『ドライチ プロ野球人生「選択の明暗」』(著:田崎健太/カンゼン刊)

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プロ野球ドラフト会議の季節がやってきた。今年は早稲田実業学校・清宮幸太郎選手や、広陵高校・中村奨成選手のドラフト1位指名が予想されている。「ドラフト1位」という言葉には、華々しい響きがある。だが、鳴り物入りで入団したものの、結果を残せずに消えていった者もいる。第2回は元読売ジャイアンツの辻内崇伸選手。「ドラフト1位の光と影」をノンフィクション作家・田崎健太氏が描く――。(全3回)

※以下は田崎健太『ドライチ ドラフト1位の肖像』(カンゼン刊)から抜粋し、再構成したものです。

■才能とはもろいものでもある

才能とはたくましいものだ。泥濘の中に押し込まれていても、才能があればいずれ頭をもたげてくるはずだというのは正しい。

一方、才能とはもろいものでもある。ふとしたつまづき、ちょっとした不注意で、砂で作った城のようにあっけなく崩れてしまう――これもまた事実である。

辻内崇伸の名前が広く知られるようになったのは、2005年の夏の甲子園だった。

大阪桐蔭高校の背番号1を背負った辻内は2回戦で、茨城県代表の藤代高校と対戦。150キロのストレート、カーブ、フォークを駆使し、9回19奪三振を記録した。これは1試合最多大会タイ記録となった。

細い眉毛に鋭い目つきという、ふてぶてしい顔つき、180センチを越える躯、躍動感のあるフォーム、そして貴重な左腕――。

準決勝では北海道代表の駒大苫小牧高校に延長で敗れたものの、秋のドラフト会議で上位指名されるのはもちろん、プロで将来何勝するのか、あるいはメジャーリーグに進むのか。この左腕の将来は明るい光の中にあると誰もが思ったことだろう。

2005年のドラフト会議で辻内は読売ジャイアンツとオリックス・バファローズの二球団から指名された。抽選でジャイアンツが交渉権を獲得した。

将来のエース候補、高卒新人の辻内はキャンプ前からスポーツ紙に追いかけられることになった。

「キャンプでは毎日、最初と最後、囲み取材があるんです。チームの人に『二軍なのに、こんなに囲まれるというのはなかった』って言われましたね。(囲み取材で)話すことなんかないんです。でも、(記者は)なんか言わせたい。ぼくは言わない。ちょっとの言葉を膨らませて書かれることは分かっていましたから。実際にそういう発言をした選手がチームで浮いていたのを見てました。ぼくについても(捕手の)阿部(慎之介)さんに叱られたとか、そういうのを書きたいんです。ああ、これがドラフト1位の宿命なんやと」

ジャイアンツの関連企業であるスポーツ報知の紙面では、連日、辻内の名前が踊っている。

〈キャンプの応援に両親がやってくる〉
〈疲労回復を早める”黄金水”を導入〉
〈元横浜の佐々木氏から大魔神フォークを伝授される〉
〈辻内肉体改造〉

といった類いの記事だ。もちろん内容はほとんどない。また、ほかの高校ドラフト1位の選手から辻内へのメッセージを送るという連続コラムまで始まっていた。

メディアからの注目に加えて、辻内はプロの練習の厳しさに面食らっていた。

「プロでもこれほど練習するんだというぐらい。キャンプは厳しかったですし、その後もそうでした」

そんな中、肩の痛みが出ていた。

「野球やっている人はみんなそうだと思うんですけれど、古傷はいっぱいあります。中学生のとき、肘の痛みで半年投げられなかった。でも、手術はしていない。自然治癒です。肩も高校のときに無理して投げて、痛いと感じることもありました。でも1カ月休むと治った。ちょくちょく痛めるけど、軽度で終わっていた」

しかし、プロではそうはいかなかった。

「プロに入ったら毎日投げる。痛くて投げないと怪我人にされてしまう。お金を貰っている以上、野球をしなきゃいけない」

2006年シーズン、辻内は二軍戦であるイースタンリーグで13試合に登板、34敗、防御率6.04という成績だった。二軍の選手を対象としたフレッシュオールスターに選出されたが、肩の痛みを理由に辞退している。

