アンチドロップアウト 第3章 vol.8 part4

 2013年秋、小澤の携帯電話がバイブで着信を知らせていた。通話ボタンを押すと、腰の低い、丁寧な口調で礼を言った。

「トレーニングジムで知り合った方が、『栗が採れたから、取りに来なよ』って。人情を感じますよね」

 小澤は感謝の思いを口にした。

 新潟を退団してからはいくつかの入団オファーを受けていたが、いずれも丁重に断っていた。

 3月には北信越の地域リーグのクラブとタイのプレミアリーグから2チームが、「Jリーグで経験豊富な選手を」と名乗りを上げている。しかし夫婦が共通理解をする前で迷いがあったことと、「家族と遠く離れ、一人で暮らすべきではない」という妻の思いが大きく、断った。

 5月末には、トップチームのGKが戦線を離脱したJ1のクラブから契約の申し出を受けた。しかし、「復帰するまでの2ヵ月間だけいてくれればいい」という"非常勤"で(Jリーグ規約でそれは禁じられているために実際には6ヵ月契約の打診だった)、状況を考えれば悪い条件ではなかったが、小澤自身の覚悟には相応しくなかった。
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 6月にはJリーグ参入を目指す県リーグのクラブから、「ホームページを見て声を掛けさせてもらいました」と連絡があった。熱意を感じて具体的な契約交渉を続けたが、"現場の指揮と給与を決定する人が同じ"というアマチュアクラブ特有の状況を想像すると、どうしても受け入れられず、最終的には詫びながら断りの電話を入れた。

 来年40歳になる"休業中"のGKにこれだけのオファーが舞い込いこんでいることは、彼がこの世界で評価されていることの証左だろう。しかも、それらの誘いを「武士は食わねど高楊枝」で断るという行為に、彼のひとかたならぬ決意が感じられる。

「所属チームはないですが、"ゴールキーパーとしての可能性は広がっている"と僕は確信しているんです」

 小澤は燃えるような目をして言う。

「毎日、午前中に近所の公園で体を動かしているんですが、週末には試合を想定し、"90分間ピッチに立つ"んです。体は反応するので、"1試合を終える"とかなり疲労しますね。芝生の公園ですが、周囲ではおじいちゃんやおばあちゃんがゲートボールをやっています。『お兄ちゃん、なんかの選手なのかね?』なんて興味深そうに話しかけられたりするんですよ」

 普段は口数の少ない男は、穏やかな顔つきで続ける。

「一人でトレーニングをしていれば、弱気になることもなりますよ。"試合だ"なんて言っても、誰も見ていませんし、自己満足のように思うこともあります。でもその度、『ヒデ、これくらい平気だろ!』って自分に発破をかけるんです。『今やっていることが、満員のスタジアムで同じことにつながると信じろ!』って。そうならないかもしれない、という思いを打ち消し、乗り越える。その繰り返しですよ」

 GKとして実直に生きてきた男は、飾りのない笑みを浮かべた。彼が闘争してきた世界。それは所属チームがあった時代も、本当の敵はクラブの起用方針など、いつもつかみどころはなかった。

「Jリーグでは200試合出場、300試合出場という表彰があったりするじゃないですか? その日はロッカールームでもお祝いムードになるというか。いつからか、周りの選手が僕に気を遣うようになったんです。自分は"俺さ、長くやってんのにベンチばっかりだからさ"なんて自虐ネタで笑わせられるタイプじゃないので、あれは困りました。ただ、自分には数字には出ないことを積み上げてきた自負はあるんです。数字だけ見ていたら、精神的にやられていますよ」

 小澤は苦笑を浮かべ、こう言葉を継いだ。

「パラグアイに渡った日本人移民の開拓時代の話を聞くと、自分の状況なんてなんでもないと考えられるんです。ジャングルに置き去りにされ、食糧も収穫できず、風土病に冒され、真面目な人ほど気が触れて崖から飛び降りたと聞きました。そんなとき、日本人はひたすらお月様を拝んで明日を信じたそうです。今の僕は、『明日、試合でゴールキーパーとしてお前の力が必要だ。力を貸してくれ』と言われたとき、すぐ戦える準備だけしているつもりです」

 小澤はGKとして、その日の練習で死んでもいい、という覚悟で挑んできた。彼と同じ志を、Jリーグのクラブで望むのは酷なのかもしれない。あまりに峻烈(しゅんれつ)な心構えといえる。それは周囲から見れば、狂気のように映るだろう。しかし、一流のプロアスリートはそもそも普通ではない。

「僕は自分のやっていることが、地味とか派手とか、そんなことは考えたことはないんです」

 小澤は古武士然とした剛直さで言う。

「2012年のJリーグの試合でのことです。久しぶりに会った(川口)能活が、『オザァ、すげえよ。おれより年上で現役なんてさ。スーパーグレートGKだよ!』なんて言ってきたんです。彼とはそんな会話を交わしたことなかったから、驚きましたね。僕は彼より2学年上なんですけど、能活のことはGKとしてリスペクトしてきたので、正直、彼の言葉に気持ちが熱くなったのを覚えています」

 96年のアトランタ五輪候補として凌ぎを削った二人は、記録や経歴だけを見れば、コインの表と裏のような人生を歩んでいる。しかしGKとしての覚悟は、なんら変わらないのかもしれない。あるいは、川口のように若い頃から殺気を表に出すことができていれば、小澤にも違った運命が開けていた、とも言える。だが、善良さと我慢強さから自我を抑えた十数年があるからこそ、今の小澤があるとも表現できる。

 プロサッカー選手、小澤英明は今も戦う場所を求め続けている。

 パラグアイ時代に小澤を高く評価したGKコーチは、今季のパラグアイリーグで優勝したナシオナルでコーチをしており、「戻ってこい!」と声を掛けてくることもあるという。少しも気持ちが動かないと言えば嘘になるが、"わがままは一度だけで十分だ"と弁(わきま)えている。そもそも、パラグアイのクラブでのプレイでは家族を養っていくだけの給料を稼ぐことは難しいのだ。

 たとえパラグアイではなくともGKとしての自分の覚悟に共鳴する存在が必ずある、と彼は信じている。

「最近、気付いてしまったんです。僕はサッカーが好きというより、ゴールキーパーであることが好きなんだなって(苦笑)。Arqueroと呼ばれると、心から喜びを感じるんですよ」

 Arqueroはアルケーロと読む。南米のスペイン語で、ゴールキーパーを意味する。親しい人へのメールやハガキの文末に、小澤は<Arquero Hide>と記すことにしている。

小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki