こうした小学生時代の活躍は、柴崎の将来を大きく膨らませた、ある男の目にも止まる。
 
「ひとりだけ次元が違った。小学生なのに、あれだけ周りが見えている。だから、プレーに変化を加えられた。すぐに欲しいと思ったよ」
 
 こう語るのは、青森山田高の黒田剛監督だ。青森山田高を全国屈指の強豪校に育て上げた指揮官は当時、附属の青森山田中の強化に乗り出していた。当然、県内で有名になっていた野辺地町の天才少年に一目惚れしないわけがない。黒田は、その才能に無限の可能性を感じ、すぐさま青森山田中への進学を勧めた。
 
 一方、柴崎も黒田の誘いを好意的に受け止めていた。しかし、本人の意思とは裏腹に、最初は両親に青森山田行きを反対されたという。
 
「その反対を押し切って行くことにしました。(黒田監督に)声をかけてもらうまでは、地元の野辺地中に進もうと思っていましたけど、青森山田から誘いを頂いたので迷わず決めました。元々、興味はあったんです。小6の時に入っていた県トレセンのチームで、ひとつ年上のトレセンチームと試合をした時に青森山田中の選手が何人かいて、その相手にあまりにも自分のプレーが通用しなかった。だから、自分より実力が上の選手がいるところで成長したいと思っていたのもありました」(柴崎)
 
 ライバルが見当たらなかった柴崎は、自分より上の存在がいることが嬉しくて仕方がなかった。これは今も当てはまるが、この男は常に『自分が一番』という環境を嫌う。
 
「僕は目に見えて分かることが好きなんです。例えば、小6の時は通用しなかったけど、新しい環境(青森山田中)で、すべてが通用するようになった時は、自分が成長しているんだと実感できますから」(柴崎)
 
 常に超えるべき目標を求め、そこから学び、自身を高めることに喜びを見出す。そんな柴崎にとって、青森山田中からの誘いは、このうえないチャンスだった。両親にも、その熱意が伝わったのだろう。最終的には彼の強い意志を尊重し、快く青森山田への進学を了承したそうだ。
 
 当時の青森山田中の同級生は、豪華な顔ぶれだった。現在、清水で正GKを務める櫛引政敏も黒田監督に声をかけられ、青森県内の小学校からやってきた。同じ野辺地SSS出身で後に選手権準優勝メンバーとなる横濱充俊もまた、一緒に進学した。
 チームメイトに恵まれた柴崎は、青森山田中で実力をメキメキと伸ばしていった。2年生の頃には、すでにチームの大黒柱として活躍。その年の全国中学校サッカー大会では、準決勝で日章学園中に敗退したものの3位という好成績を収めた。しかし、ここでも負けず嫌いの虫が騒ぎ出す。3位の表彰式の列に柴崎の姿がなかったのだ。
 
 黒田監督は当時を振り返り、こう証言する。
「気付いたらいなくなっていた。スタッフで手分けして岳を探しに行ったら、スタジアムの隅っこの階段の下で、膝を抱えて泣いていた」
 
 こうしたケースは、一度だけではなかった。小学生の頃と同じく、試合に負けると輪から外れて、誰もいないところで泣いていたという。
 
 そんな柴崎に転機が訪れたのは、中学3年に進級する春だった。別格のプレーを見せていた実績を買われ、飛び級で高校のチームに参加するようになったのである。
 
 2007年3月。全国の強豪校、強豪Jクラブユースが集結するマリノスタウンカップ(現F・マリノスカップ)が、中学生だった柴崎の“高校デビュー”戦だ。
 
「今日は期待の中学生を連れてきているから、このチームでどう機能するか楽しみだよ」
 当時の黒田監督はそう語っていたが、この大会で青森山田高のスタメンとしてプレーした柴崎は、強豪相手に、そして年上のチームメイトを相手にまったく遠慮せず、ボランチとして堂々たる存在感を見せた。そのプレーの精度はもちろん、落ち着き払った佇まいは衝撃的だった。