11月1日から、映画「42 〜世界を変えた男〜」が公開される。近代メジャーリーグ初の黒人選手であるジャッキー・ロビンソンを描いた作品で、タイトルの「42」は、ロビンソンがつけていた背番号だ。

 先行公開された米国カナダでは、公開から3日間で、2,730万ドルを売り上げ、初登場1位。野球映画史上、最高のオープニング記録を打ち立てた。

 ロビンソンがメジャーデビューを果たしたのは、1947年4月15日ブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)のオーナー、ブランチ・リッキーが、黒人への顧客層の拡大と、効率的な選手の獲得を目的に、ロビンソンに門戸を開いた。

 リッキーは1945年、黒人選手だけのプロ野球リーグであるニグロ・リーグで活躍していたロビンソンに注目。ドジャース傘下のマイナーチーム、モントリオール・ロイヤルズに入団させると、そこで実績を積ませ、1947年、ドジャースに昇格させた。

 その後のロビンソンの活躍は、既知の通りだ。ルーキーイヤーに新人王を獲得し、黒人選手でも十分メジャーで活躍できることを証明。これを機に、徐々にではあるが、他球団も黒人選手と契約するようになった。

 そんな功績を讃え、ロビンソンは1991年に殿堂入りを果たし、メジャーデビュー50年目にあたる1997年4月15日には、背番号「42」が全球団共通の永久欠番になった。

 さらにメジャーリーグは2004年、4月15日を「ジャッキー・ロビンソン・デー」と制定。以後、多くの選手がこの日に限り、背番号「42」を背負い、試合に臨んでいる。

 以上、ロビンソンの功績を駆け足で紹介したが、人種差別がまかり通っていた当時、ロビンソンが直面した試練は、われわれの想像を絶する。

 メジャーデビューを果たした直後、ドジャースを除く全球団が、ロビンソンがメジャーリーグでプレーすることに反対。フィラデルフィア・フィリーズセントルイス・カージナルスのように、「ロビンソンが出場するなら対戦を拒否する」と通告した球団もあった。

 ハッピー・チャンドラー当時コミッショナー、フォード・フリック当時ナショナルリーグ会長が問題の沈静化を図ったが、アンチ・ロビンソンの風潮はすぐには治まらなかった。

 スタンドや相手チームからは、口汚いヤジがロビンソンに降り注ぎ、球団事務所には、ロビンソン殺害を仄めかす脅迫状が連日のように届いた。相手チームからは、露骨な危険球や、スパイクの刃を見せるスライディングに見舞われた。

 チームメイトの中にも、「黒人と一緒にプレーしたくない」と主張する選手もいた。ホテル、移動のバス、レストランなどの待遇も、他の選手に比べ劣悪だった。

 そんな苦難を乗り越え、黒人選手の可能性を証明したロビンソンだが、1956年を最後に現役を引退。引退後は、公民権活動に積極的に参加し、黒人への差別撤廃に生涯を捧げた。

 そんなロビンソンへの敬意は、先に紹介したとおり。わが国でも、来日した外国人選手の多くが、背番号「42」を希望する。

 だが、ロビンソンは自身の活動には満足していなかった。そのことは、自伝のタイトルからも、読み取れる。タイトルは、「I Never Had It Made(私は、成功したわけではない)」だ。