アイデアは複雑にするよりもシンプルに考えていったほうが本質が際立ちます(写真:ふじよ / PIXTA)

「優れたアイデアを生むためには何が必要か?」というのは普遍的なニーズだ。企業の新商品や新サービスの開発現場では、「企画はかけ算」という言葉を口にする人も少なくない。
そんな中、「アイデアは『かけ算』ではなかなか生まれない」と語る『京大式DEEP THINKING』の川上浩司氏が明かす、クリエイティビティを高めて、アイデアを創出する秘訣とは?

まったく異なる2つのモノを掛け合わせることで、新しい存在を生み出す「かけ算発想」。たとえば、「コーヒー」×「牛乳」=カフェオレ、といった具合だ。これは一見正しいように感じるし、確かに「何かと何か」を掛け合わせれば新しいものが生まれそうな気がする。本当に「かけ算」でアイデアを生むことができるのだろうか?

「かけ算発想」に潜む大きな落とし穴

そもそも「アイデアはかけ算」というが、「足し算」とはどう違うのだろう?

「コーヒー牛乳」でも「カフェオレ」でも、牛乳の分子とコーヒーの分子がごちゃ混ぜになっているわけであって、状態としては「コーヒー」と「牛乳」が足されているだけ。「赤」と「青」を混ぜると「紫」に見えるが、拡大すれば「赤いドット」と「青いドット」が並んでいるだけだ。

印刷業界の人は「色の掛け合わせ」と表現するが、これはあくまで足し算。種と種の交配も、遺伝子レベルでは組み合わせが変わっている現象といえる。

かけ算をすると、本来は「単位」が変わる(長さ×長さ=面積のように)ものの、色と色を掛け合わせても単位は変わっていない。また、かけ算で考えられたとしても、単位が変わるということは発想が別次元に飛んで行ってしまう可能性もある。優れたアイデアを考えようとしたとき、本当にかけ算で実現できるのは極めてまれなのだ。

私が主に研究している「不便益」(不便だからこそ得られるメリット)の観点から考察すると、われわれの周りにある便利なモノは「足し算」でできていることが多い。ただ、電子レンジでもスマホでもPCでも、使いもしない機能がてんこ盛りになっている機械は多く、マニアには「こんなこともできるんだ」とうれしいお得感があるかもしれないが、ほとんどの人にとっては意味をなさない。何かを「足す」時点で、実はそのモノが持つ「本質」を薄めてしまっている確率は高くなるのだ。

ではなぜ、人々はアイデアを「足し算」で考えようとするのか。

1つには、どんどん機能が付け足された「便利なモノ」ばかりが目に入るので、「便利」こそが正義だと思い込んでしまい、私たちが発想をする際にも目にするさまざまな多機能なモノの影響を受けて「何かと何かを組み合わせる」ように頭は思考しがちになることが挙げられる。

もう1つの理由としては、アイデアを作る側にとって「足し算で発想」するのが比較的容易だということがあるだろう。

「珍しい鉛筆を作れ」と言われたとき、足し算なら(形になるかどうか、ビジネス的に成り立つかどうかはともかく)どんどんアイデアが浮かんできやすい。

「消しゴム付き鉛筆」ならぬ、腹が減ったらすぐにかじれる「ドーナツ付き鉛筆」、「香り付き鉛筆」「カメラ付き鉛筆」……。足し算の場合、「鉛筆」という原型があるわけだから、あとはそこにくっつけるモノをチョイスすればよく、割合思いつきやすい。

「足し算」で新しいモノを生み出すのは、実はかなりリスキーといえる。なぜなら「足すは無限」、数が膨大すぎるから。足し算でモノを作っていくと、足すモノは無限に存在するのでバリエーションも無限に増えていく。大量のモノがザクザクとできていく中、「いいモノ」を作るというのは難しい。

足し算、あるいはかけ算で大ヒットが出る可能性もあるが、何と何を足すかの組み合わせは今の物質飽和時代、無限にあるのだから、その中で「最高の組み合わせ!」となるのはほとんどギャンブル的な確率となるだろう。

「リンゴをかじる」ように考える

こう考えると、良い発想をするには、足し算より「引き算」がよさそうだ。「足す」が無限なら、「引く」は有限。それにアイデアの場合、いくら引いてもマイナスにはならない。「鉛筆に何かを足す」なら組み合わせは無限だが、「鉛筆から何を引けるか」といえば限られてくる。

