できるだけ多くの選手を使いながら勝利を追求しようとした手倉森監督。これを実行するには相当な勇気が要る。この文化、思考法が根付いていない状況下ではなおさらだ。誰からも頼まれていないのに、彼は自らに高いハードルを課した。現実主義と理想主義があるとすれば、これは明らかに理想主義。苦しい状況に追い込まれれば、大抵の人間は現実主義に走ろうとするものだが、手倉森監督は最後まで理想主義を貫いた。

 全員選手を使うことはフェアな行為だ。平等主義に基づく思考法になるが、例えば日本のスポーツ文化の象徴である部活動は、その対局に位置する。大量の控え部員、いわゆる補欠を生産する装置といっても過言ではないが、その文化を不平等だと言って否定する人は少ない。出場する選手と、出場しない選手とに部内が二分されるのは当然。3年間、補欠だった選手が裏方に徹する姿を、美しくもノーマルだと捉えるスタンダードがある。

 だが、それでチーム内の熱、そのモチベーションの総量は上がるだろうか。競争心に火は点くだろうか。それは競技の特性で分かれるが、部活的な思考法は、サッカーに限っては正解とはいえない。フェア、平等の精神を勝利追求の武器に活かすこともできるのだ。ともするとそれは理想主義に見えるが、勝利追求のために不可欠な現実主義的な采配でもあるのだ。理想と現実が融合すれば最強だ。今回は理想主義者からも、現実主義者からも揃って絶賛の拍手を送られている状態。常にベストメンバーで目の前の敵と一戦必勝の気質で戦う方法論が、臆病者の思考法に見えるほどだ。

 手倉森スタイルが、日本サッカー界のスタンダードになる日を願わずにはいられないのである。