越智は引退に直面するより前から、自らに対し「プレーヤーとしてよりも、選手を支える側、育てる側としての方が活きるのではないか」という客観評価を与えていた。つまり、現役を離れてもサッカーと関わる仕事に就くことを意識していたということだ。しかし、山形からゼロ円提示を受けると、一旦サッカーから離れる道を選ぶ。しかも山形に残って。故郷の埼玉に帰って仕事を探す選択肢もあったはずだが、小さなプライドが邪魔をした。中学生の頃から将来有望な選手として新聞に載るような子だったから、4年でプロを辞めてどんな顔をして帰っていいかわからなかった。最初にしたことは、山形の知己を頼って酒店に職を求めることだった。店番もすれば配達もする。飲食店の裏口にビールケースを積み、個人の家のドアフォンを鳴らす。「あれ?」と気づかれることもあったが「働かせてもらっているんです」と明るく返した。酒店での仕事は半年ほども続いた。

 そんな越智に、山形のコミュニティFMで番組を持たないかというオファーが舞い込む。元山形選手という肩書きがあったからこその話ではあったが、サッカー番組ではない。週1回、山形県内の様々な情報を紹介する2時間半のラジオ番組をパーソナリティとして1人で回す。県内各地に出かけてのレポートあり、様々な仕事、活動をする人たちへのインタビューあり。文字通りど素人からの出発だったが、2005年からラジオ局が閉局する昨年まで続いたこの経験が、彼の「聞く力」と「発信する力」を磨いたのは間違いない。

 ただ、いくら独り身でもこれだけでは生活していけない。サッカーから離れたいと思いながらも、頼まれたフットサル教室のコーチの仕事を受け、パートタイムで通い始めた。そして2007年、「スカパー!」解説者として再びプロの世界と接点を持つ。さらに2010年には、アルバイトのような立場で関わっていたフットサル教室のオーナーから、フットサルコートとスクールの運営を任される。代表を務めることになった越智は、そこでチームを立ち上げ「自分は育成年代の指導に向いている」という自己評価の正しさを証明していく。今では小・中学生合わせて約200人を擁する町クラブになったS.F.Cジェラーレは、現在湘南でプレーする神谷優太が小学4年から5年当時に所属していたクラブだが、「プロの選手を出すことが優先事項ではない」と明言する。

「自分は途中でサッカーに疲れちゃった時期があるけれど、サッカーは本当に楽しいし、一生できるスポーツ。どんな関わり方でもいいから、ずっとサッカーに関わってくれる人間を育成したいというのが、ジェラーレの一番の方針です」。

 いろいろなことに前向きに取り組んでいける心の持ち様を、サッカーを通して育んでいきたいのだと、35歳になった元Jリーガーは言う。それはまさに、彼自身だ。サッカーに疲れ、サッカーから離れても、視野を広げて前向きにチャレンジしてきた道こそが今の越智隼人につながっている。彼は今、ジェラーレの代表であり、同クラブジュニアユースの監督であると同時に、プロの視点からサッカーを語れる山形では貴重なメディア人である。ゲーム解説はもちろん、クラブ公認の情報誌ではじっくりとした長い選手インタビューも担当。テレビ出演に加えパブリックビューイングやイベントのMCもこなす。引退して13年目になるが、モンテディオのサポーターに「越智さん」を知らない人はいない。

「まだ35歳。ずっと山形にいるとは限らないし、先のことはわからない」とは言うものの、山形の暮らしは気に入っている。癖の強い山形弁も「ヒアリングはパーフェクト」と誇らしげだ。2011年には山形の女性と結婚し、今年生まれた第1子の名前には、山形にちなんだ一文字も入れた。この先、たとえもっと広い世界にキャリアを求めていくことがあるとしても、その軸足を山形から離してしまうことはないだろう。そう断言できるほどに、彼はもう「山形の人」になっている。

文=頼野亜唯子