以上を踏まえると、シンボリックなマークとして定着しているAppleのロゴマークのリンゴも、何か足してもよかったところを、あえて一口かじって「引いて」あるのはさすがなのだろうか? iPhoneも携帯電話からたくさんのボタンを引いたといわれている。

「同じ機能ならシンプルなほうがいい」というのは、デザイン学の分野では古くから「オッカムの剃刀」として知られている。中世イギリスの神学者ウィリアム・オッカムが言うところには、「不要なものは切り捨てよ、物事をシンプルにとらえよ」とのこと。できるだけ要素を絞ってシンプルに考えることこそが、アイデアの秘訣であることは何百年も前からいわれてきたことだったのだ。

何を引けばいいのか。不便益の研究で引き算発想をする際は、「便利な手段」は引いても「経験そのもの」は引かないというルールを設けている。実際問題、「経験」を抜いてしまうと、引き算発想は途端に立ちいかなくなる。

私は、公園からすべてのリスクや冒険を引き算した「ケガなし公園」というのを考えたことがある。安全性をひたすら追求するので、転ぶ可能性がわずかでもある遊具はすべて排除しなければいけない。

たとえばブランコは危険極まりないので当然だめ。砂場すら案外危ない。こうやっていくと、結局すべての遊具がなくなり、「公園から冒険という経験を抜いたら、あまりにつまらなくて子どもたちは遊ばない」という結論に達した。

過剰な引き算をすると、公園における「本質」まで奪ってしまうといえるだろう。遊具体験という「経験」にこそ「公園の冒険性」という本質は潜んでいるのであって、経験を引いてしまうと本質まで削り取ってしまうのだ。

しかし、次の例のように、「手段」を引き算すれば、説得力に欠かせない「本質」と「経験」が強調されるといえる。

「観覧車から窓を引く」ように発想する

大阪の遊園地・ひらかたパーク内に2016年にできた「ロシアン観覧車」では、40台のゴンドラのうち4台は景色を見渡せる窓がない。黒っぽいシートで窓が覆い隠されているのだ。

観覧車は景色を楽しむものだと思われているが、必ずしも変わりゆく景色を眺めることが「経験の本質」とは限らないだろう。

そこで、観覧車のゴンドラから「景色を見る」という手段を引き算すると、「特別な場所で空間をシェアし続ける経験」が残る。「何が本質か」は人によって多少変わってくるが、観覧車を利用する2人組には実はそれが本質だった、ということがわかるかもしれない。

「手段」を引き算して要素を絞ることで、「本質」がより際立つのである。

交差点で「ルーレット」によって東西南北の進行方向が決められ、盤の目状になった京都市内をウロウロ旅する「すごろくツアー」というものも、通常の旅から「目的地に向けて移動する」という手段を引き算したものだ。

通常の旅では、「目的地=到達すべき場所」であるが、「旅の本質とは何か」を考えると、「目的地に到達すること」ではない。

私のように「その土地そのものを味わう」という経験が旅の本質だというタイプの人間には、「すごろくツアー」は旅の本質がより実感できる正しい引き算といえる。ただし、そのモノが持つ本質は人によって異なる、属人的なモノである。

大事なのは、漠然と本質をぼやけさせたまま「足し算」的にアイデアを考えるのではなく、複数ある手段を引き算してみて、「いちばん人にとって受けやすい本質ってなんだろう?」と考えることではないだろうか。

「手段を引く」ことのもう1つの効用

手段を引き算すると一瞬不便になりがちだが、「価値が高まる」という反作用もある。


スティーブ・ジョブズのお気に入りだったといわれている京都の西芳寺は通称「苔寺」として知られているが、参拝の予約をとる手段が「ハガキ」というレトロなシステムだ。

今は当たり前のように行われているメール予約、電話予約という手段がない。なかなか行けないので、訪れたらその経験を心して味わおうと思うだろうし、「希少性」という価値も生まれて人気を博している。

単に生協のルールがあるから京大の生協以外では販売できなかった「素数ものさし」(これも、ものさしから「素数以外を目盛る」手段を引いた産物)は、なかなか買えないから人気が出たといわれることがある。確かに、CDは売れにくくなっているのにライブに行く人は増えており、ロットが少ない限定品はあっという間に完売してしまう。

このように、手段を引き算する「引き算型発想」でアイデアを考えれば、より本質が際立った、人々から注目されやすいアイテムを作り出せる確率が高まりそうだ。

本質が際立った「シンプル」なアイデアには「引き算」というアプローチがあり、そのアプローチで発想に挑めば物があふれているからこそ目立つ存在を作っていけるだろう。これがイノベーションに至る新たな入り口となりうるのだ。