、前にお持ちになった一荷入りの壺、持って帰って下さい」

客が「一荷入りはいらねえんだ」というと、

「その代わり、いただいたこの三円もお返ししますから」

私は、今でもこの噺を聞くと、客のいい分の方が正しいと思ってしまう。大学は出たけれど、私は足し算さえできないのである。

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦 写真=時事通信フォト)