経団連の歴代会長

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■すべての歴代会長が「製造業出身」の理由

日本経済団体連合会(経団連)は、1月14日、現会長である住友化学の米倉弘昌会長の後任として、東レの榊原定征会長を起用する人事を発表した。

米倉の就任は、「経団連の会長は財閥系企業からは選出しない」という不文律を破るものだったが、今回はさらに副会長を退いていた榊原を会長として呼び戻すという異例の人事であり、さらなる話題を呼んでいる。

経団連会長は、かつて「財界総理」と呼ばれ、政界、官界に大きな影響力を有していた。だが、現在では経団連の影響力が低下し、会長の地位も魅力的ではなくなっている。このため後任選びが難航し、異例の人事が続いているとみることができる。

米倉は昨年6月から、後任について、「ものづくりのトップが説得力がある」と述べ、製造業出身者が望ましいとの見解を示していた(※1)。なぜ米倉は製造業出身者にこだわっていたのか。ここには発足以来となる経団連の存在意義に関わる論理が隠されている。

歴代の経団連会長の共通点は、第1に、旧財閥系企業出身者ではないという点であった。三井、三菱、住友といった特定一族の株式所有によって支配された、ピラミッド型の企業組織、すなわち財閥は、戦前期の日本経済界を牛耳っていた。これに対し、戦後の経済界で最大の地位にある経団連会長には、東芝、新日本製鐵、東京電力、トヨタ自動車といった、それ自体が企業集団と言うべき規模を有し、資金供給源も特定の金融機関に頼らない、独立系企業の経営者が就任することになったのである。なお、東レもそうだが、東芝、トヨタ自動車は三井系とされるものの、三井グループは戦前来個別企業の独立性が高く、これらの企業も独立系企業としての色彩が強かった。

第2に、金融機関やサービス業からの会長就任がなかったことである。これは別の経済団体である経済同友会のかつての幹部構成を見るとよくわかる。同友会は1963年まで2人代表制を採っていた。このうち1人は金融業界から、もう1人は製造業界からとなっており、そこには金融業界と製造業界の利害を調整する意図があった。

つまり経団連は金融業界による支配を嫌った、製造業界のヘゲモニー下にある。それは戦前に財閥という金融業界に支配されていたことの反動であり、そして財閥解体で企業グループが分散し、どのグループからも等距離の企業による調整が必要になったからである。

このように、今回の会長人事は、日本の経済界が、米国や英国のような金融主導型の経済構造ではなく、依然として製造業界にその実権があることを物語っている。これは、たとえば経団連が為替政策で輸出に有利な「円安」を志向しやすい理由でもある。

次に、政治と経団連の関係に眼を転じてみよう。経団連は、戦後、政治との距離を適切に保つことで、要望の円滑な実現を図ってきた。というのも、日本の経済界は、戦前・戦中において、政治との癒着を深めた結果、GHQに戦争協力の責任を問われ、財閥解体を強いられ、経済団体についても自主的な解散を促された。こうした経験から、戦後は個別企業による政治献金を避け、特に高度成長期には、各社からの政治献金を、経団連が一旦まとめあげてから自民党に流すという仕組みを整えた。個別企業や業界との癒着が進まないシステムを形成したのである。

では、直接的な政治献金を行わずに、経団連はどうやって政治に自らの要望を実現させてきたのだろうか。

この点についても、歴代会長ごとに経団連の権勢を見比べることで、その論理と構造が見えてくる。

歴代会長のなかで、政治に対して強硬に要求を突きつけ、その実現を果たした人物としては、第2代の石坂泰三(東芝)、第4代の土光敏夫(東芝)、第8代の豊田章一郎(トヨタ自動車)が挙げられる。

石坂は戦後直後、東芝の労使紛争を解決した実績で知られ、それは企業協調的な労働組合運動を形成する一助となった。そうした自由主義を貫き通した実績を背景に、石坂は経団連会長として、貿易・為替の自由化、資本自由化を政府に強く迫った。

土光はその東芝が60年代半ばに再び経営危機に陥った際、その再建を果たした。経団連会長時代よりも、80年代に入り、第二次臨時行政調査会、臨時行政改革推進審議会の会長として、政府に睨みを効かせ、行革を迫った。