■「靭帯がない」叫びたいほどの肘の痛み

そしてプロ2年目、2007年2月、キャンプ開始から5日後のことだ――。

前シーズンのジャイアンツは4月こそ好調だったが、その後は失速。球団史上初となる2年連続Bクラスという成績だった。監督の原辰徳はチームの雰囲気を変えなければならないと、キャンプを精力的に動きまわっていた。

原はブルペンに顔を出すと、「そんな球でいいのかよー」と観客に聞こえるように大声で檄を飛ばした。これはキャンプに足を運んでくれているファンへの彼なりの心遣いだった。

その日、観客から多くの拍手が出たと原が判断すればその投手の投球練習が終了することになっていた。

以下は辻内の回想である。

「10球ぐらい、肘が痛いまま投げていました。『ああーっ』て叫びたいぐらいの痛み。それでも投げなあかんと思って投げたら、ボールが変なところに行ったんです。投げた後、声が出せないぐらい肘が痛かった」

その様子を見た原は「お前、もういいよ」と辻内に引き揚げるように命じた。ブルペンから出て、軽くランニングをしている最中、肘をさすってみた。肘のあたりが麻痺しているようで、動かすと痛い。チームドクターに相談すると、患部を冷やし、明朝に様子を見ることになった。

すると――。

翌朝、肘の痛みはさらにひどく、全く動かすこともできなかった。そこで、キャンプを切り上げて、東京に戻ることになった。いくつか病院を回ったが、痛みの原因は不明。ようやく館林にある病院で症状が判明した。

「靱帯がない、と言われたんです。靱帯が切れていると。もう尋常じゃないぐらい痛かったので、軽症ではないなと思っていました」

この年の4月26日に辻内は靱帯再建手術を受けた。いわゆるトミージョン手術である。

「手術を受けた後って、自分の腕じゃないみたいな感覚なんです。ボールを投げていいよって渡されて、ふわっと投げてみた。そうしたら、投げ終わった後、肘の辺りがビーンっと振動しているような嫌な感覚があるんです。その後、リハビリしても、その痛みはとれない」

それからは痛みとの闘いだった。

「手術の後、リハビリをして投げたら、151キロ出たんです。スピードが落ちなかった、良かった、と思っていたら、次の日、痛みで投げられない。もう激痛です。それが3週間ぐらい続く。リハビリをして良くなったら投げるとまた痛くなる。その繰り返しでした。この痛みって取れないんだと思いました」

■解雇をまぬがれるために投げた最後の日々

ある時期から、自分はプロにしがみつくためだけに投げていたと辻内は明かした。

「プロ入り5年目ぐらいに結果が出ていないとクビになるわけです。だから(シーズン終了後、秋に二軍選手を主体とした)フェニックスリーグとかで速いボールを投げないといけない。そのときはクビになるという恐怖もあって腕が振れる。シーズン中投げられなかった150キロが出たりするんです。痛みはありますよ。フェニックスリーグへ行く前に、肩と肘に痛み止めを打ってもらってました。それで2、3週間は持つので投げられる」

痛みを抑えるためには、考えられるすべての手を打った。中継ぎの投手などが肩を温めるために使うクリームも使った。

「それを塗ると熱くなって汗をかくせいもあって、痛みを感じないんですよ。熱いだけ。夏場は熱くなりすぎて塗れないけど、寒いときには使えるんです」

来季への希望を見せて、毎年、なんとか解雇を免れるという状態だった。

「冬に無理するから、キャンプ前の自主トレからずっと痛い。どうしょう、と思っているうちにキャンプが始まる。初日から投げないといけない。痛い。無理する。はい、終わり、です」

無理するところが違ったんですよと、辻内は自嘲気味に笑った。

戦力外通告を受けたのはプロ入りから8年目、2013年10月のことだった。

期待のドライチは、一度もその速球をプロで披露することなく引退した。

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田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日、京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951−2015』(集英社インターナショナル)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太)