豊田はトヨタ自動車をグローバル企業に発展させた功績で知られ、90年代半ばの橋本龍太郎内閣に、「橋本六大改革」という構造改革を実行させた。

3人に共通しているのは、政治に頼らず、企業経営を成功させた結果、政府に対して経済界の利益を強く主張できたということである。これは、高度成長期の諸先進国で、労使対立を調整するために、労働者党政権が誕生して福祉国家政策が進められたことに比べれば、非常に特異な状態であった。

■楽天・三木谷が脱退課題は政権との近さ

これに対し、第3代の植村甲午郎は、高度成長がもたらした負の側面、公害やインフレといった問題で一般国民からも攻撃を受け、ニクソン・ショックや石油ショックに対してもリーダー・シップを発揮することができなかった。また「橋本六大改革」が山一證券や北海道拓殖銀行の破綻を生んだ後に第9代の会長になった今井敬(新日鐵)、リーマン・ショックと民主党政権誕生への対応に追われた第11代の御手洗冨士夫(キヤノン)、震災と原発問題に遭遇した現会長の米倉は、政治に頼った企業経営を必要としたため、政治との関係では、劣勢を強いられた。

興味深いのは第10代の奥田碩(トヨタ自動車)である。奥田は今井とともに、旧経団連と日本経営者団体連盟の統合を主導し、また、新生経団連の初代会長として、小泉純一郎内閣の経済財政諮問会議に参画した。当時、トヨタはバブル崩壊後の数少ない勝ち組として、1兆円を超える利益を稼ぎ出しており、小泉内閣にも強い影響力を発揮すると思われた。しかし結果的には、そうはならなかった。

奥田は、自身の上司でもあった豊田が経団連会長として求めた「橋本六大改革」の失敗を教訓に、急進的な改革よりも漸進的な改革を望むようになっていた。そのため、消費税増税や法人税減税、社会保障改革、雇用規制緩和などを要望していた。だが、小泉には、国民に不人気な漸進的な政策ではなく、見栄えのする急進的な改革を目指したいという意向があった。このため「郵政民営化」が改革の焦点となったのだが、小泉政権と一蓮托生となっていた奥田はその流れを変えられなかった。

こうしたことから考えると、経団連が権勢を保つ必要条件は、第一に、政府に頼らずに企業経営を成功させること、第二に、政治に深入りしすぎないことであると言える。

第12代の現会長・米倉弘昌は、自民党政権に深入りしすぎた反動として、民主党政権と疎遠になり、「六重苦」と呼ばれる経営環境に苦しんだ。

今回、経団連会長が引き続き製造業界から選出されるということで、ひとまず政治に対しては引き続き漸進的な改革を求めることが予想される。他方、政治との距離の取り方に関する失敗は尾を引くとみられる。2012年の総選挙の際、米倉は「アベノミクス」に対して疑義を呈して安倍首相との関係を悪化させた。また、安倍政権による賃上げ要請に対しても、徹底した反対を貫くことができず、春闘に対する方針提言、『2014年版経営労働政策委員会報告』では、遂にベース・アップを容認するに至っている。

このような、言わば腰が引けた経団連に対しては、例えば楽天の三木谷浩史がその体質に失望して新興産業主体の「新経済連盟(※2)」を立ち上げたように、これから成長が期待できる産業に限って離反していくことも予想される。

新体制の経団連が権勢を回復するための2つの条件を満たせるかどうか。既に榊原は産業競争力会議のメンバーとして安倍政権の中枢に入り込んでしまっている。その近さは、これまでの経団連と政治の歴史を考慮すると、むしろマイナスに影響するだろう。(文中一部敬称略)

※1:日本経済新聞電子版「経団連会長『後任会長は製造業から』政権との距離が課題」(2013年6月4日)。
※2:前身は2010年2月に設立された「eビジネス推進連合会」。12年6月に「新経済連盟」と改称。新経連の団体資料によると、団体会員数は693社で、そのうち上場企業は97社(2014年1月8日現在)。

(答える人=菊池信輝(都留文科大学准教授))